富山鹿島町教会

礼拝説教

「主の赦しの中で招かれて」
イザヤ書 6章1〜8節
マタイによる福音書 9章9〜13節

小堀 康彦牧師

1.今も私に語りかける神の言葉
 私共は主の日の度毎にここに集い、聖書の言葉を聞き、神様を礼拝しております。聖書の言葉を通して私共に語りかけられる神様の言葉を聞く。これは本当に不思議なことです。新約聖書は二千年近く前に記されたものですし、旧約聖書は二千五百年以上前に記されたものです。遠い昔に地球の裏側で起きた出来事が、今朝も私共に語りかける神様の言葉として語られ、聞き取られる。本当に不思議なことです。そして、聖書に登場してくる一人一人が私共自身と重なってくる。私共は聖書の言葉を、昔々こういうことがあったのか、こんな人がいたのかと、映画やテレビを観るように眺めるのではなくて、この聖書に記されている出来事は私に起きたことだ、この人物は紛れもなく私自身だと読みますし、聞き取ります。そのことによって私共は、聖書に記されているイエス様の言葉を、今自分に語られているイエス様の言葉として聞くわけです。このことによって私共はイエス様の現臨に触れ、イエス様を我が主・我が神として拝む。これはまさに、聖霊なる神様によって引き起こされる出来事です。教会は、キリスト者は、この聖霊なる神様の御業と共に、その御業の中を二千年の間歩んで来ました。今もそうです。聖書の言葉が、昔々のこととして読まれ聞かれたのならば、どうして二千年の間語り続けられたりするでしょうか。とっくの昔に、聖書は読まれることもなくなり、人々の間から忘れ去られたことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。毎週、主の日の度毎に、今私に語られる神の言葉として聞き取られ続けてきたのです。

2.徴税人
 今朝与えられている御言葉は、9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」と始まっています。「そこをたち」というのは、先週見ましたように、イエス様はガダラ人の地方で悪霊に取りつかれた二人の人から悪霊を追い出し、「自分の町」、イエス様がガリラヤ伝道の拠点とされていた町カファルナウムに戻って来られました。そこで中風の人をいやされた。そして、「そこ」から移動されたということです。多分、イエス様の周りには、弟子たちの他にも大勢の人々がついてきたのではないかと思います。イエス様を囲むように人々がいて、イエス様たちは道を歩いておられた。そして、イエス様が通る道に収税所があって、その収税所に座っていた一人の男をイエス様は見た。その男がマタイだったというのです。
 収税所に座っていたのですから、マタイは徴税人であったと考えて良いでしょう。口語訳では取税人と訳されておりました。この徴税人・取税人は、当時のユダヤにおいては罪人と考えられておりました。そして、一般のユダヤ人からは、一緒に食事をすることも禁じられ、裁判の証人として立つことも許されず、言わば真っ当なユダヤ人としては扱われていない人でした。
 この収税所を今の税務署、徴税人を今の税務署の職員と考えてはいけません。当時ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。支配するということは、税金を取るということです。ローマはこの税金を徴収するために、実に独得な、そして巧妙なシステムを持っておりました。それは、ある地域の税金を取り立てる権利を競売にかけて売るのです。この権利を落札した人は、その代金をローマに納めます。それでローマが税金を徴収する仕事は終わりです。税金を集めるという面倒な仕事は、ローマは直接にはやらないのです。この権利を買った人が「徴税人の頭」です。この頭の下にたくさんの徴税人が雇われて、実際に税金を集める仕事をする。言わば、ローマは税金を集める仕事を完全に民間委託したわけです。この権利を買った人は、当然のことですが、手数料を上乗せし、さらに自分の取り分を加えて人々から税金を取る。ローマから買った「税金を徴収する権利」を、最大限に生かしたはずです。いつの時代でも税金を払うのは嫌でしょう。しかも、ユダヤ人たちは、自分たちを支配するローマに税金を納めるのです。嫌だけれども、逆らえばローマに反抗したということで捕らえられてしまう。誰も逆らえません。徴税人たちは、ローマの権威を笠に着て徴税していったのです。このシステムでは、支配するローマに対する反感は、直接自分たちから税を取り立てていく徴税人に向けられることになります。これがローマの狙いでもあったわけです。徴税人は、同胞であるユダヤ人たちから売国奴と言われ、真っ当なユダヤ人として扱われませんでした。でもお金は持っている。徴税人自身も、人々からそう思われていることを知った上で、税金と称して定められた以上のお金を取り立てていた。現代の日本で言えば、ヤクザとヤクザに対する社会の扱いと似ていると思います。
 税金の主なものは人頭税です。人頭税は、その家に居る人間の頭数で税金の金額が決まります。これは、あまり誤魔化せません。しかし、通行税はかなり自由でした。通行税を取るための収税所は、港とか、船着き場とか、大きな道沿い、町の門などにありました。イエス様たちがこの時通りかかったのも、そのような収税所の前だったと思います。そこに一人の男が座っていた。まさに通行税を取り立てていたのかもしれません。その男をイエス様は見たのです。チラッと見たのではありません。じっと見た。そして言われたのです。「わたしに従いなさい。」するとこの男は「立ち上がってイエスに従った。」実に素っ気ないほどにさらっと聖書は記します。

