富山鹿島町教会

礼拝説教

「狭い門から入れ」
創世記 28章10〜22節
マタイによる福音書 7章13〜14節

小堀 康彦牧師

1.イエス様の招きの言葉
 今朝イエス様は私共に、「狭い門から入りなさい。」と告げられます。このイエス様の言葉は招きの言葉です。私共が狭い門から入るように、そしてその先の細い道を歩むようにと招いておられる。イエス様の「○○しなさい」という命令の言葉は、招きの言葉なのです。「思い悩むな。」もそうでしたし、「人を裁くな。」もそうでしたし、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」もそうでした。イエス様は私共にこうしなさいと命じることによって、そのように歩んで神様と共に生きる、神様の祝福に与る、永遠の命に至る歩みへと私共を招いてくださっています。今朝私共に告げられている「狭い門から入りなさい。」も同じです。狭い門から入ることによって、私共がまことの命に生きる、まことの救いに与る、そのような人生を歩むことが出来るようにと招いてくださっているのです。
 それは、イエス様が13節で「狭い門から入りなさい。」と告げた後、日本語の翻訳には訳出されていないのですが、「というのは」あるいは「なぜならば」という意味の言葉がギリシャ語本文にはあることからも明らかです。その言葉を訳出すれば、「狭い門から入りなさい。というのは(なぜならば)、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」となります。つまりイエス様は、私共が滅びることがないように、広い門からではなく狭い門から入りなさいと告げられたということなのです。イエス様は、私共が滅びることがないように、命に至るように、まことの救いに与ることが出来るように、狭い門から入れと命じられた。ですから、このイエス様の言葉は明らかに、私共を救いへと、命へと招くために告げられた言葉なのです。私共はこのイエス様の招きに対して、二つの態度のどちらかを選び取るしかありません。この招きを拒否するか、この招きを受け入れるか、どちらかです。中間はありません。もちろん私共は、喜んでこのイエス様の招きを受け入れ、狭い門から入る者でありたいと思います。

2.イエス様が「狭い門」であり「細い道」である
では、この「狭い門」とは何を指しているのでしょうか。結論を言えば、イエス様御自身を指しています。狭い門に続く細い道も同じです。ヨハネによる福音書10章9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」とありますし、同じくヨハネによる福音書14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と記されています。イエス様御自身が、私共が救いへと至る唯一の門であり、道なのです。
 ここでイエス様が語られているイメージは、救いに至る道へと続く狭い門をまず入る、そしてその門から続く細い道を歩んでいく、そして神様の救いに与る、まことの命、永遠の命に与るというものです。門をくぐっただけで終わらない。門の後に道が続いているわけです。イエス様御自身である狭い門から入るということは、イエス様を信じるということでしょう。そして、その後に続く細い道とは、イエス様を信じて私共が御国に向かって歩んでいく信仰の歩みを指しているのでしょう。信仰は、イエス様を信じた、そこで終わりではないのです。イエス様を信じる者としての歩みがその後に続く。当たり前のことです。

3.狭き門?
 では、どうしてイエス様はまことの命に至る門を狭い門、まことの命に至る道を細い道と言われたのでしょうか。
 ここで「狭い門」という日本語が持つ誤ったイメージを確認しておく必要があります。日本語で「狭き門」と言えば、入るのが難しい大学の入学試験とか、倍率が何十倍にもなる難しい国家試験とかをイメージするでしょう。大学入試の予備校の宣伝文句にこの「狭き門より入れ」という言葉が使われたりして、「狭き門」と言えばそのようなイメージが定着しているかと思います。しかし、入るのが難しい大学の門は、少しも狭くはない、大きくて立派な門です。ただあまりにたくさんの人がそこに集まるので入れない、入りにくいということでしょう。少しも狭い門ではないのです。
 イエス様がここで「狭い門から入りなさい。」と言われた狭い門とは、そうではありません。見いだす者が少ない門です。つまり、誰にも知られない、見向きもされない、誰も入りたいと思わない門です。どうして、誰も見いださず、誰も入ろうとしないのでしょうか。それは、その門がみすぼらしいからでしょう。その門の向こうに、栄光に輝くもの、自分が求めているようなものがあるとは思えないからです。

