富山鹿島町教会

礼拝説教

「我らの罪を赦す、権威あるお方」
エレミヤ書 50章17〜20節
マタイによる福音書 9章1〜8節

小堀 康彦牧師

1.罪の赦しに与る者
 主の日の度毎に私共はここに集い、礼拝を捧げております。私共が礼拝を捧げるのは主の日です。私共の主イエス・キリストが復活された日です。イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになり、そして三日目に復活された。私共の一切の罪を担って十字架の死の裁きを受けられ、その死に勝利されたことを記念し、イエス様を我が主、我が神と拝み奉る礼拝です。この礼拝の度に私共は、「あなたの罪は赦された」との罪の赦しの宣言を受け取る。それは、私のために十字架にお架かりになり、復活されたイエス様の言葉です。「あなたのために、わたしが代わって一切の裁きを受けた。だから、あなたはもう赦されている。大丈夫。」そう告げられる。そして、私共は罪赦された者として、ここから再び神様に遣わされた場へと戻って行くわけです。罪赦された者として、神の子・神の僕とされた者として、新しく生き直す。神様の光に照らされて、その光の中を、その光が射し込んでくる神の国に向かって歩む者として、ここから出て行くのです。
 罪が赦される。それは、神様との親しい交わりに生きる者とされるということです。神様から離れ、神様に逆らい、神様に敵対していた者が、神様を愛し、神様を信頼し、神様に従う者として生きる者となるということです。別の言葉で言えば、イエス様の到来と共に始まった神の国に生きる、神の国の住人として生きるということです。

2.神の御子の力と権威
 今朝与えられております御言葉は、そのことをはっきりと教えています。
 先週私共は、ガダラ人の地方で、イエス様が悪魔に取りつかれた二人の人から悪霊を追い出されたという出来事を見ました。人間には手の付けようのない悪霊も、イエス様の「行け。」という一言で出て行かなければならない、イエス様はそのような力と権威とを持ったお方だということを見ました。悪霊を追い出す程の力と権威、それはまさに「神の御子」としての力と権威です。そして、この神の御子としての力と権威とは、私共の罪を赦し、病をいやす力と権威であることを示しているのが、今朝与えられている御言葉が告げていることなのです。罪の赦しと病の癒しとは、別々のことではありません。根っこは一つのことなのです。イエス様は私共の病を癒やすだけでもありませんし、私共の罪を赦すだけでもありません。私共の罪を赦し、私共の病もいやされます。それは、私共を神の国に生きる者としてくださるということです。それがお出来になるのが、神の御子の力と権威なのです。

3.マタイの意図
 1節を見てみましょう。「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。」とあります。イエス様が弟子たちと共に、ガダラ人の地方から湖を渡って戻って来られました。ここで「自分の町」と記されているのは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムのことです。イエス様はこの町を拠点としてガリラヤでの宣教を展開されました。
 イエス様が戻って来られたと聞くと、大勢の人がイエス様の所にやって来ました。マタイによる福音書にはそうは記されておりませんけれど、マルコによる福音書(2章1〜12節)やルカによる福音書(5章17〜26節)を見ますと、この時大勢の人がイエス様の所にやって来たことが記されています。また、マルコやルカでは、この中風の人を連れて来た人たちは、大勢の人々に阻まれてイエス様の近くに行けないので、屋根をはがしてこの中風の人を床ごとイエス様の前につり降ろしたということが記されております。しかしマタイは、この中風の人を連れて来た人たちの行動を全く記しません。それは、この中風の人たちを運んできた人たちについての記述を一切省くことによって、イエス様の言葉と業に私共を集中させようとしたのでしょう。今朝は、このマタイの意図に従って御言葉を受けたいと思います。

3.罪の赦しを宣言される
 中風の人を連れて来た人たちは、「イエス様の所に行けば、きっとイエス様がいやしてくれる。」そう思い、そう願って、この中風の人をイエス様の所まで連れて来たのでしょう。中風の人は自分では歩けませんから、担架のようなものに乗せて連れて来た。ところが、イエス様がこの中風の人に告げたのは、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」でした。中風の人も彼を連れて来た人たちも、罪の赦しを求めて来たのではなくて、中風がいやされることを求めて来たのでしょう。中風の人も彼を連れて来た人たちも、このイエス様の言葉に、きっと「はぁ?」という感じだったのではないかと思います。「罪の赦しではなくて、中風をいやして欲しいのですが。」そんな言葉が思い浮かんだかもしれません。この後すぐにイエス様は病もいやしてくださるのですが、どうしてイエス様は、最初に罪の赦しを宣言されたのでしょうか。
 私は、二つの理由があったのではないかと思います。一つは、イエス様御自身が6節で「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われていることから分かりますように、イエス様は、ここに律法学者が来ていることが分かっていて、御自身が罪の赦しを与える権威を持っていることを示すために、わざと罪の赦しの宣言を先にされたということです。
 もう一つは、この中風という具体的な困難、苦しみ、それは罪の赦しがなければ本当の所で解決されないからではないかと思います。中風がいやされるということと罪の赦しは、根本的な所では一つだということです。私共は、中風は体のこと、罪の赦しは精神的なこと、そんな風に分けて考えているところがあるかもしれません。しかし、罪の赦しとは本当にそういうことなのでしょうか。ここで、イエス様の言われた言葉によく耳を傾けてみましょう。

