富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「天にある永遠の住みか」
ヨブ記 19章21〜27節
コリントの信徒への手紙 二 5章1〜10節

小堀 康彦牧師

1.見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ
 今朝は、先に天の父なる神様の御許に召された方々を覚えて、召天者記念礼拝を捧げています。お手許にあります当教会の召天者名簿には、昨年の召天者記念礼拝から二名の方の名前が加わりました。今朝は多くの御遺族の方々が集われ、一緒に礼拝を捧げています。この名簿に名前のない方も含めて、先にこの地上での生涯を閉じられた方々を覚えて、私共はこの礼拝を捧げているわけです。
 さて、今朝与えられております御言葉の直前の所、コリントの信徒への手紙二4章18節に、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」とあります。「見えないもの」それは神様御自身であり、神様の御心であり、神様から注がれている愛であり、神様と共にある永遠の命でありましょう。「見えるもの」は、この地上の世界であり、私共の体であり、私共の地上の命でありましょう。私共のこの地上での命には終わりがあり、体はやがて朽ちていきます。しかし、それは見える命であって、それがすべてではないことを私共は知っています。

2.肉体の死ですべてが終わったのではない
 見えるものがすべてならば、肉体の死によって私共はすべてが終わってしまうことになります。しかし、そうではないと聖書は告げています。何故、そのように聖書は告げるのか。理由ははっきりしています。イエス様は十字架の上で死なれましたけれど、三日目に復活されたからです。そして、今も生きて働いておられるからです。もし、イエス様が十字架の上で死んで、それで終わっていたのなら、私共の命もまた、肉体の死と共に終わってしまうということになります。しかし、そうではなかった。イエス様は復活されました。そして、今も生きて働いて、主の日の度毎に私共に御言葉を与え、具体的な出来事を起こし、私共を導き続けてくださっています。そうでないなら、私共は主の日の度毎にここに集って何をしているのか。遠い昔に起きたことを思い出しているだけなのでしょうか。そうではありません。私共は聖書に記されているイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を思い起こしつつ、そのイエス様が今私共と共にあり、今も生きて働いておられることを知らされるのです。ですから、キリストの教会は二千年の間、生き続けてきたのです。イエス様は復活され、天に昇られ、今も生きて働いておられます。聖霊を私共に注いでくださり、私共と共に居てくださいます。確かに、私共の愛する者たちはこの地上の生涯を閉じました。しかし、それですべてが終わったのではないのです。
 私共は、この地上での生涯を閉じた人のことを「召天者」と呼びます。文字通り、「天に召された者」です。天とは、地面から何万メートル上にある場所ということではありません。神様がおられる所、イエス様がおられる所、神様の御心が完全に行われる神の国のことです。地上の生涯を閉じた者は、そこに召されたのです。召されて行ったのであって、自分で昇って行ったのではありません。神様が招いてくださって、御自身のおられる所に召してくださったのです。愛する者がこの地上の生涯を閉じる。死を迎える。それは本当に悲しいこと、辛いことです。しかし、それで終わりではありません。
 週報にありますように、私は先週の月曜日の未明に、妻の母を天に送りました。水曜日・木曜日と千葉県茂原市という所ですが、私が行きまして前夜式・葬式を執り行ってきました。私共夫婦と娘の他に、三人の教会員の方が遠方にも拘わらず来てくださいまして、共に賛美をし、祈りを合わせました。本当に感謝しております。そこでお話ししたことも、この肉体の死ですべてが終わったのではないということでした。すべてが終わったのでないならば、何があるのか。それは、天における命、永遠の命、復活の命です。これは肉体の死によっても滅びることのない命です。今朝与えられております御言葉は、そのことをはっきり私共に告げております。

3.地上の住みかと天にある永遠の住みか
 5章1節「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」と告げています。少し分かりにくいのですけれど、ここで言われております「地上の住みかである幕屋」とは、私共の肉体のことです。この地上の住みかである肉体が滅んでも、天に永遠の住みかがあると聖書は告げるのです。地上の住みかは幕屋(これはテントを連想していただいて良いと思います)と言われています。幕屋・テントは、旅をする時に用いるものです。遊牧民はこの幕屋・テントで生活します。これを住みかとして羊に食べさせる草を求めて旅をする。この幕屋・テントは、ずっと一箇所で生活するためのものではありません。つまり「仮の宿」です。私共のこの肉体も、天の国に向かって旅するための、この地上の命の「仮の宿」だということです。そして、この地上の生涯を閉じ、神様の御許に召されたなら、私共は「永遠の住みか」として「神様によって備えられている建物」に住むようになるというのです。この「永遠の住みか」としての建物が、復活の体、永遠の命の体というものです。イエス様が十字架の上で死んで三日目に復活した、あの体です。それが備えられているのです。これは、私共が努力して手に入れることが出来るようなものではありません。「人の手で造られたものではない」「神様によって備えられている」ものです。

