富山鹿島町教会

礼拝説教

「聖なる神の御前に」
出エジプト記 19章10〜25節
ペトロの手紙一 1章13〜16節

小堀 康彦牧師

1.聖なる神様
 以前、家庭集会で、ある求道者の方にこのように問われたことがあります。「どうして、神様はその姿を私共にお見せにならないのでしょうか。見せてくださればすぐに神様を信じられるのに。」確かに、ヨハネによる福音書1章18節には、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と記されております。神様を見た者はいまだかつて一人もおりません。それはどうしてなのか。理由は幾つもあるでしょう。そもそも、神様というお方は、私共が勝手に想像するような姿形を持ってはおられないということでありましょう。神様は天と地のすべてを造られた方であり、私共一人一人と共におられ、私共一人一人の中におられ、私共一人一人の上におられ、そして天におられ、また天でさえも納めることが出来ない程のお方である、と聖書は告げています。どこにおられるのかということさえ特定することが出来ないお方なのです。姿形を持つお方として見ることなど、到底出来ないお方なのです。私はその時に、今のように答えました。しかし、家庭集会から戻る車の中で、もっと重大な理由があるのに、それを答えなかったことに気付き、とても反省しました。そのもっと大切な理由とは、神様は絶対的に聖なるお方であるが故に、私共が見ることが出来る程に近づけば、私共は滅んでしまうということです。
 それは、太陽を見ようとすれば目が潰れてしまうし、太陽に近づけば余りの高温で焼かれてしまうのに似ています。神様の聖さとはそのようなものです。罪ある者が近づくことが出来ない程のものなのです。「どうして、神様はその姿をお見せにならないのか。」と問うた求道者の方は、自分は神様を見ることが出来る、神様に近づいても平気だ、問題ない、そう思っているのでしょう。神様の聖さと自分の罪ということが分かっていなかったのです。私共人間と神様との隔絶というものは、私共の想像をはるかに超える程に大きなものなのです。私共の神様は、同じ神様という言葉を使っていても、森の神様や太陽の神様や沼に住んでいる神様とは全く違うのです。天と地のすべてを造られた、ただ独りの神様です。しかし、そのような神様が、前回見ましたように、私共を御自分の宝とすると言われるのです。何とありがたいことかと思います。

2.聖なる体験
 今朝与えられております御言葉は、そのように私共から絶対的に隔絶しておられる聖なる神様が、モーセを通してイスラエルの民に律法を与え、契約を結ばれるためにシナイ山に降られた時のことが記されております。
 ここに記されているのは、イスラエルの民が経験した聖なる体験と言っても良いでしょう。聖なる神様がイスラエルの民にその姿をお見せになった訳ではありませんが、今ここにいる、現臨しているということをイスラエルの民に経験させたのです。今までもイスラエルの民は、海の奇跡やマナの奇跡等々で神様の不思議な業を見、経験してきました。神様の大いなる力を知らされてきました。しかし、神様そのものに触れる、神様の現臨に触れるということはありませんでした。イスラエルの民は、ここで神様の現臨に触れたのです。ここでイスラエルの民は、神様を畏れる、聖なる方を畏れるということを身をもって知ったのです。この体験は、神の民イスラエルにとって忘れることの出来ない経験となりました。この聖なる神様を畏れるという感覚と共に、神様と結ばれた契約は受け継がれていったのです。畏るべき聖なる方が、自分たちを愛してくださって、十戒を与え、契約を結んでくださった。神様との契約、十戒は、ただ言葉として神の民に伝えられ続けたのではなくて、この聖なる体験と共に、聖なる神様を畏れ敬うという感覚と共に伝えられてきた。ここに、神の民の礼拝の原体験というべきものが与えられたのです。
 この時、何が起きたかと言いますと、16〜17節「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。」とあります。雷鳴が轟き、稲妻が走り、シナイ山を厚い雲が覆いました。そして、角笛の音が鋭く鳴り響いたのです。角笛は一本だけが鳴ったのではないでしょう。何本も何本もの角笛が鳴り響いた。イスラエルの民は恐れ、震え上がりました。モーセは、イスラエルの民を山のふもとまで連れて行きました。シナイ山は全山煙に包まれ、火の中に主は降られました。山全体が激しく震えました。角笛はますます鋭く鳴り響きました。モーセが神様に語りかけると、神様は雷鳴をもって答えられました。神様は雷鳴、稲妻、火、煙、地震、角笛の音といった、実に恐ろしい状景をもって、自分はここにいるということをお示しになったのです。しかし、神様御自身の御姿はこの時もイスラエルの民に現されることはありませんでした。
 このような状況の中で、モーセは神様によって呼び寄せられ、山の頂へと登りました。この時、神様はモーセに告げられました。21節「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。」神様はこれ以上近づいてはならないという境を設け、民はそれを越えると死んでしまう、そうならないように民に告げよと言われたのです。このことが、聖なる神様と私共人間との隔絶をはっきり示しております。見るどころか、近くに行くだけで命を失ってしまう。近づくことさえ出来ない。神様とはそれ程までに聖なるお方なのです。