4.「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」
 まず、イエス様はこの中風の人に向かって「子よ」と語りかけておられます。イエス様は、「神の子」という意味でこう語りかけられたのでしょう。神の御子として、この中風の人に対して、「あなたは神様の子だ。あなたは神様に愛されている。」そのことを示すために、このように語りかけられた。つまり、この中風の人が忘れていた、神様に造られて神様に愛されている存在であるということを思い起こさせるように、イエス様は語りかけられたのです。イエス様はこの中風の人をそのような、神様にとって掛け替えのない存在として見ていたということです。
 そして、「元気を出しなさい。」です。中風で体が動かないのです。どうして元気が出るでしょう。この「元気を出しなさい」という言葉は、「しっかりしなさい」とか「安心しなさい」とも訳される言葉です。イエス様は、「大丈夫。安心しなさい。心安らかでいなさい。元気を出しなさい。」そう言われたのです。中風なのに何が大丈夫なのか。何が安心なのか。
 その根拠が、その後に続く「あなたの罪は赦される。」という宣言なのです。この「あなたの罪は赦される」という言葉は「あなたの罪は赦された」と訳しても良い言葉です。罪の赦しとは、それによって神様との交わりを回復することです。神様が父となり、自分が神様の子とされる、神様とのこの親しい交わりに生きる者となるということです。神の国に生きる者となるということです。ここに、中風がいやされることと罪の赦しが宣言されることの、内的な関連があります。ここで私共は神の国について思いを馳せる必要があります。イエス様が再び来られて神の国が完成した時、そこに病はあるでしょうか。ヨハネの黙示録21章4節には、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と告げられています。神の国に病はないのです。イエス様が再び来られて神の国が完成したのなら、そこには病も死も戦いも悲しみも嘆きもないのです。確かに、この地上にあっては、私共はそれらから逃れることは出来ません。私共はやがて死にますし、悲しみも嘆きも労苦もない人生なんてありません。私共に罪があるからです。しかし、罪の赦しを受けるということは、この地上にあって、嘆きも悲しみもあるけれど、既に神様を「父よ」と呼び、神様の愛を受け、神様との親しい交わりの中に生き始めるということです。神の国に生き始めるということです。ですから、病も死も最早最終的なものではなくなってしまう、そのような新しい命、新しい世界に生きる者になるのです。
 この中風の人は、体が動かないという苦しみ、嘆きの中にあった。体さえ動くようになればそれで大丈夫、と思っていたでしょう。私共は、苦しみや困難のただ中にある時、それがすべてになってしまいます。腰が痛い、足がしびれる、肩がこる、手が震える、本当に嫌になります。しかし、イエス様は、「それでも大丈夫。あなたは神様に造られ、生かされ、愛されている。神の国に生き始めている。あなたが神様との親しい交わりに生きることが出来るように、わたしは来た。だから大丈夫。」と告げられたのです。このイエス様の言葉は、十字架の言葉です。イエス様が十字架の上から、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」そう告げておられるのです。

5.神を冒涜している?
 このイエス様の言葉を聞いた律法学者は、「この男は神を冒涜している。」と思いました。律法学者というのは、当時のユダヤ教の指導者です。彼らにしてみれば、罪の赦しを受けるためには、神殿に行って定められた犠牲を捧げるという手続きを踏んだ上で、祭司によって罪の赦しが宣言されるのであって、勝手に罪の赦しの宣言をするなんて神様を冒涜するにも程がある。そもそも罪を赦すことは神様にしか出来ないことだ。この男は自分が神だとでも言うのか。とんでもないことだ。そう思った。律法学者としては当然の反応です。もし、イエス様が真の神、ただ独りの神の御子でなかったとしたならば、彼らの考えは全く正しいのです。
 これに対してイエス様は、4節「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」と言われました。「悪いこと」。「イエスは神を冒涜している」と考えることが「悪いこと」だとイエス様は言われました。イエス様を神の子・救い主・罪の赦しを与える権威のある方として受け入れない。それは悪いことだと言われたのです。何故でしょう。それは、そのようにイエス様を見ている限り、イエス様に救いを求めることもありませんし、イエス様の十字架による罪の赦しに与ることも出来ないからです。だから、悪いことなのです。

