富山鹿島町教会

礼拝説教

「祭司の王国、聖なる国民として」
出エジプト記 19章1〜9節
ペトロの手紙 一 2章9〜10節

小堀 康彦牧師

1.出エジプト記の後半へ
 月の最後の主の日は出エジプト記から御言葉を受けています。今朝与えられておりますのは、19章の始めの所です。小見出しには「シナイ山に着く」とあります。出エジプト記はここから第二部、後半へと入ります。
 18章までは、出エジプトに際して神様が為してくださった様々な出来事が記してありました。エジプトに対する十の災いがありました。海が左右に分かれて道が作られるという出来事がありました。マナが与えられるという出来事もありました。水がなくて、モーセが岩を打つと、岩から水が出るという出来事もありました。アマレクとの戦いもありました。このように、18章までは次々と出来事が起きました。
 けれど19章以下では、シナイ山において与えられた律法がずっと記されていくことになります。シナイ山で律法が与えられ、イスラエルの民が神様と契約する。これをシナイ契約と呼びます。これが旧約の中心です。旧約の中心は律法、律法の中心はシナイ契約、シナイ契約の中心は十戒です。20章に十戒が記されておりますが、ここで律法は終わるかというと、ずっと続く。聖書を開いて見ていただくと分かるのですが、20章の十戒の後、律法の記述は出エジプト記の最後まで続きます。それだけでは終わらずに、更にレビ記にもシナイ山で与えられた契約が記され、何と、シナイ山をイスラエルの民が出発するのは民数記の10章なのですが、そこまで続くのです。
 つまり、この出エジプト記19章から民数記10章までずっと、モーセを通して神様からイスラエルの民に与えられた律法が記され続けるのです。旧約の124ページから229ページまで実に106ページにわたって、シナイ山で与えられた律法が記されているわけです。民数記10章11節には「第二年の第二の月の二十日のことであった。」とあります。シナイの荒れ野に入ったのは第一の年の三月目ですから、何と約一年にわたってイスラエルの民はシナイの荒れ野にいて、神様から律法を与えられ続けたことになります。100ページ以上にわたってこのように律法が記されていて、その最初に記されているのが出エジプト記の20章にある十戒です。十戒を与えられ、その他の律法も与えられ、イスラエルの民は神様と契約を結びます。ここに神の民としてのイスラエルが誕生いたしました。
 このように、この出エジプト記の19章から出エジプト記の後半に入るということが分かっていただけたかと思います。

2.神の民イスラエルにおける祭りの連続性と断絶
 もう一つ申しますと、19章1節に、「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。」と記されています。過越の出来事があったのは一月の十四日でした。それから、一ヶ月半経ったわけです。そして今朝与えられた御言葉の次の所に、イスラエルの民は三日間、神様と契約するために備えをしたことが記されています。それから十戒を与えられ、契約を結びます。ですから、過越の出来事から五十日後、これはペンテコステの祭りの日ですが、この日は、ユダヤ教においては律法を与えられたことを記念する祭り、「律法授与の日」としてとして守られることになりました。新約と旧約の祭りについて見てみますと、旧約における過越の出来事がイエス様の十字架、復活を祝う祭りとなりました。エジプトの奴隷からの解放を祝う祭りは、イエス様の十字架・復活による罪からの解放、死からの解放となったわけです。そして、この律法授与を祝う祭りは、聖霊降臨を祝う祭りとなりました。律法には神様の御心に従って生きる道が示されており、イスラエルは神様と契約を結び、神の民として神様の御心にかなう道を歩む民となったわけですが、しかし、人はこの律法を完全に守ることは出来ません。神様はそのような私共が神様の御心に従って歩むことの出来る力を与えるために、聖霊を与えてくださったのです。これは神様の御計画によるものでしょう。律法は、神様の御心に従って生きるとはどういうことかということを具体的に示したものですけれど、イエス様の赦しに与った私共には聖霊が注がれて、聖霊の導きの中で、神様と共に、神様の御心に従って生きる者にされたということなのです。

