富山鹿島町教会

伝道礼拝「礼拝とコンサート」説教

「神と共にある人生」
詩編 118編1〜9節
ローマの信徒への手紙 8章31〜39節

小堀 康彦牧師

1.はじめに:証言としての聖書について
 今日、皆さんと一緒に聖書の言葉に耳を傾け、共に祈りを合わせることが出来ますことを、心から嬉しく思っております。  今日、初めて教会に来られたという方、聖書の言葉を初めて聞いたという方もおられるかと思います。この講壇に置かれています分厚い本が聖書ですけれど、これは、旧約の部が1500ページ、新約の部が480ページあります。合わせて約2000ページにも及ぶ膨大な本です。しかも、上下二段に書かれておりますから、これを読み通すだけでも中々大変です。この中に旧約39、新約27、合わせて66の書が集められています。(旧約が39の書,新約が27の書ですから、これはサンクニジュウシチと覚えれば良いです。)聖書は一冊なのですけれど、そこには66の書があるわけです。しかも、内容は多岐にわたっておりますし、書かれた時代も違います。旧約聖書の39の文書は、古いものですと紀元前の千数百年前に遡りますし、新しいものでも紀元前数百年前に記されたものです。ですから、旧約聖書は書かれ始めてから終わるまで、千年もの時間を要しています。これがどれほど長いかと言いますと、日本で一番古い小説は源氏物語ですが、これが書かれたのがだいたい今から千年ほど前です。つまり、旧約聖書は、源氏物語が書かれ始めてから現代に至るまで書かれ続けるという、そのような長い時間の中で成立した書だということです。書かれた時代が違うのですから、当然、登場する人物も沢山いますし、書かれた状況も大変幅の広い書物です。新約聖書の27の文書は、旧約ほどの年月はかかっていませんけれど、それでも百年弱はかかっています。大体紀元後1世紀に書かれたものです。ですから、聖書全体で考えますと、書かれ始めて終わるまで千五百年くらいかかっているわけです。そして、その後二千年にわたって読み続けられてきた。それが聖書です。
 旧約聖書は千年もの間書かれ続けたものですし、その内容も、神話からイスラエルの歴史、神様の律法、預言、更には詩や格言集、文学作品としての物語まであります。新約聖書はイエス様の言葉や為された業を記した福音書、そして弟子が為したことが記されている使徒言行録、そして弟子たちの手紙、更に終末についての預言が記されています。分量も膨大ですし、書かれた時代も長きにわたり、書かれている内容も多岐にわたる、この聖書をどう読めば良いのか。これは、中々大変な課題です。しかし今朝、私は一つのことを皆様に申し上げたいと思っています。それは、どんなに内容が多岐にわたり、書かれた時代が長きにわたっていようと、そこには一筋の太い線と申しますか、貫いているものがあるはずです。これが無ければ聖書とは言えない、これが無ければ聖書に入れることが出来ないというものがあるはずです。それが何かと申しますと、「証言」ということなのです。証言、それは裁判において証人が、「あの日こういうことが起きたことを私は見ました。聞きました。」と証言する、あの証言です。その証言の内容は、いろいろな言い方が出来ますけれど、今日皆様にお伝えしたいことは一つです。その証言とは、「神様は私の味方だ。」という証言です。

2.強い味方が欲しい私共
 私の前任地の教会には、幼稚園がありました。そこでは、子どもたちが毎日、楽しく賑やかに生活していました。子どもたちの感性は、とても楽しく面白いものでした。私は牧師ですが、なぜか「ボクシング」と呼ばれていました。駄洒落なのでしょうけれど、これはなぜか代々受け継がれて、ずっと私は「ボクシング」でした。
 子どもが時々ケンカをします。すぐに手が出てしまう子もいますけれど、口げんかになる時もあります。そうなると、大抵女の子の方が強いのですが、負けそうになった男の子が「僕には、小学4年生のお兄ちゃんがいるんだぞ。お兄ちゃんは、とっても早く走れるんだぞ。お兄ちゃんに、言ってやる。」などと言います。すると相手も、「私にだって、5年生のお姉ちゃんがいるもん。あたしだって、お姉ちゃんに言ってやる。」なんてことになります。4年生のお兄ちゃんが5年生のお姉ちゃんに負けたと思った子は、更に「僕のお父さんは、バイクに乗れるんだぞ。」なんて言い始めます。これはどこまでも続いていきます。聞いていて結構面白いのですが、小学校の4年生のお兄ちゃんがいる。小学5年生のお姉ちゃんがいる。お父さんがバイクを運転出来る。それがどうしたと私共は思いますけれど、この幼稚園児の口げんかには、「自分にはこんな強い味方がいるんだぞ。だから、その強い味方のお兄ちゃんやお姉ちゃんに言ったら、お前なんですぐにやられちゃうんだ。」そういう思いが表れているのでしょう。私は、その子どもたちの口げんかを聞きながら、人は強くそして優しい、何時でも自分の味方をしてくれる人を必要としている。そう思ったのです。
 大人はこんな口げんかはしません。しかし、自分の見方をしてくれる方、それはとても強くとても優しい方、それを必要としているのは同じだと思うのです。「私はそんな味方は要らない。私は独りで生きていく。」そう言う人もいるかもしれません。でも、本当にどんな敵もやっつけてくれるほどに強くて、どんな時でも味方になってくれる人がいれば、どんなに良いか。しかし、そんな人を求めるだけ無駄なので、自分は独りで生きていく。そう言っているだけなのではないでしょうか。本当にいつも自分の味方をしてくれて、守ってくれる、そんな強い方がいればどんなに嬉しいことか、どんなに安心なことか。でも、そんな人はいない。たとえそんな人がいたとしても、自分のことをそんなに大事にして、何時でも自分の味方をしてくれるはずがない。そんなうまい話はない。お父さんだって、お母さんだって、夫だって、妻だって、私をいつも守ってくれるほどの力は無いし、いつも私の味方だとも言い切れない。だから、私は独りで生きていく。そんな風に思っている方もおられるかもしれません。