3.マタイの召命
 この男の名はマタイ。マタイによる福音書10章2節以下に、イエス様の十二人の弟子たちの名前が記されています。その中に「徴税人のマタイ」とあります。実に今朝与えられた御言葉にありますマタイこそ、この十二弟子の一人のマタイなのです。そして、このマタイによる福音書を記したマタイなのです。彼は徴税人でした。これは驚くべきことです。現代の日本に置き換えますと、元○○組の組員であった人が牧師をしている、長老をしている、そういうことです。
 私共は、ここを何気なく読んでしまいますが、ここには十二弟子の一人であるマタイがイエス様に召し出された時のことが記されているのです。ここを読んですぐに気付くことは、マタイはイエス様に召し出された時の状況や気持ちなどは一切記していないということです。マタイは、徴税人であることが嫌で仕方がなかったとか、真っ当なユダヤ人として扱われないことを嘆いていたとか、そんなことは一切記していない。そういう思いがあったかもしれない。けれどマタイは、自分がイエス様の弟子となった時に決定的だったのは、自分の気持ちなどではない。ただイエス様がわたしを見たこと、そして「わたしに従いなさい。」と招いてくださったことだ。だから、そのことだけ記しているのです。
 マタイは収税所に座っていた。いつもと同じように、人に嫌われる仕事をしていた。罪のただ中に生きていた。そのマタイをイエス様は見て、「わたしに従いなさい。」と招かれた。マタイは、新しくなりたいと願い祈っていたのでもなければ、イエス様に従いたいと思っていたけれどそれが出来ずにその日も収税所に座っていたというのでもないのです。小説家ならそんなストーリーを作るでしょう。しかし、聖書はそんなことは一言も言っていません。ただイエス様が自分を見た。そして「わたしに従いなさい。」と招かれた。だから自分は立ち上がってイエス様に従った。
 ここで「立ち上がって」と訳されている言葉は、先週の中風の人がいやされた時の「起き上がり」と訳されている言葉と同じです。「復活」をも意味する言葉です。マタイはイエス様のまなざしと招きの言葉によって復活した。「新しい人マタイ」に変えられてしまったのです。
 キリスト者になるということはそういうことです。私共も皆そうでした。私共はイエス様のまなざしに出会ったのでしょう。罪のただ中にいた私、いや罪のただ中にいるということさえ分からなかった私。その私をイエス様はじっと見た。そのまなざしは私を非難するのでもなく、叱るのでもなく、ダメな奴だと見下すのでもない。ただ、私のすべてを見通し、私のすべてを知った上で、私のすべてを受け入れてくださる、実に愛に満ちたまなざしでした。そして、イエス様は私に告げられた。「わたしに従いなさい。」このイエス様の言葉によって、私共はキリスト者となったのです。
 ここに集う度毎に、三つの出来事が私共に起きます。一つは、自分は罪人であるということを知らされること。一つは、自分の罪は赦されたということを知らされること。これは、どちらか一方ではありません。この二つは、イエス様のまなざしに出会い、「わたしに従いなさい。」との御言葉によって、私共の上に起きることです。この二つのことは、イエス様と出会うことによって私共の上に同時に起きる出来事です。そしてもう一つ。このイエス様との出会いによって新しい私、イエス様に従う私が生まれるということ。私共はただの罪人です。しかし、イエス様に愛され、赦され、招かれた。このことによって私は、イエス様を愛し、イエス様を信頼し、イエス様に従う者とされて、ここから出て行くのです。

4.イエス様と一緒の食事
 さて、イエス様はマタイを召し出した後、一緒に食事をしました。その食事の席には、徴税人や罪人も大勢やって来て同席しました。福音書には食事の場面がよく出てきます。それは、この食事というものが、互いに心を開いた仲間であるということを示すものだからです。食事に宗教的意味があるのです。教会でも、イースターやクリスマスなどの時にはほとんどの教会で祝いの会を行います。そこでは食事を一緒にします。食事を共にして、自分たちがイエス様によって一つにされた仲間であることを味わうわけです。
 また、教会では「聖餐」という食事もします。イエス様の体と血とに与るとても大切な食事です。イエス様と一つにされる食事だからです。この聖餐は、天上における食事を指し示し、天上の食事へと繋がっています。
 この時、ファリサイ派の人々がこの食事の席を見ていました。この時、ファリサイ派の人々はこの食事の席にはいなかったと思います。外で見ていた。何故なら、彼らにとって徴税人や罪人と一緒に食事をするのはとても考えられないことだったからです。あんな奴らと仲間になるなんてあり得ないと思っていたのがファリサイ派の人々でした。自分たちは正しく、神の民であり、律法を守っている。律法を守らないあんな罪人と一緒なんて、絶対にご免被りたい。そう彼らは思っていたからです。そして、彼らはイエス様の弟子たちにこう言います。11節「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」これは、律法を守る正しい人だけが神様の救いに与ることが出来ると考えていた彼らにしてみれば、当然の反応でした。あなたたちの先生は神の国について教え、律法を解釈し、人々を導いている方ではないか。だったら、どうしてあんな人たちと一緒に食事をするのか。救われることなど決してない人々と一緒に食事をするのか。どうしてあんな人たちの仲間になるのか。あり得ない。そう言ったのです。
 私はここで、このファリサイ派の人々のあり方にも私共自身の姿を見るのです。どこかで、あの人はイエス様を知らないからダメだ、あの人は自分の罪が分かっていない、そんな風に人を裁いてしまっている所がないでしょうか。