3.先行する神様の恵みの御業
 さて、今朝与えられております19章の前半の所には、今から律法が与えられ、神様と契約を結んで神の民とされるイスラエルに対して、神様がモーセを通して語られた、神様の思いとも言うべきものが記されています。
 第一に、神様は今までイスラエルに対して御自身が為されてきたことを思い起こされます。4節「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。」神様はイスラエルをこのシナイの地に導いてくるまで、様々なことを為してくださいました。それを神様は、「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと」と言われ、更に「あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来た」と言われます。エジプト軍に追われたり、パンがなかったり、肉がなかったり、水がなかったり、本当に大変なことの連続だった一ヶ月半だったわけですけれど、神様は「鷲の翼に乗せて連れて来た」と言われるのです。このように言われると、何の問題もなかったようであります。イスラエルの人々にしてみれば、問題がなかったどころではない。問題だらけだった、大変なことばっかりだったと思ったかもしれません。しかし、神様は「そうではない。」と言われるのです。それは「あなたたちは何もしなかった。わたしがすべて備えて、守って、ここまで導いたのではないか。」そう言われているのです。
 この18章までの出来事は、神様がイスラエルの民と契約を結ぶ前提となっているのです。こう言っても良いでしょう。イスラエルは神様と契約を結んで神の民となるのですけれど、イスラエルは神の民となって初めて神様の御手の中で生きる者となったわけではないのです。既に神様の守りと導きの中にあった。その神様の恵みの中にあった者が契約を結ぶということです。神様の恵みの御業、救いの御業が先にある。この恵みに応えて、この救いの御業を基にして、契約が為されるということです。
 私共もそうなのです。洗礼を受けて初めて神様の恵みの中に入れられるのではないのです。それに先行して、神様の救いの御業がある。私共は既に愛されていました。そのことを知り、私共はイエス様と共に生きる決断を与えられ、洗礼を受けたのでしょう。イエス様は、私共がイエス様を信じたから十字架に架かり、復活されたのではありません。神様の救いの御業がまず先にあるのです。私共は不思議なように教会に導かれ、既に神様の愛の御手の中に生かされていることを知りました。私共は、まさに鷲の翼に乗せられて神様の御許に集う者とされたのでしょう。人生色々あります。大変なこともたくさんあります。しかし、守られている。しかし、支えられている。しかし、導かれている。そして、今があるということなのでありましょう。

4.わたしの宝
 第二に、5節「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」とありますように、神様はイスラエルと契約を結び、イスラエルを「わたしの宝」とすると言われました。宝というのは、特別に大切なもの、特別に心を向けるものということでしょう。イスラエルは特別に優れた民だからそのようにされたというのではありません。イスラエルの民が特別に善人の集まりだから宝となるというのでもないのです。神様の声に聞き従う民。神様を信頼し、神様に従い、神様を愛する民。それ故に、わたしの宝となるというのです。
 ここに、私共の本当の価値があります。人が私をどう評価するか。世の中でどう見られるか。そんなことはどうでも良いのです。自分にはこんな才能がある。能力がある。そんなことも関係ありません。神様が私を宝と見てくださり、取り扱ってくださる。ここに私共の本当の喜びと誇りがあります。
 人間にとって誇りは大切です。しかし、何を誇りとするかは、もっと大切です。私共は目に見える一切のものを誇りとしません。ただ、神様の宝とされている。ここに私共の誇りがあります。この誇りをもって私共は神様と契約を結んだ者、神の子、神の僕とされた者として、神様の御言葉に従って生きるのでしょう。

