富山鹿島町教会

礼拝説教

「家は岩の上に建てよう」
詩編 18編2〜7節
マタイによる福音書 7章24〜29節

小堀 康彦牧師

1.権威ある者の言葉
 昨年の11月からマタイによる福音書5章〜7章の「山上の説教」から御言葉を受けてまいりましたが、今日はその最後の所です。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」で始まった山上の説教でした。マタイはここにイエス様の言葉を集めて、ひとまとまりの「山上の説教」としたわけですが、それを閉じるにあたって、マタイはこう記します。28〜29節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」イエス様の言葉を聞いた人々は非常に驚いたのです。何故かというと、イエス様は律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからだというのです。これはとても大切なことを示しています。律法学者という人たちは旧約の聖書の言葉を、「これはこういう意味です。○○大先生はこう言っておられます。」そう言って説明や解説をしていた。しかし、イエス様はただ聖書の言葉を解説されたのではありませんでした。神の独り子として、神様によってすべての罪人を救うために遣わされたお方として、神の権威をもってお語りになったのです。神様の御心はこうですと宣言された。私共は、半年以上にわたって「山上の説教」から御言葉を受けてきたわけですが、その一つ一つの教えや言葉は、神様の権威をもって私共に告げられたものであったということです。
 権威ある言葉。それは神の言葉です。神様が私共にお語りになる。それは圧倒的力を持っており、それに対して従うしかない、そういう言葉です。分かるとか分からないとか、これは中々良いことを言っているとか、これは少し違うのではないかなどと議論の対象とするような言葉ではないのです。そんなレベルの言葉ではない。まさに反論しようがない言葉です。私にこの言葉が告げられたならば従うしかない。そういう言葉なのです。
 例えば、「わたしについて来なさい。」とイエス様に言われた時、どうしてペトロをはじめイエス様の弟子たちは網を捨てて従ったのか。将来への不安はなかったのか。私共はいろいろ想像します。しかし、イエス様に召し出されイエス様に従ったとき、ペトロやほかの弟子たちに迷いはなかったはずです。権威ある方が権威ある言葉をもって、「わたしについて来なさい。」とお告げになったからです。このイエス様の言葉に対して、迷ったり不安になったりする余地はなかった。イエス様がお語りになった権威ある言葉とはそういうものです。  山上の説教の冒頭にあった「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」もそうです。イエス様が「幸いだ」と告げられた以上、その言葉を受けた人は幸いになってしまう。天の国に、神の国に生きる者になってしまう。そういう言葉です。イエス様は、そのような権威ある言葉を、力ある言葉を御自分の周りに集まって来た人々にお語りになった。それを一つにまとめたのが「山上の説教」です。
 私は、山上の説教を皆さんと一緒に読み進めていく中で何度も、「イエス様の言葉は招きの言葉だ。」と申しました。神の子として生きる。神様に愛されている者として生きる。永遠の命に与る者として生きる。神様が注いでくださる祝福の中に生きる。この新しい命へと招かれる言葉、それがイエス様の言葉だと申しました。イエス様の言葉を権威ある招きの言葉として聞いた者は、その招きを断ることは出来ません。言葉を受け入れて神様と共にある新しい命へと一歩を踏み出さないわけにはいかない。そういうものです。しかし、すべての人がイエス様の言葉をそのように聞くとは限らない。「何を理想的なことを言っているのか。右の頬を打たれて左の頬も出していたら、世の中生きていけるか。」と聞く人もいる。そういう人にとってイエス様の言葉は、権威ある者の権威ある言葉ではなかったということでしょう。
 今朝与えられている御言葉、マタイが、山上の説教の最後に、岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人のたとえ話を持ってきた理由は、ここにあります。そのことについては、後ほど見てまいります。

