富山鹿島町教会

礼拝説教

「ガダラにて悪霊を追い出す」
イザヤ書 65章1〜5節
マタイによる福音書 8章28〜34節

小堀 康彦牧師

1.勝利者イエス
 イエス様は勝利者です。死と罪と一切の悪しき力に打ち勝たれた勝利者です。そのイエス様の勝利に与る者として召し出されたのが私共キリスト者です。確かに、私共が生きているこの世界においては、まるでイエス様の勝利など無いかのように、悪しき力が、人間の欲が、我が物顔に自らの力を誇示しているように見えます。私共はその力の前に為す術もなく、困り果て、弱り果てているかのようです。しかし、イエス様は既に勝利されました。イエス様は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)と言われました。イエス様は十字架と復活において既に、神様に敵対するすべての力に勝利しておられます。しかし、それが明らかな形として現れるのは終末の時、イエス様が再び来られる時です。それまでの間、私共はなお悪しき力と自らの罪と戦わなければなりません。しかし、この戦いは、既に勝利したイエス様と共にある戦いです。神の国はイエス様と共に、既に私共の所に来ているからです。私共は、自らの戦いが厳しく激しいと、この勝利が見えなくなります。困り果て、弱り果てて、イエス様の勝利などどこにあるのか、そう思ってしまう程です。そのような私共に、イエス様は御言葉をもってその勝利者としての姿を私共に示し、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と告げておられます。

2.共通記事
 今朝与えられております御言葉は、ガダラ人の地方において、イエス様が悪霊に取りつかれた二人の人から悪霊を追い出された出来事が記されております。私共はマタイによる福音書を読み進めておりますけれど、マタイによる福音書には、マルコによる福音書、ルカによる福音書と共通の記事が多く記されております。大変便利なことに、新共同訳の聖書には小見出しがついていて、その小見出しの下に共通記事が記されている聖書の箇所が記されています。これらの箇所を一緒に読みますと、聖書をより立体的に読むことが出来ます。マタイとマルコは共通記事が多いのですけれど、大抵はマルコの記事よりマタイの記事の方が長いと言いますか、詳しく記されております。ところが、今朝与えられております記事は、マルコの方が倍ぐらいの分量があるのです。今朝は、マルコ5章にある共通記事を時々参照しながら、お話ししたいと思います。

