富山鹿島町教会

礼拝説教

「イエス様に従う者」
列王記 上 19章19〜21節
マタイによる福音書 8章18〜22節

小堀 康彦牧師

1.まことの光の中を生きる私共
 イエス様は私共にまことの光をあたえてくださいます。イエス様御自身がまことの光であられるからです。イエス様を信じ、イエス様の弟子として生きるということは、この光の中を生きる者となるということです。この光は、天地を造られたただ独りの神様との親しい交わり、愛の交わりの光であり、永遠の命の光であり、どんな苦しみ、困難の中でも失われることのない希望の光です。私共は、今朝もこの光に照らし出され、新しい命の希望に生きる者としてここに集まってまいりました。私共は最早、闇の中に生きているのではありません。イエス様が十字架にお架かりになり、私共の一切の罪の裁きを担ってくださいました。その救いの御業によって、私共は誰憚ることなく神様に近づき、「父よ」と呼ぶことが許されています。そして、イエス様は復活されました。その復活の命が私共に注がれています。肉体の死はあります。しかし、それですべてが終わるのではないことを私共は知っています。復活の命が、永遠の命の光が既に私共を包んでいます。ありがたいことです。

2.求めるものと与えられるもののズレ
 しかし、この大いなる光の中に生きるようになるということを、私共は最初から分かっていたわけではありませんでした。初めて教会に集うようになった時、私共は何を求めていたでしょうか。罪の赦し、永遠の命を求めていたという人はまずいないでしょう。何故なら、そのようなものがあるということさえ、私共は知らなかったからです。礼拝に集うようになったきっかけは人それぞれでしょうけれど、罪の赦しを求めていた人、永遠の命を求めていた人は、まずいないのではないかと思います。ただ、何も求めなければ礼拝に来ることもないわけで、何かを求めていたことは確かだと思います。それは漠然とした、キリスト教には自分の知らない何かがあるのではないか、そんな興味であったかもしれません。或いは、自分が生きる意味とか生きる目的が分かるのではないか、そんな期待だったかもしれません。しかし、それが罪の赦しであり、永遠の命であるとは思ってもいなかったでしょう。
 ここに、私共の求めと、神様が与えようとしてくださっているものとの間に、少なからぬズレが生じます。もちろん、神様は、私共以上に私共に何が必要かを御存知であって、それを与えようとしてくださっているわけです。しかし、私共は、それが必要であるということさえ分かっていない。そこにズレが生じます。私共は、これがあれば十分、これがなければ困る、そのようなものは幾つもありますけれど、その根本に神様との交わりが必要なのだとは思ってもいない。そこに生じるズレです。
福音書を読んでおりますと、このズレをいつも感じながら、しかし神様が与えようとしてくださっているまことの光を与えようとして歩まれたイエス様の御姿を私共は見るのです。イエス様は、神の国の到来をお告げになり、神の国に生きる者の道をお示しになりました。それが山上の説教です。そして、神の国が既にここに来ているのだということを実際にお示しになったのが、数々の奇跡です。しかし、人々はそれをきちんと受け止めることは出来ませんでした。イエス様の説教を聞けば、何か分からないけれどすごいなとは思ったでしょう。いやしの奇跡を見れば、更にイエス様はすごい方だとは思ったでしょう。多くの病人を連れて、大勢の人々がイエス様のところに集まって来ました。しかし、神の国がここに来ているとは思わなかったのではないでしょうか。