3.神様があなたの味方です
 しかし聖書は、この厚い本のどこを開いても、私に味方してくださる神様がおられる。その神様は天と地のすべてを造られた方です。どの森や山にも居るような神様ではありません。天地を造られた、ただ独りの神様です。この方は世界最強、宇宙最強です。だって、この方が天と地のすべてをお造りになられたのですから。ビックバンだって、この方がおられなければ起きやしません。天地が造られる前からおられ、この宇宙が終わるその時にも変わることなくすべてを支配される、ただ独りの神様です。そのただ独りの神様が、この私の味方だと告げている。それも、「そうだったら良いのにな。」ということではなくて、「本当にそうなのです。わたしはそのことをはっきり知らされました。なぜなら、このような出来事があったからです。」と告げているのです。このような証言が詰まっているのが聖書なのです。
 しかも、この神様は、私共が悪いことをしない善人だから私共の味方をしてくれるというのではないのです。悪人である人が、悔い改めて善人になったら味方になってくれるというのでもないのです。私共が善人であっても悪人であっても、私共を愛し、私共の味方となってくださると言うのです。そもそも、天地を造られた方に愛されるほどの善人など一人もいません。皆、大なり小なり、罪を犯している。神様に愛されるほどに完璧な善人など、どこにもおりません。でも、宇宙最強のただ独りの神様は、私共一人一人を愛してくださると言うのです。理由は分かりません。ただ言えることは、神様は私共人間を御自分に似た者として造ってくださった。つまり、人間が造られた時から、神様は私共を特別扱いしてくださって、私共を愛してくださったということです。
 先ほどお読みしました聖書の言葉を見てみます。ローマの信徒への手紙8章31節「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」これは、反語です。「もし神がわたしたちの味方であるならば」と言っていますけれど、「もし」と言って仮定しているようですけれど、これは反語という表現方法で、強調したい時に使う言い方です。つまり、パウロがここで言おうとしているのは、「神がわたしたちの味方であるのだから、だれもわたしたちに敵対することはできない。」ということです。これは強烈な断言です。