3.私のために来られたイエス様
 さて、前回、イエス様一行はガリラヤ湖を舟で渡る途中、激しい嵐に巻き込まれたことを見ました。大変な目に遭ったわけですが、そうまでしてイエス様一行が着いた先は、ガダラ人の地方であったと記されています。マルコによる福音書には「ゲラサ人の地方」とあります。ガダラなのか、ゲラサなのか。巻末の地図を見ますと、ガダラはガリラヤ湖から南東に10km程、ゲラサは南東に50kmも離れています。この二つの町はデカポリスという地域にある町でした。デカはギリシャ語で「10」、ポリスは「町」という意味ですから、このデカポリスという地域には10の町があったことが分かります。そして、ガダラもゲラサもその10の町のうちの一つでした。どっちにしても、ガリラヤ湖からは余りに遠いのです。しかし、丁寧に読みますと、福音書はイエス様が「ガダラの町」に行ったとか、「ゲラサの町」に行ったとは記していないのです。「ガダラ人の地方」「ゲラサ人の地方」と記しています。つまり、福音書がここで言おうとしているのは、ガダラとかゲラサといった異邦人の町の名を記すことによって、イエス様は異邦人の土地に行かれたということなのです。
 私は、このことは大切な点だと思っています。イエス様一行は、嵐に遭うような大変な思いをしてやって来た。そして、今朝与えられた御言葉の直後、9章1節には「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。」とあります。つまり、イエス様が、嵐に遭うような大変な思いをしてまでわざわざやって来たのは、今朝の御言葉にあります悪霊に取りつかれた二人の異邦人から悪霊を追い出すためであったということです。イエス様はこの二人の人から悪霊を追い出すためだけに嵐の湖を渡って来られたのです。ユダヤ人たちが、救われることがないと考えていた異邦人。しかも悪霊に取りつかれていた人。そんな彼らを救うために、イエス様はガリラヤ湖を渡って来られたのです。
 この悪霊に取りつかれた二人の異邦人、彼らは自分たちを救うために来られたイエス様によって悪霊の支配から解放されたのです。私は、この二人の悪霊に取りつかれた人と自分自身とを重ね合わせないではおられません。イエス様は私のために来られた。私を救うために来られた。イエス様はこの富山の地に、富山鹿島町教会を建てられた。それは誰のためですか。富山に住むすべての人のため。それはそうです。しかし、誰よりも富山に住む私のため、富山に住むあなたのために、イエス様は来られた。そして、富山鹿島町教会は建てられた。あなたがイエス様に出会うため、あなたがイエス様の救いに与るため、そのために、そのためだけにこの教会は建てられた。そして、建っている。「私のためにこんな立派な会堂は要りません。もったいない。」そう思われるでしょうか。確かにもったいない。しかし、イエス様は、この建物など比べ物にならない程の尊い犠牲を私のため、あなたのために払われた。それが十字架です。
 悪霊に取りつかれた二人の異邦人は、世の人から見れば何の価値もない。もっと言えば、いない方がいいと思われていた二人。その二人のために、イエス様は嵐の湖を渡って来られた。それは、イエス様にとってこの二人は、失われても良い、滅んでも良い、どうでも良い存在ではなかったからです。御自身の命をかけて救わなければならない存在、掛け替えのない大切な存在だったからです。このイエス様の思いは、私共一人一人にも向けられているのです。

4.悪霊に取りつかれた人
 この二人は悪霊に取りつかれていました。彼らは墓場に住み、凶暴であったとマタイは記します。マルコを参照しますと、5章3〜5節「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」とあります。ここに悪霊に取りつかれた者の特徴が記されております。第一に墓場に住んでいた。第二に力がある。第三に自分も他人も傷付ける。
 第一に、彼らは墓場に住んでいた。それは、生きた人との交わりを持っていないということです。凶暴だったので、人が誰もいない墓場に追いやられたということなのかもしれません。しかし、悪霊というのは、命の神であるまことの神に敵対するが故に、命よりも死を好むということでもあろうかと思います。しかし、私共もこのような状況に置かれたことがあるのではないでしょうか。周りの人と言葉が通じない。心が通じない。独りぼっち。墓場に住んでいなくても、生きる力も勇気も希望も失い、ただ生きているだけ。そんな時を過ごしたことがあるのではないでしょうか。
 第二に、力がある。どんなに押さえつけようとしても押さえることが出来ない。他人も自分もコントロール出来ない。それが悪霊に取りつかれてしまった人の姿です。パウロは、ローマの信徒への手紙7章18〜20節で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」と告白しました。この罪の告白と自分が重ならない人はいないでしょう。神様の御心に適った歩みをしたい。でも自分でもどうすることも出来ない程の力によって、嫌だ嫌だと思っていることを言ってしまい、やってしまう。しかし、イエス様はそのような私のために来てくださった。罪の支配、悪霊の支配から解き放ち、神様と共にある自由に生きることが出来るようにするために来てくださった。悪霊の支配ではなく、聖霊の支配の中に生きることが出来るようにするために来てくださったのです。
 第三に、悪霊に取りつかれた人は、自分も周りの人間も傷付けます。マタイは「非常に凶暴で」と記します。マルコは「石で自分を打ちたたいたりしていた」と記します。自分も他人も傷付ける。悪霊は人を生かす霊ではなく、人を傷つける霊なのです。私共は、自らの歩みと照らし合わせて、あの時自分はまさに悪霊に取りつかれていたのではないか、そう思い返す時があるのではないでしょうか。
 悪霊はイエス様の時代にだけ働いていたのではありません。今はまさに悪霊に取りつかれた時代と言っても良い。IS(イスラム国)があり、テロがあり、北朝鮮のミサイルがある。正気じゃない。覚醒剤の毒牙にかかっている人たちも大勢いる。まさに悪霊が闊歩している世界です。しかし、今朝私共が心に刻むべきは、悪霊の力の強さ、それに支配された人間のこの世界のどうしようもなさではありません。これを打ち破る方としてイエス様が来られたということです。この世界の主は、私共の主は、悪霊ではない。主イエス・キリストであるということです。