2.山上の説教を閉じるに当たって
 このたとえ話は、イエス様のたとえ話がすべてそうであるように、とても単純で印象深く、一度聞いたら忘れられない、そういう話です。賢い人が岩の上に建てた家は、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。愚かな人が砂の上に建てた家は、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、ひどい倒れ方をしたというのです。家を建てるには基礎が大切。それは家を建てる時の常識であり、当たり前の話です。しかし勿論、イエス様は家の建て方の話をしているわけではありません。
 ここで、家を建てるということで語られているのは、私共の人生です。私共の人生は何を土台にして営まれているのか、営んでいかなければならないのかということです。イエス様は、岩の上に家を建てた人は「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」であり、砂の上に家を建てた人は「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」だと言われました。岩というのは、詩編18編3節「主はわたしの岩」とありますように、旧約以来、神様を示す言葉です。ここでは、神様・イエス様を指していると考えて良いでしょう。一方、砂というのは、神様と対照的な、人間、この世の常識、目に見えるものを指しているのでしょう。神様・イエス様を土台として人生を歩むのか、自分やこの世の常識や目に見えるものを土台として生きるのかということです。神様・イエス様を土台とするならばどんな風雨にさらされても倒れないけれど、自分や目に見える者を土台として生きるならば激しい風雨にさらされれば粉々に倒れてしまうというのです。
 では、ここで言われる大雨や洪水や風というのは何か。ここでは、二通りの理解が可能だと思います。一つは、この世の人生での困難・苦難。もう一つは、こちらの方がより本質的で大切なことですが、終末における神様の裁きを示しています。そして、「わたしのこれらの言葉」とは、山上の説教でイエス様がお語りになったすべての言葉を指しています。つまり、山上の説教で告げられたイエス様の言葉を聞くだけで行わないのならば、イエス様を信頼せずに神様を信頼せずに生きるということで、それでは救われない。しかし、イエス様の言葉を聞いて行うならば、イエス様を信頼して生きるということであり、そうすれば救われる。イエス様はそうお語りになったということです。
 山上の説教を終わるにあたって、山上の説教を締めくくるにあたって、「今まで語ってきたことをあなたがたはどう受け止めるのか。」イエス]様はそう告げておられる。聞いただけで終わりか?それとも、聞いて行う、聞いて従うのか?そのようにイエス様はここで決断を促しているのです。

3.聞いて行う
 ここで私共は、山上の説教を読み進める中で何度も確認してきたことを、もう一度確認しておく必要があります。イエス様は、「善いことをしましょう。悪いことはやめましょう。善いことをして善人になって救われましょう。」そんなことは少しも言われていません。そうではなくて、「あなたがたは神様の祝福の中で、神様の子として、新しい命に生きることが出来る。あなたがたがその命に生きるようにするためにわたしは来た。わたしはあなたが新しくなれるよう、一切の罪が赦されるよう、あなたの代わりに十字架につく。だから、安心してわたしと共に生きよう。もう自分の努力で必要のすべてを手に入れ、天国の門さえ自分で開けようとする営みをやめなさい。あなたは既に神様に愛されている。その愛の証しとしてわたしは来た。」そう告げられてきたのです。
 ですから、このイエス様の言葉を聞いて行う者とは、実に、イエス様を我が主、我が神として信頼し、イエス様と共に生きる人ということなのです。逆に、イエス様の言葉を聞いて行わない者とは、イエス様の言葉を信頼せず、自分の力、自分の考え、自分の常識だけで、今までと同じように生きる人のことです。
 イエス様はここで、「聞いて行う者」と言われました。イエス様の言葉を聞くことと行うこと、これは分けることが出来ません。イエス様の言葉は「聞いて行う」のであって、「聞いて、行う」と分けることは出来ないのです。イエス様の言葉を権威ある神の言葉として聞いたなら従うしかありません。イエス様の言葉が新しい命、永遠の命へと至る生き方への招きであるとするならば、それを聞くことは、召命を受けると言い換えても同じです。召命を受けた者は、それに応えて生きるしかない。それを献身と言います。召命と献身はひとつながりです。召命を受けたのに献身しない。そんなことはあり得ません。召命とはまさに、権威あるお方が有無を言わさぬ力をもって私共に迫って来ることだからです。召命を受けた者は献身するしかない。逆も同じです。召命を受けないのに献身することは出来ません。
 献身という言葉を狭い意味で考えれば、伝道者や牧師を献身者と言います。伝道者・牧師は神様からの召命を受けたから、献身したのです。伝道者・牧師を支えるものは、ただ神様から召命を受けてたという事実しかありません。教師検定試験に合格したとか、神学校を卒業したなどということは、何の支えにもなりません。神様が召してくださったから、召された者として献身する。それだけのことです。この召命と献身ということは、伝道者・牧師にだけ当てはまるものではありません。私共福音主義教会は万人祭司の理解に立っています。ということは、すべてのキリスト者は召命を受けたということです。キリスト者となるように神様から召命を受け、それに応えて献身し、キリスト者となったということです。皆さんもこの権威ある方の権威ある言葉を聞いたのでしょう。