3.広い門・広々とした道との対比
 ここでイエス様が御自身を命に至る狭い門・狭い道と言われ、滅びに至る広い門・広々とした道と対比されているのですが、それでは広い門、広々とした道とは何なのか。それは二つあると思います。一つは、ファリサイ派の人々を指し、もう一つは、この世での栄華を求める人々を指していると思います。
(1)
 まず、ファリサイ派の人々ですが、これは文字通り律法を守ることによって、神様に正しいと認められ、救いに至ろうとする道です。これを律法主義と呼んだりしますが、要するに自分の力、自分の正しさによって救いに至ろうとする道です。これは当時のユダヤ教の主流であり、救われることについての常識でしたから、みんなこの門を通り、この道を歩んでいるわけです。誰も疑わない。救いに至るには、この門・この道しかないと考えている。ですから、ファリサイ派の人々が教える門は広い門であり、その道は広々とした道でした。誰もがこの門を通り、この道を歩んで救いに至ろうとしていたわけです。しかしイエス様は、それは滅びに至る門、滅びに至る道だと言われたのです。何故なら、人は必ず罪を犯すからです。神様の御前に正しい者であることなど不可能だからです。人と比べて自分の方がましだ、いい人だ、そんな風に思うことは出来るでしょう。しかし、神様の御前に出て、自分は正しいと言える人など一人もいません。ですから、自分の善き行いを積み上げて救いに至ることは出来ない。滅びに至るしかないのです。
 しかし、これは何も当時のユダヤ教、ファリサイ派の人々だけの話ではありません。「正しい人は救われる。罪人は裁かれ滅ぼされる。だから正しい人になりましょう。」これがほとんどの宗教が教えていることであり、常識で考えれば、それが当たり前ということになるでしょう。しかし、それは福音ではありません。イエス様はそれは違うと言われます。イエス様が私共のために救いに至る門になってくださったということは、イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださったからです。このイエス様の十字架の故に、天の門は罪人である私共のために開かれ、信仰によって救われる道が拓かれたのです。善き業を積み上げることによってではなく、ただ信仰によって救われる。しかし、こんなうまい話があるのか。そんなうまい話は誰も信じない、誰も相手にしない。だから狭い門なのです。
 ある人はこう言いました。「この狭い門は十字架の形をしている。」つまり、この門を通るためには、自らの罪を認めて、自らが十字架に架けられる者であることを認めなければならない。しかし、人はなかなかそれを認めようとしない。自分は善い人だ。私は間違っていない。私は正しい。そんな思いを幾重にも重ね、鎧のように身を固めている。小さな弱い裸の自分になれない、ただの罪人である自分になれないから、この十字架の門を通ることが出来ない。この鎧を外すくらいなら、そのままで通れる広い門の方へと、人は入っていく。しかし、その広い門は、救いに至ることのない門なのです。そうだと思います。イエス様という狭い門を通るには、どうしても悔い改めということが必要だからです。悔い改め無しに、この狭い門を通ることは出来ません。
(2)
 第二に、この狭い門に対比されている広い門、広々とした道、それはこの世の栄華を求める人々が通る門であり、歩む道です。先程、日本語での「狭き門」はイエス様が言われた狭い門とは全く違うと申しましたが、実に日本語で一般に理解されている「狭き門」こそ、イエス様がここで言われている広い門なのです。どの国でも、いつの時代でも、この広い門に人々は殺到します。この門に殺到する人は、そもそも神様の救いとか、永遠の命とかを求めてはいないのかもしれません。いや、求めていたとしても、この世の栄華や富、快適で苦労しない生活などを犠牲にしてまで手に入れたいとは思いのでしょう。しかしイエス様は、それは結局の所、滅びに至るしかないと言われる。この人たちの人生の主人は自分です。自分の楽しみ、自分の快楽、それが何より大切なのです。
 「ありのままの自分で良い」「そのままの自分で良い」という教えは、耳障りは良いのですがイエス様が告げられたこととは違います。ありのままで良いのならば、そのままの自分で良いのならば、悔い改めは要りません。悔い改めた私は、人生の主人を自分から神様に、イエス様に、その場を明け渡します。イエス様を主人とする細い道を歩んでいくのです。イエス様を信じ、イエス様の示された道を歩むということは、自分の楽しみ、自分の幸せを失うことだってある。しかし、永遠の命は必ず与えられます。このイエス様の約束を信じて歩み続ける。これは細い道です。厳しい道です。だから多くの人は、この道を歩もうとは思わない。そうイエス様は言われるのです。
 あなたがたは何を求めるのか。まことの命か、この世の栄華か。神と富とに仕えることは出来ない。わたしに従って来なさい。そこにすべてがある。喜びも、平安も、命も、祝福も。わたしはあなたにそれを与えたいのだ。滅んでほしくないのだ。そのためにわたしは十字架についた。だからわたしを信じ、わたしに従いなさい。そうイエス様は招いておられるのです。

