富山鹿島町教会

礼拝説教

「人を裁くな」
創世記 18章16〜33節
マタイによる福音書 7章1〜6節

小堀 康彦牧師

1.全く裁かない?
 イエス様は今朝私共に、「人を裁くな。」と告げられます。「人を裁くな。」大変厳しい言葉です。この言葉を聞いてたじろがぬ人はいないでしょう。私共はいつも人を裁いているからです。「私は人を裁いていません。」そう言える人などどこにもいないでしょう。しかし、そうであるが故に、「人を裁くなと言われても…」という反論が、私共の心の中にすぐに出て来るだろうと思います。例えば、悪いことをした人を放って置いていいのか。この世界から裁くことをすべて無くしてしまったら、警察も裁判所も無くしてしまったら、どうなってしまうのか。仕事にしても、それを全く評価しないなんてことはあり得ないではないか。その通りなのです。この「裁くな」という言葉は、ただ断罪するという意味の言葉ではないからです。この言葉は評価をしたり、判断したり、批判する、そのすべてを含んでいる言葉です。ですから、そのすべてを私共が全くしないとしたら、社会は成り立ちません。親が子を育てることだって出来なくなります。しかし、イエス様はここでそんなことを言っておられるのではないでしょう。ですから、反論する前に、まずイエス様がここで言おうとされていることをきちんと聞きたいと思います。

2.裁き合っている私共の現実
 イエス様はこう続けます。3〜4節「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」口語訳では「丸太」は、天井に使う太く大きな丸太である「梁」と訳され、「おが屑」は「塵」と訳されていました。イエス様はここで、丸太とおが屑という極端な対比をして、私共が人を批判すること、判断することがそもそも出来るのかと言われています。勿論、梁や丸太というのは誇張です。梁にしても丸太にしても、実際に目に入れることなど出来るはずもありません。これは、自分のことを棚に上げて人を批判している私共の姿を言われているのでしょう。他人の小さな間違いや欠けに対しては厳しいけれど、自分の欠けや間違いには鈍い私共の姿を描いて見せているわけです。昔、「笑って誤魔化せ自分の失敗、しつこく罵れ他人の失敗。」という言葉が流行ったことがありました。これも私共の姿をよく言い表しています。
 私共は自分のことが本当に見えていない。自分のことが見えないから、自分は正しいと思って、自分と少し考え方が違う人、やり方が違う人に対して、「あれじゃダメだ。」なんて言ってしまうのでしょう。しかし、その私共の目にはおが屑どころか丸太が入っているのだとイエス様は言われるのです。ここで少し考えてみますと、私共は自分のことも見えていませんけれど、他人のことも本当の所は分かっていない、見えていないのだと思います。その人の表面だけを見て、ああだこうだ言っているのです。その人がどうしてそう言うのか、どうしてそうするのかを考えもせずに、私共は勝手に色々想像し、判断している。しかし、本当の所は少しも分かっていない。そういうものなのではないでしょうか。それなのに、分かったつもりで判断したり評価したりしているのです。人を裁いているのです。これはお互い様です。私共は互いに裁き合っている。私は裁いていないのに、周りからいつも裁かれている。そんなことはありません。お互い様です。