5.正しい人を招くためではなく、罪人を招くために
 しかし、イエス様は言われるのです。12〜13節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」医者を必要とするのは病人です。それは当たり前です。健康な人に医者は要りません。それと同じように、イエス様が来られたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためでした。私共は、神様の御前に立てばただの罪人に過ぎません。しかし、その私共のためにイエス様は来てくださった。一切の罪を赦し、私共を神の子として新しい命に生きる者とするために、イエス様は来られた。
 私は月に二回、富山刑務所に行っています。一回は個人教誨と言って、一対一でお話を聞いたり、聖書の話をしたりします。もう一回は集団教誨と言って、聖書研究クラブというクラブ活動をしています。クラブには俳句とか座禅とか民謡とか色々あるのですが、この集団教誨の時には刑務官が一人必ず側にいて話を聞いています。そこで聖書の話をしながら、受刑者の人に、「神様から見れば、あなたたちもここにいる刑務官の人も同じ罪人です。」そう言います。刑務官の人は、何を言っているの?という顔をしますが、受刑者は笑いながら大きく頷いたりします。刑務官の人は、私が受刑者に聖書の話をすることは喜んで歓迎しますが、決して自分に語られていると思っては聞きません。自分には関係ないと思っているからです。自分は正しい刑務官であって、罪を犯した受刑者とは違う。そう思っているからでしょう。もちろん、この世においては受刑者と刑務官とは同じではありません。しかし、神様の前に立つならば、同じ罪人でしかないのです。
 この刑務官と同じように、ファリサイ派の人々は、自分が病人、つまり罪人とは考えていなかった。だから、赦しを求めようとしなかったし、イエス様の行動が理解出来なかったのでしょう。確かに、健康な人には医者は要りません。しかし、罪を赦していただかなくてもよい程に完全に正しい人などいるでしょうか。一人もいません。人は皆、神様の御心よりも自分の損得しか考えない罪人なのです。

6.これが福音です
 皆さん、病人が集まっている所はどこでしょうか。病院ですね。では、罪人が集まっている所はどこでしょうか。刑務所。いや教会です。正しくは、自分が罪人だと知っている罪人が集まっている所ですけれど。教会は罪人の集まりなのであって、良い人ばっかりがいて、清く・正しく・美しくというような理想的な共同体ではないのです。
 病人は自分の体の具合が悪くなってから病院に行きます。すると、時々「手遅れです。」と言われてしまうことがあります。しかし、罪人が神様に赦していただくのに、手遅れということはありません。どんなに深い恐ろしい罪を犯した人でも、イエス様のまなざしに出会い、イエス様の招きを聞き、これに応えるならば、私共は新しくなれます。神の子・神の僕として新しい命に生きることが出来ます。例外はありません。ですから、私は刑務所に毎月行くのです。彼らも変われる。その可能性があるからです。神様がそのように為してくださるからです。
 私共がそうであったように、罪人は自らが罪人であるということを知りません。ですから、救いを求めたりもしない。しかし、そのような罪人のためにイエス様は十字架にお架かりになって、私共の一切の罪の裁きを受けられました。だから、どんな人でも神の子・神の僕として新しくなることが出来ます。そして、神様によって一切の罪を赦され、永遠の命に与ることが出来る。これが福音です。
 私共は来週の主の日、「礼拝とコンサート」と銘打って、伝道礼拝・伝道集会を開きます。「礼拝とコンサート」だから、伝道礼拝・伝道集会ではないと勘違いしないでください。中身は伝道礼拝・伝道集会です。この「礼拝とコンサート」に初めて教会に集う人たちは、自分が罪人であることを知って、それ故神様に赦しを求めるという人たちではないかもしれません。しかし、そのような人たちをもイエス様は愛し、招いておられる。その人たちのためにもイエス様は十字架にお架かりになった。皆さんの友人や家族のうち誰一人として例外はなく、神様に愛され、新しい命に生きるようにと招かれています。ですから是非、友人や家族の人を、一人でも良いですからお誘いください。一人でも多くの方が福音に出会い、救いに与る。それが神様が何よりも望んでおられることだからです。

[2017年10月15日]

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