6.どちらが易しい?
 そしてイエス様は、5節「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と告げられたのです。皆さんはどちらの方が易しいと思いますか。多分、律法学者はきっとこう考えたと思います。「『あなたの罪は赦される。』と言う方が易しい。」何故なら、このように罪の赦しが宣言されても、本当に赦されたかどうか確かめようがありませんから、口から出任せでも分かりゃしない。しかし、「起きて歩け。」と言った場合、実際にそうならなければ、それは口だけだということがすぐに分かってしまいます。だから、「あなたの罪は赦される。」と言う方が易しいと律法学者たちは考えたのではないかと思います。
 しかし、事柄の本質としては、罪の赦しの宣言にしても、病のいやしにしても、神様にしか出来ないことですから、どっちが易しいという話ではないのです。ただの人間にはどちらも出来ないし、神の御子にはどちらも出来るということです。この場合、イエス様は、罪の赦しの宣言に続いて、中風の人に「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい。」と言われ、実際にこの中風の人は起き上がって、床を担いで帰って行きました。このことによって、イエス様は中風の人をいやす力があることを示し、だから先に告げられた罪の赦しの宣言にしても口だけではないということを示されたわけです。
 イエス様はここで、御自身に罪の赦しを与える権威があり、病をいやす力があることをお示しになりました。それは、この罪の赦しの宣言と中風のいやしにより、御自身が神の御子であることを明らかにされたということです。イエス様は御自身が神の子であることを示すことによって、イエス様と共に神の国が既にここに来ていることをお示しになったのです。

7.イエス様の十字架と復活の救いに与る
 中風の人は、イエス様の言葉によっていやされ、起き上がり、家に帰って行きました。この「起き上がる」という言葉は、復活を示す言葉です。この中風の人は、これから為されるイエス様の救いの御業の先駆けとして、イエス様の十字架の言葉である罪の赦しの宣言を受けて復活したのです。イエス様の十字架と復活の救いに与ったのです。
 この罪赦されいやされた中風の人は、私共自身の姿を示しています。私共も主の日の度にここに集い、イエス様による罪の赦しの宣言を受けます。そして、起き上がるのです。復活するのです。私共は、それぞれ問題・課題を抱えて生きています。時には、それに押しつぶされそうになります。その重い体と心をここに運んで来る。そして、イエス様の言葉を受けるのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」私共はここに集う度に思い起こす。私は神の子とされた者だ。神様との親しい交わりに生きる者とされた者だ。だから大丈夫。私の命は、私の明日は、神様と共にある。神様の御手の中にある。私は決して潰されない。そんなことを神様がお許しになるはずがないから。

8.家に帰る
 このいやされた中風の人は、家に帰って行きました。イエス様が「家に帰りなさい。」と言われたからです。家の人は驚いたでしょう。自分で歩くことも出来ずに、担がれて家を出て行った人が、自分の足でスタスタ歩いて帰って来た。近所の人も驚いたでしょう。あの人は中風だったのではないか? どうしたことだ? 何があったのだ? 家の人も近所の人も、「一体何があったのだ?」と尋ねたことでしょう。そしてこの人は、イエス様が為してくださった一部始終を話し聞かせたに違いありません。「イエス様が、わたしを『子よ』と呼んでくださった。『元気を出しなさい。あなたの罪は赦された。』と告げてくださった。そして、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい。』と言われると、わたしは自分の足で立てた。そうして自分の足で歩いて帰って来たのです。」彼は、イエス様の救いの御業の証人として、家に帰っていったのです。イエス様の救いに与った者は、イエス様の証人として遣わされるのです。自分がイエス様に救われたことを、自分の心の中にだけしまっておくことなんて出来ません。キリスト者は、イエス様の救いに与った者は皆、イエス様の救いの御業の証人として遣わされていくのです。
 私共は10月22日の日曜日に「礼拝とコンサート」を企画しています。チラシも出来、案内の葉書も出来ました。ぜひ、友人・知人を誘っていただきたいと思います。そして誰よりも、自分の家族を誘っていただきたいと思います。私共はこのいやされた中風の人と同じように、自分の家において証しする者として立てられているのですから。

[2017年10月8日]

メッセージ へもどる。