4.神様が味方であるとは?
 では、神様が私共の味方であるとは、どういうことなのでしょうか。神様が私共の願いを何時でも叶えてくれるということでしょうか。人生において、困難にも苦難にも遭うことがないということでしょうか。
 この言葉を記したパウロというイエス様の弟子は、困難にも苦難にも遭わず、平穏無事な人生を送ったでしょうか。実は、それとは正反対の人生を歩んだ人でした。彼は、キリスト者を迫害する熱心なユダヤ教徒でしたけれど、ちょうどキリスト者を捕らえて牢に入れようとしていた時、復活されたイエス様と出会い、一切の罪を赦され、逆にキリスト教を伝道する者に変えられた人です。新約聖書の約4分の1は彼が書いた手紙です。彼は3回の伝道旅行を行いますが、その旅は、町でイエス様の救いを宣べ伝えると迫害され、次の町に逃げるようにして行く。その町で伝道していると、やっぱり迫害を受けて次の町に行く。そんなことの連続でした。鞭打たれ、牢に入れられ、石を投げられ、それでもイエス様の救いを宣べ伝えた人です。そして、最後は皇帝ネロの時に殉教したと言われています。こんな人生を歩んだ人の言葉を信用出来るでしょうか。「神がわたしたちの味方であるのだから、だれもわたしたちに敵対することはできない。」と言うけれども、それは本当なのか。神様が味方ならば、どうしてパウロは殉教してしまったのか。パウロだけではありません。イエス様の一番弟子のペトロも、ヤコブも、十二使徒と呼ばれるイエス様の弟子たちの多くが殉教しました。
 一体、神様が味方であられるとは、どういうことなのでしょうか。幾つも挙げられるとは思いますが、神様が私共の味方であるということは、神様が私共を愛してくださり、悪しき力から守ってくださるということです。悪しき力とは、私共を神様から離れさせようとする様々な罪の誘惑、或いは誘惑する者です。そして、その究極には死があります。パウロは、35節で「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」と告げます。これは、パウロが伝道した日々において、実際にパウロを脅かしたものだと思います。彼は迫害に遭いました。飢えも経験しました。剣で殺されそうにもなりました。しかし、それに屈することはありませんでした。彼が特別に強い精神力を持っていたからでしょうか。そうではないと、パウロは告げます。32節「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」とパウロは告げています。パウロは、天地を造られたただ独りの神様が、私のために愛する独り子イエス様を十字架におかけになった。私のために、私に代わって。イエス様が私の身代わりとなって、神様の裁きをお受けになられたから、もう私は裁かれない。それどころか、神様は私に良きものすべてを与えてくださった。それは、愛であり、信仰であり、希望であり、何よりも永遠の命です。イエス様は十字架にお架かりになって三日目に復活された。この命を、私は与えられた。だから、死は私の最後ではなくなった。私共を脅かす、最後の親玉である死。それさえも神様はイエス様の復活によって滅ぼされ、死によって終わることのない命を与えてくださった。だから、私を脅かすものは何も無くなった、とパウロは高らかに宣言しているのです。
 パウロは、神様との深い愛の交わりの中に生きる者とされました。これこそが、私共に与えられた救いであり、新しい命です。私共は、パウロと共に「神がわたしたちの味方であるのだから、だれもわたしたちに敵対することはできない」、そう言うことが出来る者として招かれているのです。今日は、パウロについて見ましたけれど、パウロだけではありません。聖書には、おびただしい数の証人が出てきます。生きていた時代も、環境も違いますけれど、皆、パウロと同じように「神様は私の味方だ。だから、私は何も恐れることがない。」と、自分の生涯の歩みを通して証ししているのです。私共が生きている場所は、皆違います。担わなければならない課題も違います。しかし、神様は永久から永久まで変わることはありません。ですから、その神様との交わりの中で与えられる証言は、時代を超えて、状況を超えて、同じ響きがあるのです。「神様は私の味方だ。だから、私は何も恐れることはない。」そのように、神の民は三千年に渡って証言し続けてきたのです。神様が、私共と共に生きてくださり、その全能の御手をもって私共を守ってくださっている。だから、私共は何も恐れなくて良いのです。
 私共は、例えば歯が痛いというだけで意気消沈してしまうような、情けない、弱い者です。でも、神様は強い。私のために、私に代わって、一切の悪しき者と戦ってくださるのです。だから、何も恐れなくて良いのです。死さえも恐れなくて良いのです。この肉体の死が最後ではないからです。

5.祈りは叶えられるのか?
 さて、神様が味方であるとするならば、私共が祈り願うことは何でも叶えてもらえるのでしょうか。確かに、私共の祈る祈りを神様は何時でも聞いていてくださいます。しかし、いつでもその願いを叶えてくださるとは限りません。
 キリスト者は誰でも、二つの経験をしています。一つは、祈りが叶えられたという経験です。これは、喜びの体験です。しかし、それだけだけではなくて、もう一つの経験をしています。それは、祈っても祈っても叶えられないという経験です。それは、私共が願い求めるものが、いつも私共にとって一番良いもの、一番良い状況であるとは限らないからです。私共は困難な時、この状況がこのように変わってくれれば良いのにと考えます。それが一番良いということを疑いません。しかし、自分にとって本当に一番良いとはどういうことなのか、私共はよく分かってはいないのではないでしょうか。自分のことは、自分が一番良く分かっているというのは、私共みんなが持っている幻想です。私共は、自分のことを本当に良く分からないのです。よく分かっていれば、「オレオレ詐欺」に引っかかる人なんていません。熱が出て具合が悪くなっても、どこが悪いのか、私共には分かりません。だから、お医者さんに行くのでしょう。自分の体のことさえ分からない。まして、私共は自分の将来のことは、全く分かりません。しかし、分かっておられる方がいる。それが全能の父なる神様です。神様は私共をお造りになられましたから、私共以上に私共のことを御存知です。聖書の神様は「父なる神様」です。つまり、私共を「我が子」として愛してくださっている神様です。ですから、私共を悪いようにされるはずがないのです。
 私はいつも言っているのですけれど、私共が自分の祈りが叶えられない時、その理由は三つしかありません。一つ目は、その祈りが全く神様の御心に適わない場合です。例えば、「宝くじに当たりますように。」という祈りですが、私共を幸いにするのは富ではなくて、神様との交わりですから、神様を自分の利益のために利用しようというような祈りを叶えようとはされません。二つ目は、その祈りを叶えられる時がまだ来ていないという場合です。すべてのことが成っていくには、時があります。その時をお決めになるのは神様です。病気になって、いやしを祈り求める。その祈りが叶えられるにしても、その時をお決めになるのは神様です。三つ目は、神様が、私共が願い求めるものよりももっと良いものを与えようとしておられる場合です。
 祈ってもそれが叶えられない時、それはこの三つの場合しかないのですから、私共は安心して祈り願ったら良いのです。神様は、あなたと共に歩もうとしてくださっています。私共は、この神様の思いを、喜びと感謝をもって受け取れば良いのです。ただそれだけで、私共は神様と共にある、新しい命の歩みへと一歩を踏み出していくことになるのです。

[2017年10月22日]

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