富山鹿島町教会

礼拝説教

「信仰によって生きる」
信仰によって生きる
創世記 12章1〜4節 ヘブライ人への手紙 11章1〜3、8〜16節

小堀 康彦牧師

1.「望んでいる事柄」とは
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」そう聖書は私共に告げます。大変有名な聖句です。私共が信仰について考え、語ろうとする時に、必ず引用される聖句です。しかし、多くの有名な聖書の言葉がそこだけを抜き取ることによって誤解を受けてしまうように、この聖句もまた、しばしば誤解されてきました。それは、この「望んでいる事柄」というのを、自分がこうなればいいな、こうしたいな、そのように単に自分が求めている事柄として理解されてしまう。そして、自分の願っていることを強く念じて信じるならば、その願いは叶えられるのだ。そんな風に受け取られることが少なくありません。しかし、この聖書の言葉はそのようなことを告げているのではありません。それは全くの誤解です。ここで告げられております「望んでいる事柄」とは、何でもいいから自分がそうであって欲しいと望む事柄ではないのです。明確に一つのことを指しています。それは天における報いであり、永遠の命です。

2.生きて確認する
 この言葉の直前には、10章39節「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」とあります。信仰によって命を確保する者。それがキリスト者です。イエス様による救いを信じて、イエス様の救いに与って、命を確保する。この命とは、肉体が滅びても滅びることのない永遠の命です。これこそが「望んでいる事柄」です。これを確信する。これは見えないことです。手で触れることも出来ません。しかし、信じる。これを信じて生きる。このことに自分の全生涯をかけて生きる。それが信仰なのだと聖書は告げているのです。
 今朝の説教題は『信仰によって生きる』としました。私共は、信仰というものを心の問題としてしまうところがあります。この有名な1節の言葉にしても、「望んでいる事柄を確信」することだと言っています。信仰とは確かに私共が信じることであり、確信するのですけれど、それは決して心の問題で終わるものではありません。この信仰の確信は、必ず、どう生きるかということと結ばれます。この聖句は「望んでいる事柄を確信し、」と言ってすぐに、「見えない事実を確認することです。」と続いているのです。どうやって見えないことを確認するのでしょうか。それは、生きることによってです。天の報いを、永遠の命を、天の国を確信して、それにすべてをかけて生きる。そのことによって、見えない事実、すなわち神様の御支配、神様の愛、神様の真実、神様の御業というものを確認させられていく。それが信仰なのだと聖書は告げているのです。
 私共は確信したのならば、それを基として生きることになる。そして、そのように生きることによって、その確信が間違ってはいないということをいよいよ確認していくのでしょう。

3.お金の例え
 あまり良い例ではないかもしれませんが、私共はお金というものを、自分が欲しい物があればお金を使って手に入れることが出来るということを確信しています。お店に行って、このお金で商品が買えるかどうか疑う人はいません。私共は、経済の仕組みがどうなっているかなど分からなくても、お金という紙切れによって様々な物を手に入れることが出来ると何の疑いもなく確信しています。そして、お金を持っていればいつでも必要な物を手に入れることが出来ると信じて生きています。そして、実際にお金を使って生きている。しかし、もしお金を持っていても一度もそれを使ったことがなければ、お金は必要な物を手に入れることが出来ると教えてもらっても、本当だろうかと不安になるでしょう。お金はただの紙切れですが、バケツにしてもヤカンにしても大変な労力で造られ、実際に役に立ちます。食べ物も、実際に私共の命を保ちます。そのような物をこの紙切れで手に入れることが本当に出来るのか、そして、こんな紙切れを持っていても意味があるのかと思うのではないでしょうか。しかし、毎日お金を使っている人は、それを使うことが出来るだろうかと不安になったりは、決してしません。
 信仰もそうなのです。天の国、天の報い、永遠の命を信じたのならば、それに向かって全生涯をかけていく。そうすれば、私共は次々と確認することになるのです。信仰は、信仰によって生きることにより、確認されていくのです。信仰によって生きるということがなければ、確信も確認も出来ず、どこまで行っても、本当にそうだろうかという所にとどまり続けることになってしまいます。信仰はお金と違って見えない事ですから、どこまでもこの不安が付きまとうことになる。どうして、この不安から確信へと変えられていくのか。それは望んでいる事柄を信じて生きることによってなのです。信仰によって生きることによってなのです。