5.なぜ二人?
 私が今朝の説教の備えをしていて、どうしても気になったことがあります。それは、この悪霊に取りつかれた人が二人であったということです。マルコによる福音書には二人とは記していませんので、私はずっと、悪霊に取りつかれた人は一人だと思っておりました。しかし、今回改めて、二人だったんだと知らされました。それで、この二人とは何を意味しているのか、指し示しているのか、思いを巡らしました。そして、こう思ったのです。悪霊に取りつかれた人は、いつも一人とは限らない。二人なり三人なり、複数でグループを作ることがある。周りの社会とは会話が成立しないけれど、そのグループの中だけでは話が通じる。ここで反社会的組織をイメージすることも出来るだろうと思います。そして、歪んだ愛の中で「二人のため世界はあるの〜」と歌う若い恋人たちだって悪霊に取り憑かれているのではないかと思わされました。

6.悪霊を追い出す
 さて、イエス様一行が着くと、この悪霊に取りつかれた二人の人が出て来て、イエス様にこう告げるのです。29節「突然、彼らは叫んだ。『神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。』」ここで悪霊は、イエス様が神の子であることを知っていました。そして、「かまわないでくれ。」と叫ぶのです。ここで注目すべきは、「まだ、その時ではないのに」という言葉です。「その時」とは、終末のことでしょう。イエス様が神様の力と栄光とをもって、すべてを支配するお方としてやって来られる時です。その時には自分たちは滅びるしかないことを悪霊は知っていた。しかしこの時、悪霊たちは「まだその時ではないではないか。まだ、あなたの出番じゃない。どうしてこんなに早く来たんだ。今は俺たちの時代じゃないか。」そう言ったのです。この悪霊の言葉は、実に、イエス様の到来と共に神様の支配、神の国は始まったということを示しています。悪霊が我が物顔に跳梁跋扈する時代は終わったのです。確かに、神の国が完成するのは終末においてです。しかし、イエス様の到来と共に、既に神の国は始まった。私共は、この神の国に既に生き始めているのです。
 悪霊は、イエス様が何も言わない、何もしないのに、自分の方からイエス様の所に来て、一方的にイエス様に語り、そして言うのです。31節「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ。」ここで、豚が飼われていることからも、ここが異邦人の地であることが分かります。ユダヤ人は豚を食べません。ですから、豚を飼うこともしません。悪霊は何かに取りつかなければ存在出来ない、そういう存在なのかもしれません。イエス様は一言、「行け」と告げられます。ここでイエス様が語られたのはこの一言だけです。悪霊は二人から出て、豚の群れの中に入ります。すると、「豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。」と聖書は告げます。マルコは、この時の豚の数は二千匹ほどであったと記します。
 この箇所を求道中の方と読んでおりますと、必ずと言っていいほどに出て来る質問、感想があります。それは、「豚が可哀想だ。」というものです。「どうしてイエス様は、悪霊だけを滅ぼさないで、豚を道連れにしたのか。豚が可哀想だ。それに、豚を飼っていた人たちに大損害を与えたことにならないか。どうしてイエス様は、悪霊の申し出をそのまま受け入れ、豚共々悪霊を滅ぼされたのか。」というような問いであり、感想です。私にも本当の理由は分かりません。しかし私には、イエス様はここで「敢えてそうなさった」としか思えないのです。マルコによれば二千匹の豚、それは今のお金に換算すれば何千万、或いは億を越える財産であったことでしょう。イエス様はここで、二人の人が悪霊から解放され新しく生き直すことが出来ることと、豚の群れを失うことと、一体どっちが大切なのか。この出来事を通して、イエス様はそう問われたのではないでしょうか。そして、このガダラの町の人々は、豚を選んだのです。34節「すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。」この出来事の後、町中の人々がイエス様のもとに来ました。彼らは、悪霊に取りつかれた二人の人が正気になったことを知らされました。そしてまた、豚の群れが湖に入って溺れ死んだことも知らされました。しかし、彼らはイエス様の力に驚くことも、イエス様をほめたたえることもしません。ただこの地方から出て行ってもらいたいと言ったのです。これはちょうど、悪霊に取りつかれた二人の人がイエス様に向かって「かまわないでくれ。」と言ったのと同じです。つまり聖書は、このようにこの町の人々もまた、悪霊の支配のもとにあったということを告げているのでしょう。イエス様の力を知らされながらも、悪霊の支配の中にある者は必ず、「わたしと関わらないでくれ。」そう言うものなのです。