5.祭司の王国
 第三に、神の民は「祭司の王国となる」と言われます。ここに、神様がイスラエルと契約を結ばれる目的があります。祭司というのは、民と神様との間にあって、民を執り成し、神様と民を結びつける、そういう役割を持つ人のことです。イスラエルは、祭司の王国とされるのでありますから、自分たちが神様に愛されている、宝とされている、そのことに満足するのではなくて、自分たち以外のまだ神様を知らない人々のために執り成しをする、その人たちを神様の許に導く、そのような役割を持つ者となるということです。
 キリスト教は二千年の間、伝道をし続けてきました。今では23億人のキリスト者が世界におり、主の日のたびに礼拝を守っています。それは、キリストの教会が、この祭司としての役割を自覚的に受け止めてきたからです。
 イエス様の時代のユダヤ教では、異邦人は救われない民、汚れた民として交わること自体を避けました。しかし、それは祭司の王国としての役割を自ら捨てたということなのではないでしょうか。イスラエルは神の民となり、確かに神様の宝とされ、特別に大切なものとしていただいた。そこに誇りを持ちました。しかし、その誇りは、決して他の民を見下すということになってはならないのです。それでは、祭司の役割を果たすことが出来ないからです。祭司は、民に神様の御心を伝え、民の罪を神様に執り成す役割を果たさなければならないからです。
 ここで私共は、私共の大祭司であるイエス様を思い起こすでしょう。イエス様は、祭司とは何をする者であるかを、その十字架によって示されました。私共のために、私共に代わって一切の罪を担われ、私共の救いのために神様に執り成してくださいました。私共が祭司とされているということは、このイエス様の大祭司としてのお働きを受け継ぐ者として立てられているということです。キリストの教会がキリストの体であるとは、そのような役割を担う民として立てられているということです。
 私共はここで毎週礼拝を捧げています。それは、ここに集うことのない富山の四十万人を代表して、その人たちに代わって礼拝しているということなのです。私共は自分のためだけにここに集まっているわけではありません。家族で自分だけがここに集っているという人もいるでしょう。そういう方は、家にいる愛する家族のために、その人たちに代わって礼拝している。その人たちの執り成しをするためにここに集っている。そういうことなのです。

6.聖なる国民
 第四に、「聖なる国民となる。」神の民は、善男善女の集まりということではありません。聖なる民。それは「神様のものとされた民」ということです。聖なる方は神様しかおられません。その聖なる神様のものとされている。それが神の民なのです。
 私共は、神様のものとされました。そこに私共の唯一のな慰めがあります。ハイデルベルク信仰問答の問一「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答「わたしが、わたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」とあります。私共は誰のものでもない。自分のものでさえない。ただ、イエス・キリストのものとされました。だから、イエス・キリストの持つ良きものすべては、私のものとされる。愛も喜びも平安も祝福も、そして永遠の命も。ここに私共の、何によっても奪われることのない、ただ一つの慰めがあります。聖なる国民となるとは、そういうことです。聖なる神様のものとされた私共なのです。ありがたいことです。それが、神様との契約によってもたらされる恵みです。

7.神の民とされて
 7〜8節「モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った。」とあります。ここで民は、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います。」と言いました。これは信仰告白と言っても良いでしょう。これは民全員が言ったのです。神様が契約を結ばれたのは、神の民全員とです。私共は、一人一人が神様と契約して、その個人が集まって神の民となる、という風に考えているかもしれません。しかし、そうではないのです。神の民がまず神様との契約によって生まれる。その神の民に、一人一人が加えられていくのです。神の民は、このシナイ契約以来、ずっと存在しています。私共が洗礼を受ける前から、神の民は存在しているのです。私共が洗礼を受けるとは、その既に存在している神の民の一員として加わるということなのです。私共の信仰の歩みは、この神の民の一員としての歩みだということです。神の民は一つの群れとなって神の国を目指します。一人一人が勝手に地図とコンパスを手にとって神の国に向かって旅をする。私共はそんな独り旅をしているのではないのです。神様は神の民と共におられ、神の民を導き、神の民を救われるのです。私共は神の民の一員とされている故に、神様と共にあり、神様に導かれ、救いに与るのです。私共は一団の群れとなって、神の国に向かっての旅をしているのです。
 ペトロはそのことを、先程お読みいたしましたペトロの手紙一2章9〜10節で、「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」と告げました。まさに私共は、「かつては神の民ではなかった」のです。しかし、「今は神の民」なのです。以前は神様の光、天来の光を知らず、自らの罪に引きずられ「暗闇の中」を歩んでいました。しかし、今や、「驚くべき光の中へと招き入れ」られました。光の中を、光に向かって歩む者とされています。まことにありがたいことです。この恵みの中、共々に祈り合い、支え合い、仕え合って、この一週間も御国に向かって共々に歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2017年7月30日]

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