3.弟子の覚悟?
 今朝与えられております御言葉は、5〜7章に山上の説教が記されており、それに続いて8章の初めから三つのいやしの記事、「重い皮膚病を患っている人をいやす」「百人隊長の僕をいやす」「多くの病人をいやす」が記されているのに続く御言葉です。そして、今朝の御言葉の後で、また、「嵐を静める」「悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす」「中風の人をいやす」と三つの奇跡の記事が続きます。つまり今朝の御言葉は、前と後に三つずつの奇跡の記事があって、その間に挟まれるようにして記されているのです。小見出しは「弟子の覚悟」と付いています。
 今朝の説教の備えをしながら、この小見出しに、引っかかりと言いますか、違和感をずっと覚えておりました。イエス様のいやしの記事が連続している中で、どうしてここだけが、イエス様御自身の姿ではなくて、「弟子の覚悟」という、弟子がどのような覚悟でイエス様に従うのかという所に力点があるような小見出しになっているのか。これは違うのではないか。そんなふうに思ったのです。イエス様はここで、御自身がどのような者としていやしの業を為し、奇跡を為しているのか、御自分は何者なのか、そのことをお告げになっているだけなのではないか。そう思ったのです。ここには、二人の人が出て来ます。イエス様に「どこへでも従って参ります。」と言った律法学者と、「まず、父を葬りに行かせてください。」と言った弟子です。この二人とイエス様とのやり取りの中で浮かび上がってくるのは、イエス様とこの二人との間のズレなのです。

4.律法学者との対話
 順に見てまいりましょう。
 19節「そのとき、ある律法学者が近づいて、『先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。』と言った。」とあります。律法学者というのは、当時のユダヤ教の先生です。当時のユダヤ教の社会では、律法に従って生きるということが救いへの唯一の道と考えられておりましたので、生活習慣から日常の様々な問題まですべて、律法に照らすとどうなるのかということが重要でした。律法学者は、離婚の問題、金銭トラブル、土地の境界線に至るまで、律法に照らせばこうするのが正しいとユダヤ人を指導していました。勿論、律法を教えるということもしていました。ですから、現代で言えば学校の先生と弁護士と政治家を兼ねたような人だったのです。そんな人がイエス様に、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」と言ったのです。彼は、イエス様の山上の説教を聞いたのかもしれません。そして、イエス様の為さったいやしの奇跡も見たのでしょう。この人こそ本物だ。この人について行けばいい。そう思ったのでしょう。彼の言った言葉に嘘はなかったと思います。しかし、イエス様は彼の申し出を喜んで受け取ったかというと、そうではありませんでした。聖書もよく知っているし、社会的地位もあるし、あなたのような立派な人が弟子になるなんて大歓迎だ。そんなふうには言われなかった。
イエス様はこう言われました。20節「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」イエス様は、自分について来ることを、直接的には、いいともダメだとも言っておられません。前回、8章14節以下の所を見ました時に申しましたが、マタイによる福音書は5章から8章16節までを一日のこととして記しています。それは、イエス様の日常というものが、休む間もない程に、心も体も困窮した人々のために注ぎ込まれた日々であったことを示そうとしているのでしょう。しかし、この「人の子には枕する所もない」というのは、それだけではありません。イエス様は、これから十字架への道を歩んで行かれるのです。人々から罵られ、呪いの木である十字架に架けられるのです。この「人の子には枕する所もない」とは、その十字架への道を暗に示しているのでしょう。あなたが「どこへでも従って参ります」と言う「どこへでも」とは、十字架までということなのですよ。そう言われたのです。
 イエス様は、この律法学者に自分に従うための覚悟をここで求められたということではなくて、淡々と、御自分の歩んでいる道、これから歩まれる道をお語りになったのではないかと思います。それは、この律法学者がイエス様に求めていること、勝手にイメージしていることに、イエス様がズレを覚えられたからなのだと思うのです。律法学者は、イエス様の驚くべき律法解釈、いやしの力を見て、この人だ、この人について行けば間違いないと思ったのでしょう。しかし、この人が十字架に架けられる方だとは思っていなかった。この律法学者にとって、イエス様はあくまでも立派で、力があり、人々に賞賛される方でした。しかし、イエス様は人々から罵られ、呪いの木である十字架に架けられるのです。イエス様は、そのことを知らずに自分に従おうとしているこの律法学者が自分に求めているものと、自分が与えようとしているものとのズレをこの言葉でお示しになったのではないでしょうか。
ズレを指摘されて、この律法学者がどう思ったのかは分かりません。しかし、マタイによる福音書には、その後イエス様の弟子の中に律法学者がいたとは記されておりませんので、こうは言ったけれども、この律法学者は結局、イエス様に従う者にはならなかったということなのでしょう。