3.イエス様の十字架の故に、神に近づくことが許された私共
 しかし、そのように私共とは隔絶された、天地を造られた全能の聖なる神様が、私共を御自分の宝としてくださり、そのために契約を結んでくださる。まことに不思議な、ありがたいことです。更に、この聖なる方が、私共を御自分の宝として愛するが故に、私共を我が子としてくださり、私共の父となってくださったのです。そのために、独り子イエス・キリストを十字架にお架けになりました。私共が今朝、ここにこうして集い、神様に向かって「父よ」と呼び奉り、神様に向かって礼拝を捧げている。私共は神様に撃たれることなく御前に集い、神様との親しい交わりを与えられている。それは、ただイエス・キリストの十字架の故なのです。イエス様の十字架がなければ、私共と神様との親しい交わりなど、あり得ないのです。旧約の時代、神殿の一番奥にあった至聖所。そこは神様の足台と考えられておりました。そして、そこに入ることが出来たのは年に一度、大祭司だけでした。しかし、私共は今このように、主の日の度毎に神様の御前に集っています。聖なる神様の御前に集い、礼拝している。それは、イエス様の十字架の故です。
 ヘブライ人への手紙10章19〜22節に「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。私共はイエス様の血によって聖所に入れるようになったのです。
 イエス様が十字架にお架かりになった時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた、とマタイによる福音書27章51節に記されております。この至聖所の垂れ幕こそ、神様と人間とを隔てる境でした。その境が破られたのです。それは、イエス様が十字架にお架かりになることによって、神様と人間との間の、罪という隔絶を取り除いてくださったからです。このことによって、私共と神様との親しい交わりを回復してくださったからです。神様との愛の交わりに生きるという、新しい命の道を開いてくださったからです。だから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と告げているのです。イエス様の十字架の故に、私共は、恐れることなく神様に近づくことが許されたのです。その恵みの中で、私共は、このように主の日の礼拝を捧げることが許されている。まことにありがたいことです。しかし、この礼拝の場が聖なる方の御前であるという畏れを失ってはならないでしょう。この畏れが失われれば、この礼拝の場が神様の御前であることが分からなくなってしまいます。

4.神様の御前に出る備え
 神様がシナイ山に降られたのは三日目でした。その前の二日間は、それに対する備えをする日とされたのです。その備えとは、衣服を洗い、女に近づかず、境を設けることでした。境を設けるということについては、今申しましたように、聖なる神様にこれ以上近づいて命を失うことがないようにするためでした。そして、衣服を洗うというのは、身を清めるということです。女に近づかないというのは、Sexをしないということです。これらは、神様の御前に出る者として、日常の生活も整えるということでしょう。
 もう40年程前になりますが、私が洗礼を受けた教会では、クリスマスやイースターの時など、明治生まれの女性の方たちは紋付き羽織を着て礼拝に集っておられました。正装をして礼拝に集っていたということでしょう。今ではそのような姿は見られなくなったでしょうが、神の御前でということをそのような着物を着ることで表していたということなのでしょう。美しい習慣だと思いました。そのような習慣を生んだ聖書の個所が、神様の御前に出る前に衣服を洗うように告げられた、この個所なのだと思います。
 イスラエルの荒れ野の旅において、水は大変貴重ですから、衣服を洗うということは滅多にしなかったに違いありません。しかし、この時は洗ったのです。そうするように、神様に告げられたからです。もちろん、大切なのは衣服のことではありません。自らの罪を悔い、赦しを求め、神様の恵みに与る者として、心も体も生活も神様に向けるということです。そのような備えを二日間させて、それから三日目に神様はシナイ山に降られたのです。
 私共にとっても、それは同じでありましょう。礼拝に集う私共もまた、備えをするのです。備えをもってここに集うのです。その備えとは衣服のことではありません。イエス様の十字架の故に神の子、神の僕とされた恵みを心に刻むこと。ここで告げられる神の言葉に期待して聖書を読むこと。礼拝奉仕者のために、牧師・奏楽者・司式者・献金奉仕者たちのために祈ること。そして、ここで献げる献金を備えることも大切でしょう。何よりも、備えをもって礼拝に集うということが大切なのです。牧師や司式者や奏楽者だけが礼拝に備えるのではないのです。ここに集う者、皆が備えをもって礼拝に集うのです。