4.信仰によって生きた人々の群れ
 聖書は、この信仰によって生きた人たちを、信仰の証人として次々に挙げていきます。カインとアベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ等々。そして、11章32節には面白い言葉が記されています。「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。」その通りです。ここにイザヤ、エレミヤ、エゼキエル等々の預言者を書き加えていったなら、いくら時間があっても足りません。信仰によって生きた人たちを挙げればきりがないのです。
 ヘブライ人への手紙は、まだ新約聖書というものがまとめられる前に記されておりますので、新約の人々の名前が出て来ません。当然、私共はここに新約聖書に出て来るペトロ、ヨハネ、ヤコブ、パウロ、バルナバ、テモテといった人々の名前を加えることが出来るでしょう。それだけではありません。二千年の教会の歴史を彩った人々の名前を加えることが出来るでしょう。アウグスチヌス、アタナシウス、大バレリウス、大グレゴリウス、ルター、カルヴァン。どれだけでも加えることが出来ます。いや、そのようにキリスト教の歴史に名を残した人々だけではなくて、何億、何十億というキリスト者の名を加えることが出来ます。また、私共の教会の先達の名を挙げることも出来るでしょう。皆、信仰によって生きた人たちです。皆、信仰によって生きることにより、望んでいる事柄を確信するとはどういうことなのか、見えない事実を確認するとはどういうことなのかを実証したのです。

5.アブラハム:信仰によって生きた実証者
 今日は、その中のアブラハムについて少しだけ見たいと思います。8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」これは先程お読みしました創世記12章の出来事を指しています。アブラハムはハランに住んでおりました。既に妻もおり、75歳になっていました。アブラハムは、12章1〜2節の「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」という神様の言葉に従ってハランを出発したのです。行き先も知らず、ただ神様の言葉に従って出発したのです。彼に与えられたのは神様の約束の言葉だけです。実に信仰とは、神様の言葉を信じて、これに従い、一歩を踏み出すところに始まるのです。
 彼は、「あなたを大いなる国民にする」との約束を受けていたのに、子どもがおりませんでした。彼は、自分に子が与えられるということを信じることが出来ないこともありました。しかし神様は、信じることが出来るようにしてくださいました。そして、神様はその全能の力をもって、高齢で月のものもなくなった妻サラとの間にイサクを与えられました。11〜12節「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」とある通りです。
 アブラハムは、その地上の生涯においては一人息子のイサクが与えられただけでした。彼は生涯、旅人であり、寄留者でした。彼が生涯で手に入れた土地は、妻サラの墓地だけでした。彼は、その生涯において目に見えるような、後世に残るような偉業を達成したわけではありません。何かを発見したり、発明したり、大きな国を作ったり、世界遺産になるようなものを建てたわけでもありません。しかし、人類の歴史の中で最も偉大な人の一人となりました。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教における最初の信仰者となりました。世界の人口の半分以上の人が信仰の父祖として敬う人となった。それは、彼がまだ見ぬ神様の約束の実現を信じて、生涯そこにすべてを注ぎ込むという歩みをしたからです。私共ははっきり知らなければなりません。私共が大いなる者となるのは、何かを手に入れたり、達成したりするからではないのです。ただ信仰によって生きたかどうかです。
 アブラハムは私共に人生の目的を示す者となりました。そこに彼の偉大さがあります。13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」たのです。16節「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」これが信仰によって生きる、信仰によって歩むということです。
宗教改革者カルヴァンは、青少年の信仰を育成するために『ジュネーブ教会信仰問答』を記しました。その問1は「あなたの生きる主な目的は何ですか。」答「神を知ることであります。」とあります。「神を知ること」とは、神様を崇め、礼拝すべきお方として知るということです。それが生きる目的なのだと教えたのです。しかし、これはカルヴァンが発見したり、発明したりしたものではありません。信仰の父祖アブラハムが、その生涯をもって示したことなのです。