5.人間の覚悟でイエス様に従うことは出来ない
 私共は、この律法学者と同じことを言った人を知っています。弟子のペトロです。ペトロは、イエス様が十字架にお架かりになる前の日の夜、最後の晩餐の後、イエス様にこう言いました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マタイによる福音書26章35節)この時、他の弟子たちも皆、同じように言った、と聖書は記します。しかし、ゲツセマネの園での祈りの後、イエス様が捕らえられると、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました(マタイによる福音書26章56節)。そして、ペトロはイエス様が言われたとおり、鶏が鳴く前に、三度イエス様を知らないと言ってしまったのです。
 私は、ペトロの「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言った言葉に嘘はなかったと思います。本気だったと思います。でもダメだったのです。聖書は、イエス様に従うということは人間の覚悟によって為されることではないと告げているのです。
 私がこの小見出しの「弟子の覚悟」という言葉に違和感を覚えるのも、そのためです。イエス様はここで律法学者に本当に覚悟を求めたのか。逆に言えば、覚悟があればイエス様に従っていけるのか。そうではないでしょう。私共は、イエス様に従っていく覚悟が出来ていたから、キリスト者であり続けているのでしょうか。大いなる光の中を歩むことが出来ているのでしょうか。そうではないでしょう。私がキリスト者になった時、そんな立派な覚悟なんてありませんでした。まことにぼんやりした信仰しかありませんでした。将来牧師になるとも思っておりませんでした。しかし、こうして牧師として歩み続けている。それは、私の覚悟なんかによるのではなくて、イエス様が私を召してくださったからです。ただそれだけです。イエス様が、信仰者として歩み続けることが出来るように導き続けてくださったからです。それ以外に理由はありません。

6.弟子との対話:何を第一とするのか?
 さて、次に弟子の一人がイエス様に言いました。この弟子が誰なのか、名前は記されておりません。21節「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」これに対してイエス様が言われたのが、22節「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」驚くべき言葉です。この言葉は丁寧に読みませんと、全く誤解してしまうことになります。イエス様はここで、お父さんの葬式なんてどうでもいい、と弟子に言ったのではないのです。ここで弟子の言葉をどう読むかですが、ちょうどこの時にお父さんが死んで、葬式を出さなければならなくなったのか。私はそうではないと思います。
 先程、旧約の列王記上19章の19節以下をお読みしました。これは、旧約において最も大いなる力の預言者であったエリヤの弟子として、エリシャが召し出される場面です。この時エリシャは、20節「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います。」と言います。エリヤは「行って来なさい。」と応えます。そして、エリシャは父と母に別れを告げてエリヤに従ったと記されています。「父や母への別れの挨拶などどうでもいい。そんなことより、わたしに今すぐ従いなさい。」と言われたのではなかった。エリヤとイエス様とでは、言っていることが違うのでしょうか。
 私は、違っていないと思います。もし、本当に父親が死んだのなら、葬式をしてからイエス様に従っても何の問題もないのです。イエス様は、父親の葬式を出さないで良い、父親の葬式になど出ないで良いなどと言っているわけではない。イエス様は、そんな非常識なことを弟子に求めているのではないのです。「弟子の覚悟」などという観点で読みますと、そのように読みかねない。父の葬式を出すことも放っておいてイエス様に従うのが弟子の覚悟だ、イエス様はそこまで求めておられるのだ、と読みかねない。しかし、イエス様はそんな馬鹿なことを言っているのではないのです。
 では、どういうことなのか。この時イエス様の弟子が言ったことは、ちょうどこの時自分の父親が死んだということではなくて、当時のユダヤにおいては、息子は父親の仕事を手伝い、親が死ねば葬式を出し、遺産を相続する、そこまでが息子の務めだと考えられていました。ですから、この弟子は、まずそのことを済ませてからイエス様に従います、そう言ったということなのだと思います。この時弟子が言った「主よ、まず」の「まず」という言葉は、「第一に」という言葉です。つまり、何よりも第一に、父を葬りに行かせてください、それが息子としての務めですから、と言っているのです。それが何年先になるかは分かりません。父親がまだ若かったら30年後、40年後かもしれません。それに対してイエス様は、そうではない、わたしに従いなさい、と言われた。息子の務めもあるだろう。しかし、わたしに従うことはそれに優先する。わたしに従うことこそ第一のものとしなければならないことなのだ。そうイエス様は言われたのです。
 続いて言われた「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」というのは、あなたはわたしに従う者となった。だからもうまことの命の中に生きている。死によって支配されない者として生きている。あなたはこの命の中に生きているのであって、死がすべての終わりである所、死がすべてを支配する所には生きていない。死ですべてが終わると思っている者は、死の支配の中にあり、それは最早死んでいる者だ。死んだ者は、死んでいる者に任せたらいい。あなたが為すべきことは、まことの命であるわたしに従うことだ。イエス様はそう言われたのです。
 私共も葬式をします。しかしそれは、死の支配の中にある営みではありません。イエス様の復活の命の中にある営みなのです。死がすべての終わりではないことを知っている者の営みなのです。