4.イエス様が共に
 さてこのように申しますと、そんなに大変なら、やっぱり狭い門ではなくて広い門の方が良い。細い道ではなくて広々とした道の方が良い。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、誤解しないでいただきたい。この狭い門も、そこから続く細い道も、自分の力で門を開き、ひたすら忍耐努力して険しい道を歩み続けなければ救いに至らない、永遠の命に至らない、そういうことではないのです。イエス様御自身が門であり、道なのです。ということは、私共がこの門を通る時も、この細い道を歩む時も、私共は一人で歯を食いしばって歩むのではないのです。イエス様御自身が共にいてくださるのです。これがとっても大切なことです。狭い門から入れ、細い道を歩み続けよ。そう言われただけで、イエス様は何もしない。私共の歩みを放って置かれる。そんなことはあり得ません。狭い門から入れ、細い道を歩めとは、わたしを信じ、わたしに従えということです。イエス様を信じる、イエス様に従うということは、共におられるイエス様との交わりの中に生きるということでしょう。イエス様が私共を招かれたということは、その招きに応えた者に対してイエス様が責任をとってくださる、イエス様がすべて面倒を見てくださるということなのです。招くだけ招いておいて、その招きに応えても知らん顔。イエス様はそんなお方ではありません。そんな方なら、どうして私共のために十字架にお架かりになどなられましょう。

5.神の国への一本道
 イエス様は御自身が門であり、道であると言われました。道であるということは、私共の一足一足の歩みの下に、イエス様がおられるということです。私共の一足一足の歩みをその足の下から支えてくださっているということです。そして、私共には分からないけれど、私共の行き先も私共の明日もイエス様は御存知であるということです。私共のためにイエス様御自身が道を備え、道を拓いていってくださるということです。私共は人生の道を自分の力で切り開いていくのではありません。道は向こうから開かれてくるのです。イエス様が道だからです。ですから、この細い道は確実に私共をまことの命へと、救いの完成へと、神の国へと導いてくれるのです。私共が色々な道から一つの道を選んで行くのではないからです。狭い門から入れば、その後は神の国への一本道なのです。迷うことはありません。地図もナビゲーターも要らないのです。狭い門から入ったら、その先の道が何本にも枝分かれしていて、一つを選ぶとその先も何本にも枝分かれしている。そして、その度に正しい道を選び取らなければ、まことの救いに至ることは出来ない。そんなことはありません。この道は一本道なのです。多少、曲がりくねっていることはあったとしても、一本道です。大切なことは、その道から外れないということです。勝手に道から外れて、森の中に迷い出ていかないということです。
 神の国への一本道には道しるべがあります。一本道なのですから道しるべは必要ないように思いますけれど、道しるべがあります。「この道は神の国へと続いています」という道しるべです。どうして道しるべがあるかといいますと、私共が不安になるからです。この道で良いのかなと不安になる。この道を通っている人も少ないし、ちょっと道を外れて、この横の森を抜けたら、広い道に出るのではないか、そんな風に思うことがあるからです。私共は、今朝もこの主の日の礼拝へと集まって来ました。それは、私共は主の日のたびにここに集うことによって、共に御言葉を受け、この道しるべを確認するためです。主の日の度毎に、私共はこの道しるべを確認するのです。

5.インマヌエルの約束と共に
 先程、創世記28章10節以下をお読みいたしました。ヤコブが、兄エサウをだまして父イサクの祝福を奪ってしまい、エサウから逃げるようにして母の故郷であるハランに向けて旅立った時のことが記されていました。ベエル・シェバからハランまで、直線距離でも500km以上あります。ヤコブは一人でこの旅をしなければなりませんでした。心細かったことでしょう。故郷を離れ、知っている人もいない土地へ行くのです。希望に満ちた旅ではありません。夜には獣も出たことでしょう。それは細い道でした。多くの人が行き交う広い道ではありませんでした。しかし、その旅において、ヤコブは神様と出会うのです。そして、神様はアブラハムとイサクに与えた祝福をヤコブにも与えました。13〜14節「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。』」アブラハムに与えられ、イサクに与えられた祝福の約束をヤコブもここで確かに与えられたのです。そして更に、15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」インマヌエルの約束です。この神様の祝福、神様の約束。それが真実であることを、ヤコブはこの後の生涯において確認していくことになります。ヤコブの歩んだ道は、楽な道ではありませんでした。しかし、確かに神様はヤコブがどこに行くにも共にいてくださり、道を守り、祝福し続けてくださいました。
 ヤコブはこの時、17節「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」と言いました。天の門。それは神様の御臨在に触れたヤコブの言葉です。この天の門において、ヤコブは神様の御臨在に触れ、神様の祝福、神様の約束を受けました。イエス様が門であられるということは、イエス様によって私共は神様の御臨在に触れ、そしてヤコブが与えられたインマヌエルの約束にも与るということです。この約束は、イエス様という門を通り、イエス様という道を歩むすべての者に与えられます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、…わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」この約束と共に、この一週も御国に向かっての旅をしっかり為してまいりたい。そう心から願うのです。

[2017年5月21日]

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