4.岩の上に建てる人生
 こう言っても良いでしょう。神様のいない人生から神様と共に生きる人生への転換。これこそ、砂の上に建てた人生から岩の上に建てた人生へと変わることです。それを促し、神様と共に生きる新しい人生へと私共を招くために、イエス様は山上の説教をお語りになった。ですから、その一歩を踏み出すことこそ、どんな人生の荒波の中でも、終末の神様の裁きの場に立っても、決して倒れることのない人生となるということなのです。
 私共が安心安全だと思う人生とはどんなものでしょうか。安定した収入、健康な体、仲の良い家族、良好な人間関係。確かにこれらはどれも大切なものです。どうでもいいと言えるようなものではありません。しかし、私共は残念ながら、年老いていきますと年々その一つ一つを失っていきます。年老いた人はそのことを実感していることでしょう。この歳をとるということも、イエス様のたとえ話で言うのならば、激しい風雨にさらされるという事態の一つとも言えるでしょう。目に見えるものがすべてだと思っている人は、自分の人生が結局の所、無に帰してしまうのかという空しさに飲み込まれていくしかありません。それが砂の上に建てた家ということです。しかし、イエス様と共に神様の祝福の中を歩む者は、そうではない。老いやその先にある死によっても失われない、確かなものがあることを知っているからです。それは神の国であり、永遠の命です。これこそ、どんな人生の風雨によっても決して失われることのないものなのです。

5.神の国に生き始める
 さて、このイエス様と共にある新しい命は、目に見える何かを手に入れようとする歩みに価値を見出すのではなく、神様との永遠の愛の交わり、神の国にこそ最も大いなる価値を認めます。私共は、イエス様の招きに応えて、「人を裁かない」「敵をも愛する」という神の国の秩序の中に生き始めるのです。イエス様の告げられたことは神の国の秩序ですから、この地上の生活においては「それは理想だ。無理だ。」と言ってしまえばそうなのかもしれません。しかし私共は、これを「理想だ。無理だ。」と言って無視することは出来ません。何故なら、イエス様がそのようにしなさいと、権威ある言葉をもって告げられたからです。
 この権威あるお方は愛のお方でもあります。圧倒的権威をもって私共に迫られるお方は、圧倒的愛をもって私共に迫られるお方なのです。私共は圧倒的愛を示されて、愛をもって応える者となりました。イエス様は御自身の十字架をもって、私共への命がけの愛を示してくださいました。イエス様の言葉は、イエス様というお方と切り離して聞くことは出来ません。イエス様の言葉は、イエス様の御人格、愛、その御業と一つになって私共に迫るのです。
 この私共とイエス様、私共と神様との愛の交わりこそ、永遠の命、まことの救いへと私共を導く、ただ一つの道なのです。ですから私共は、自らの非力、自らの罪をも知らされながら、このイエス様の言葉に従おう、神の国の秩序の中に生きようと一歩を踏み出すのです。それは、「ダメだった。」という嘆きをもたらすかもしれません。しかし、相手が悪かったのだと人を責めることで安心する道を取ることはもう出来ません。何故なら、私共は「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」との祈りを教えられ、この祈りと共に生きているからです。ですから、この主の祈りと共に、この祈りの中で、何度でも何度でも、赦しへの道を歩み出すのです。崩れかけた愛の交わりを再び形作るために、新しく歩み出すのです。何度でも何度でもです。
 イエス様がこのように生きよと告げられたのは神の国の秩序ですから、この世の常識をはるかに超えています。ですから、理想主義とも言われるのでしょう。しかし、イエス様の言葉を権威ある神の言葉として聞けない人にとっては理想主義の絵空事であったとしても、私共にはそうではないのです。何故なら、イエス様は御自ら十字架にお架かりになって、私共をその道へと招いてくださったからです。私共がその道を歩み続けることが出来るように、聖霊を注ぎ、信仰を与え、神様との交わりの中に私共を生かし続けてくださっているからです。私共もイエス様を愛しているからです。

 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐によって、私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る、このまことにありがたい恵みの中に生かされているのは何故か、そのことを知らされるのです。私共の、神の子としての歩みは、どんなに欠けに満ちていようと、このイエス様の十字架によって与えられたものです。ですから私共は、投げ出さず、絶望せず、神の国を目指して、今日為すべき務めに励むのです。それが、イエス様によって与えられた、岩の上に建てた賢い者の歩みなのです。

[2017年7月2日]

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