7.わたしに従いなさい
 さて、この弟子はどうしたでしょうか。聖書は、直接的には何も記していません。しかし、次の23節に「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」とあります。私は、「弟子たち」の中にこの弟子も入っていたと思います。何故なら、この弟子はイエス様に「わたしに従いなさい。」と告げられたからです。このように告げられたら、従うしかないのです。
 私共にはこの弟子の言いぐさが良く分かると思います。この世のしがらみと申しますか、キリスト者になったら祭りのことはどうするのか、先祖のお墓はどうするか、お寺との関係はどうなる、親戚は何と言うだろう等々、色々なことを考えるかもしれません。しかし、そういうことを一つ一つ考えて、結論を出して、どんなことがあってもイエス様に従っていく覚悟をもってイエス様に従わなければならないのかと言えば、そうではないでしょう。大切なのは覚悟ではなくて、イエス様が「わたしに従いなさい。」と言われたことに「はい。」と答えるかどうか。このイエス様の招きに応えるのかどうか。それしかありません。イエス様に従っていくのは、私共の覚悟によってではなく、ただ私共を召してくださったイエス様の憐れみによるのです。イエス様が招いてくださったのならば、イエス様が何とかしてくださるのです。
 私の高校時代の友人に、私が牧師になる前でしたが、教会に集うようになって家族みんなで洗礼を受けた人がいます。今、私の故郷の教会で役員をしています。彼は農家に養子に行きました。教会に通うようになったのは仙台でサラリーマンをしていたときでしたが、いずれ故郷に帰り、妻の実家の農家を嗣ぐことになる。それで洗礼を受けるかどうかという時に私に電話をしてきました。「洗礼を受けたいと思うが、自分は農家に養子に行った身だ。養子に入った家のお墓を守らなければならない。自分が死んだら、葬式をどうするのか。自分の墓はどうするのか。」そんな相談の電話でした。私は、「どうにかなるんじゃない。洗礼というものは、そういうことに全部結論を出してから受けるものではないと思うよ。神様があなたを召したなら、それに答える。それだけじゃない。」と申しました。彼は大変素直な人で、「そうだな。何とかなるな。」と言って、夫婦と与えられていた幼子みんなで洗礼を受けました。イエス様に従うとは、そういうことでしょう。何を第一とするかということです。

 最初に申しましたように、私共の求めと神様が与えてくださるものの間にはズレがあります。このズレはどのようにして埋まっていくのか。それは、イエス様に従っていく中で埋まっていく。それしかありません。神様は、私共が願い求めているものよりもずっとずっと大きな恵みと祝福を、いつも私共に備えてくださっています。
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐には、私共に備えられている大いなる恵みが何であるかが示されています。それは、罪の赦しであり、体のよみがえりであり、永遠の命であり、神様との親しい交わりです。この恵みに与る者として私共は召されたのです。何とありがたいことでしょう。この恵みを覚え、今、心から御名をほめたたえたいと思います。

[2017年9月3日]

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