6.神様に与えられた人生を生きる
 私共は、この地上にあっては神様が約束してくださったものをすべて手に入れているわけではありません。約束は与えられています。その約束は、真実な神様の約束ですから反故にされることはありません。しかし、既に手に入れているわけではないのです。私共に約束されている天の住まい、永遠の命、復活の恵みは、私共が生きている間に目にしたり、手に入れたりすることは出来ません。私共は、信仰を持たぬ人と同じように、病気にもなり、老いの辛さも味わわなければなりませんし、やがて死にます。しかし、それで終わりではないことを私共は知っているのです。私共はやがて神様の御前に立ち、輝かしい栄光と祝福、神様と顔と顔とを合わせて相まみえるというこの上なき親しき交わり、復活の体を頂いて生きる永遠の命、それを受けることになっている。そのことを目指して、私共はこの地上の生涯を歩んでいるのです。
 この天における大いなる報いを知らなかったのなら、私共はどう生きていたでしょうか。きっと、見えるものがすべてであり、見えるものを手に入れ、見えるものに頼り、自分の生涯のすべてをそこに注いでいたことでしょう。  目に見えるものは意味がないとか、どうでもいいとは言いません。私共がこの地上の歩みをする上で、家族も大事、仕事も大事、お金も大事、健康も大事です。でも、それらはすべて、目に見えない神様との関係において受け取らなければ、結局の所、自分の欲を満たすだけのものになってしまうでしょう。この人間の欲というものはなかなか厄介なもので、これで満足ということがありません。ですから、いつも不満を抱えている。人間は満たされているところにではなく、満たされていないところにばかり心が向かうものなのです。
 3節を見ますと、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とあります。信仰によって、私共は目に見える世界が神様によって造られたことを知ります。これは単に、昔々神様が天と地とを造られたということだけを意味しているのではありません。自分も、自分を取り巻く環境や状況もまた、神様によって造られた、神様によって与えられたものであるということを知るようになるということです。
 私共の地上の命は、神様によってやがて与えられる天上の命へと続いています。そこに向かって、神様の言葉に従い、神様の約束を信じて、私共は生きるわけです。とするならば、神様の言葉に従って生きる以上は、この地上の命もまた、神様の御手の中にあるはずなのです。ここに至って、目に見える世界における私共の日々の生活と、やがて与えられる天上の祝福とが結び付くことになります。これが決定的に大切なのです。これがバラバラですと、日々の生活が信仰によって生きるということにならない。日々の生活は単にお金を得るため、目に見える栄光を手に入れるため。信仰、信仰と言うのは日曜日だけ。月曜から土曜までは別の生活。そんなことになりかねません。しかし、私共の家族も、仕事も、今ここに生きていることもすべて、私共が天の国に向かって生きるために神様が備えてくださったものなのです。
 私共は、自分ですべてを選んで生きていると思い違いをしてはいけません。確かに私共は、この人と結婚しようと自分で決めたのですし、この仕事をしようと自分で決めたのです。しかしそこに、見えない神様の御手、神様の御意志というものを見るのです。この地上の歩みが天の国へとつながっていることを信じるとは、そういうことです。私共は神様の導きの中で、この家族と共に生活し、この仕事をして生活するように遣わされている。神様がそのように導いてくださったということは、その場で私共が神様の御心を為す、神様の栄光を現すために他なりません。見えるものに縛られず、囚われず、神様が与えてくださる天の御国に向かって歩む姿を示す者として生きるということです。
 もちろん、神様が導いてくださった仕事なのだから、何が何でもこれを続けなければいけないということではありません。アブラハムは旅をしたのですから、その地にとどまることを絶対に続けなければならないと考える必要はありません。神様が命じられた所には、どこでも行けば良いのです。私も、会社を辞めて、神学校に行きました。仕事を召命として受け止めることが大切なのです。この地上で御国を目指して生きる者としての姿を示すとは、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える者として生きるということでありましょう。イエス様の言葉、神様の言葉に従って生きるということです。
 信仰によって生きるとは、自分の置かれている場、為すべきことを、神様が与えてくださった場として、為すべき務めとして、信仰をもって受け取り直すということなのです。大変な時もありましょう。しんどい時もありましょう。しかし、神様は私共を御国へと導いてくださっています。イエス様はそのために十字架にお架かりになるほどに私共を愛してくださっているのですから、この大変な時がいつまでも続くはずがないのです。私共には天の報いがある。そこに目を向けて歩むのです。

7.遅いということはない
 最後に一つだけ確認して終わります。信仰によって生きるのは、晩年になってからでは遅くはないのかと思われる方がおられましたら、はっきり申し上げます。たとえ、明日この地上の命が終わるという時であっても、遅すぎるということはありません。幼い時から、或いは若い時から、神様を信じて生きてきたという人もいるでしょう。それは幸いなことです。しかし、人によっては、年老いてからイエス様の救いの恵みを知ったという人もいるでしょう。その時がいつなのかは神様がお決めになることですから、早いも遅いもありません。幾つであっても大切なことは、「今日神様の御声を聞いたのなら、今日から従う」ということです。そうすれば、必ず、神様は天の御国を、全き罪の赦しを、永遠の命を与えてくださいます。
 私共は既に神様の恵みの御手の中に生かされています。この目に見えない事実を、神様の言葉を信じて従って生きる中で確認させていただく日々を歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2017年8月20日]

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