5.主の再び来たり給うを待ち望みつつ歩む
 では、私共はいつから主の日の備えをするのでしょうか。聖書に二日間とありますから、金曜日からでしょうか。具体的な備えはそういうことになるのかもしれません。しかし、私共は毎週、主の日の礼拝に集うわけです。ですから、私共の一週間の歩みは、主の日の礼拝から次の主の日の礼拝へと向かう歩みなわけです。とするならば、私共の一週間の歩みのすべてが、次の主の日への備えとしての歩みであると言えるのではないでしょうか。ここにキリスト者の生活、キリスト者の倫理というものが立ち現れてくるのです。キリスト者はどのような歩みを為していくべきか。その問いに対しての一つの答えが、主の日の礼拝に備える者として歩むということです。
 そして、このような営みは、実に主が来られる日に向けて歩むということと重なるのです。主が再び来られる時、私共の救いは完成し、私共は復活の体を頂き、共々に御名をほめたたえます。その時私共は、神様と顔と顔とを合わせて相見えることになります(コリントの信徒への手紙一13章12節)。神様が私共と隔絶した聖なる方であることを思います時、この終末における恵みがどんなに度外れたものであるかが分かると思います。私共の主の日の礼拝は、この終末において与えられる、神様と相見えることの先取りです。ですから、主の日の礼拝への備えは、終末を待ち望む者の生活と重なるのです。
 この点につきまして、先程お読み致しましたペトロの手紙一1章13〜15節で、「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」と言われています。これが私共の、次の主の日を待ち望んで備える生活であり、イエス様が再び来られる日を待ち望んで営まれるキリスト者の生活なのです。ここには、衣服を洗うというようなことは記してありません。それよりも、心を引き締め、身を慎むということが言われています。それは、いつイエス様が来られても良いように備えて生きるということでありましょう。

6.欲望に引きずられことなく
 そして、その特徴の一つは、「欲望に引きずられない」ということです。イエス様を知らなかった時、私共は自分の欲に引きずられ、これを満たすことしか考えられませんでした。この自分の欲というものには、様々なものがありましょう。目に見える何かを手に入れたいということもありましょう。こんな生活がしたい、こんな地位に就きたい、こんな人と結婚したい。色々です。しかし、この欲というものは中々厄介なものです。一度満たしたところで、すぐに不足を見つけては満たされなくなるという。ですから、私共のイエス様を知る前の人生は、取りあえず今の欲を満たす、目の前の欲を満たす、それが満たされれば又次の欲を満たそうとする。その連続だったのではないでしょうか。しかし、今や、イエス様の救いに与って、目に見えるもので欲を満たすということが一番ではなくなりました。イエス様が来られた時に、救いの完成に与る。それが何より大きなこと、大切なこと、一番の願いとなりました。私共は、その日を目指し、その日に向かって、自分の全生活を整えていく。それが、私共の日々の歩みを形作っていくことになったのです。

7.聖なる者として生きる
 もう一つ、ここで言われている大切なことは、聖なる者として生きる、生活のすべての面で聖なる者となるということです。本当に聖なる方は神様しかおられません。ですから、「聖なる者」とは、「神様のものとされた者」という意味です。私共は自分の人生の主人ではなくなったということです。私共の主人は、ただ独りの神様だけです。この神様のものとされた者がどう生きるのか。それは、イエス様の言葉で言うならば、神を愛し、隣人を愛するということになりましょう。全力で神様を愛し、隣り人を愛する。全力で神様にお仕えし、隣り人に仕えるということです。このイエス様の戒めを心に刻んで、これに従う者として生きる。
 そして、そのような歩みの中核に、毎週の主の日の礼拝があるのです。それはちょうど、ボウリングをする時に、先にあるピンを目掛けるのではなくて、そのずっと手前にある、レーンに付いているマークを目掛けてボールを投げるのに似ています。手前にあるマークを目掛けて投げる方がずっと易しいからです。私共は主の日の礼拝に与りながら、次の主の日の礼拝へと歩み出していきます。そしてその歩みこそが、イエス様が再び来られる日を、神様と顔と顔とを合わせて相見える日を心から待ち望む者の歩みなのだということなのです。主が再び来たり給うを待ち望みつつ、ここからまた次の主の日の礼拝へと向かう歩みを為してまいりましょう。

[2017年8月27日]

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