4.キリストを着る
それは、地上の生活をしている私共には、この地上の歩みの中で手に入れることは出来ません。だから、2節「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」と言われるのです。ここで体のたとえが、建物から着物に変わっています。私共は、この地上にあっては永遠の命の体を得ることは出来ません。ですから、この地上にあっては肉体の痛み、苦しみから逃れることは出来ないのです。しかし、この地上の生涯が閉じられた後、天上の永遠の住みかが与えられ、天から与えられる永遠の命の着物を着ることになります。それは、イエス・キリストの復活の体です。天において、私共はキリストを着るのです。
 この罪に満ちた体、地上の生活、そのすべてが、まことの神の独り子であるイエス様に飲み込まれ、イエス様を着る者となる。それは実に、まことの神の独り子であるイエス・キリストに似た者にされるということです。神の子にふさわしい者とされるということです。互いに愛し合い、支え合い、仕え合う、完全な愛の交わりを形作る者となるということです。私共はそこを目指して、この地上の生涯を歩んでいるのです。私共のこの地上の生涯は、目に見える何か、過ぎ去り朽ちていく何かを手に入れるためではなくて、この目に見えない天にある永遠の命の体、キリストに似た者に変えられるという救いの完成、そこを目指して歩んでいるのです。
 私共は今朝、先に天に召された愛する者を思い起こしつつ礼拝を捧げているわけですけれど、その愛する具体的なあの人この人の歩みは、決して完全なものではなかったことを私共は知っています。近くで生活していれば、嫌な思いをすることもあったかもしれません。しかし、それでも彼らは天を目指して歩んでいた。その歩みにおいてまことに不十分な者、不徹底な者であったとしても、彼らの歩みは目指す所がはっきりしていたものでした。それは天の御国です。

5.聖霊を与えられて
 私共はこの地上の生涯において、イエス様を「我が主・我が神」と信じ拝む信仰を与えられました。これは、私共が信仰深かったからでも、真面目だったからでも、賢かったからでもありません。ただ神様の憐れみによって、私共に神の霊、キリストの霊である聖霊が与えられたからです。聖霊が与えられていること、それが私共に永遠の命の体が与えられることの保証なのです。この「保証」と訳されている言葉は、「手付金」という意味の言葉です。私共は、この地上においては永遠の命の体を手に入れることは出来ません。しかし、それがやがて与えられることの保証として、手付金として聖霊が与えられ、信仰が与えられたのです。この聖霊が与えられている、信仰が与えられていることの確かなしるし、それが天の国を目指す者とされているということです。見えないものに目を注ぐ者とされているということです。
 この世は、目に見えることしか評価しません。その人の能力、富、社会的地位等々。しかし、それらはすべて朽ちていくものです。どんなに美貌を誇ったとしても、歳をとれば若い時のままではいられません。どんなに化粧しても隠せるものではありません。どんなに運動が出来ても、健康であっても、やがては衰えていきます。そして、その先に死があります。見えるものにだけ心を注ぎ、生き甲斐を見出しているのならば、すべてが死に飲み込まれて終わってしまうでしょう。しかし、見えないものに目を注ぎ、心を注いで人生を歩む者は、すべてが死に飲み込まれるのではなくて、主イエス・キリストの命、永遠の命に飲み込まれ、これと一つとされ、復活の希望の中でこの地上の歩みを為していくことが出来るのです。だから、「心強い」のです。自分の人生が、為してきたことが、空しくなることがないのです。神様はすべてを御存知です。そして、天における永遠の命をもって報いてくださるからです。

6.損得勘定を超えて
 私は若い時、信仰は既に与えられておりましたけれど、この天の命、永遠の命について、正直な所、あまり興味がありませんでした。自分が死ぬということ自体、遠い先のことだと思っていたからでしょう。死の先にあることなど、どうでもいいとまでは思っていませんでしたけれど、ピンとくることはありませんでした。しかし、愛する者の死というものに直面し、何人もの人の死に立ち会い、葬式を執り行う中で、私共に本当になくてはならないものは何か、そのことを少しずつ教えられてまいりました。それは、この肉体の死を超えた所にある希望であり、決して過ぎ去ることのない命の希望です。この永遠の命の希望の中で、私共はどんな状況にあっても、愛する者の死という厳しい現実にも、決して潰されることはないということを知らされました。
 この希望に生きる者は、天の国を目指しつつ、「主に喜ばれる者でありたい。」と願う者となります。ここで私共は、損得勘定というものから自由になります。目に見えるものにしか目を注がない者にとって、この損得勘定というものは大変重要な行動基準となります。しかし、損得勘定で生きている限り、人は愛を知ることが出来ません。何故なら、愛は喜んで人のために損をすることだからです。しかし、地上の生涯を超えた永遠の命、復活の命の希望に生きる者は、損得勘定が行動基準ではなくて、「主に喜ばれること」が行動基準となります。そこに、愛に生きる新しい歩みが展開していきます。平気で損することが出来る人間が誕生するのです。それは、美しい人生と言っても良いでしょう。主イエス・キリストの十字架の美しさに繋がる美しさです。ひたすら主に喜ばれる者であろうとする者は、この美しさに生きるようになります。
 私共は、先に天に召された方々を思い起こして、そこに一筋の美しさがあったことを思うのです。人間としてはそれぞれ欠けもあった。しかし、美しかった。それは、損得勘定抜きで私を愛してくれたという美しさでした。今、私共はそのような出会いを与えられたことを、本当に心から感謝したい。そして、私共もまた、そのような美しさの中に生きていきたいと思うのです。目に見えるものではなく、目に見えないもの、神様御自身であり、神様の愛であり、天にある永遠の命、そこに目を注いで、主に喜ばれることを第一として、イエス様の言葉、聖書の言葉に生かされ、これに信頼する者として歩んでまいりたい。そう心から願うのです。

[2017年10月29日]

メッセージ へもどる。