7.聖霊よ、来てください
 この町の人々は悪霊が分かりませんでした。自分たちも悪霊の影響の元にいたからです。ですから、悪霊と悪霊に取りつかれた人の区別が出来なかった。しかし、イエス様は違いました。イエス様は、悪霊と悪霊に取りつかれた人を明確に区別し、悪霊に取りつかれた人を悪霊の支配から救い出されました。でも、町の人々はそうではなかった。「悪霊に取りつかれた人は悪霊と一緒。ただただ、迷惑でしかない存在。いない方がよっぽど良い存在。そんな人が正気になろうと、墓場でのたれ死のうと、自分たちの知ったことじゃない。それよりも、大切な豚の群れのこと。俺たちの財産はどうしてくれる。こんな人がいたら、自分たちの生活がどうなるか分かったもんじゃない。お引き取り願おう。」ガダラの町の人たちはそう思った。
 悪霊に取りつかれた人が、イエス様を神の御子と知っていて、それ故に「わたしと関わらないでくれ。」と言ったように、この町の人々の感覚も的を射ているのです。イエス様と出会ったら、自分たちは変わらざるを得ないからです。自分が主人はなく、イエス様が主人となる。自分の欲を満たすためではなく、神様の御心を第一とする者となる。自分の栄光のためではなく、神様の栄光のために生きることになる。しかし、「そんなことは真っ平御免。」とこの町の人々は思ったのでしょう。この反応は、私共も良く分かるのです。私共もそうだったからです。いや、今でもそのように思ってしまう自分が心の中に巣くっていることを知っています。だから、私共は祈り願うのです。「聖霊よ、来てください。私共を悪霊の支配から、罪の誘惑から救い出してください。」そして、イエス様はそのような私共の現実を誰よりもよく御存知であるが故に、私に「主の祈り」を与えてくださり、「我らを試みにあわせず、悪より救い出し給え。」と祈るようにと教えてくださったのです。この祈りと共に私共は歩むのです。

 私共は今から聖餐に与ります。私共はイエス様の体と血とに与り、イエス様が私共と一つになってくださり、一切の悪しき力から私共を守り、私共を御自分のものとしてくださっていることを心に刻むのです。死も罪も悪霊も、既にイエス様によって打ち破られています。その勝利の主が私共と共にいてくださいます。だから私共は、死も罪も悪霊も恐れなくて良い。悩みはある。困難もある。しかし、イエス様は既に勝利された。だから、勇気を出しなさい。イエス様は既に勝利されている。その勝利に与る者として私共は召し出されたのです。

[2017年10月1日]

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