3.罪の表れとしての裁き
 これは私共の日常の、否定出来ない現実でしょう。では、どうしてそうなってしまうのか。イエス様はここで、人を裁かないでは生きていけない私共の現実を見据えながら、その奥にある、私共のどうしようもない罪を見ておられるのだと思います。どうして裁き合ってしまうのか。それは私共が罪人だからです。
 ここで思い出すのは、創世記の第3章です。アダムとエバが、食べてはいけないと神様に言われたエデンの園の中央にある木の実を食べてしまったと記されている所です。ここから人間の罪が始まったと言われる所です。いわゆる原罪ですね。この時、アダムとエバが食べてしまった木の実、それは「善悪の知識の木」の実でした。口語訳では「善悪を知る木」となっていました。神様が食べるなと命じられた木の実を食べてしまった。だからアダムとエバは、神様との関係において、まっすぐ神様を見ることが出来なくなってしまった。これは分かるのです。しかし、この時食べた木の実は「善悪の知識の木」の実ではないか。それを食べて善悪を知るようになることが、どうして罪の始まりなのか。私は随分長い間分かりませんでした。善悪を知ることは良いことではないか。私共は子供の時から「善悪をわきまえろ。」と言われて育つのです。だから、どうして善悪を知ることが罪の始まりなのか、さっぱり分かりませんでした。
 しかし、牧師になってからですけれど、人間が最初に罪を犯してしまって「善悪を知る者となった」ということが分かりました。それは、善悪を決めるのはただ神様だけだということが分かったからです。人間が善悪を決めるということは、自分が神様のようになってしまうことです。もし、神様を抜きにして私共が善悪を決めれば、詰まるところ、私に得になることが善であり、私が損することは悪、そういうことになってしまうでしょう。それが人間の罪の始まりだ。それが人間の罪の根っこにはある。そういうことだと気づかされたわけです。
 つまり、イエス様はここで、何気なく日常的に人を裁いている私共の姿に、私共の罪の始まり、罪の根っことでも言うべきものを見ていたのです。イエス様は、「人を裁くな。」という誰でもハッとさせられる言葉で、私共の根っこにある罪を指摘されたのです。あなたは自分を神様にしてはいないか。自分のことも、相手のことも、何も知らないくせに、すべてを知っているかのように、自分は絶対正しいのだと思い違いをしてはいないか。それは、自らが神様になるという罪を犯している。そうイエス様は指摘されたのでしょう。
 しかしこう申しますと、理屈っぽい人は、「イエス様はここで、『人を裁くな』と告げることによって、人を裁いているではないか。」と言うかもしれません。このことについては後でお話しします。

4.裁くのは誰か?
 さて、イエス様は「人を裁くな。」と言われてすぐに、「あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(1節b〜2節)と言われました。ここで裁くのは誰かと言いますと、神様なのです。ここで裁くのが人間だというように理解しますと、この言葉は、「人に優しくすれば人からも優しくしてもらえる。人を厳しく裁かなければ、人も厳しく裁かない。だから、人間関係がうまくいく。」そういう処世術をイエス様は言われたということになります。そのような意味が全くないとは言いません。しかし、そのような読み方ですと、ここでイエス様が本当に告げようとされたこと、つまり「福音」を聞き取ることは出来ません。福音を聞き取れない聖書の読み方というのは、間違いとまでは言わなくても、全く深みがありません。聖書が神様の言葉である以上、私共は真理を告げている言葉として聖書の言葉、イエス様の言葉を聞くのです。
 イエス様は、ここで「裁くな」という厳しい言葉をもって、この言葉を聞く私共を神様の御前に引き出しているのです。あなたは神様に裁かれる、そういう存在ではないか。そのことを忘れてはいないか。神様のことなど全く忘れて、自分だけが正しいと思い、まるで自分が神様のようになってはいないか。そうイエス様は告げておられるのです。私共を裁くのは神様です
 しかし、この「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」というのは、神様はあなたが人をどう裁くかを見ておられて、それに従ってあなたを裁く、ということではありません。そうではなくて、あなたが人を裁くように神様があなたを裁いたならば、あなたはどうなってしまうのか。滅びるしかないではないか。そのことを心に刻んでおきなさい。そうイエス様は告げられたのです。
 では、どうやって「人を裁く」という罪の現実から、神様の裁きから逃れることが出来るのでしょうか。この丸太というのは私共の罪です。どうしたら自分の目にある丸太を取り除くことが出来るのでしょう。罪から解き放たれることが出来るのでしょう。それは、私共には出来ないのです。自分で自分の目の丸太を取り除く。自分が神の如く正しいと思う思い違いから抜け出す。これは残念ながら、私共には出来ません。何故なら、この目の中の丸太に私共は気づかないからです。自分が何も分かっていないということが分からないからです。偏見や一方的な見方に凝り固まっている私共です。では、どうするのか。イエス様に取り除いていただくしかありません。そのためにイエス様は来られたのです。どうやって取り除くのか。どうやって神様の裁きから私共を救い出してくださるのか。それが十字架です。「あなたが裁かれないように、わたしがあなたがたに代わって十字架で裁きを受ける。だから、あなたがたは裁かれない。その赦しを受けよ。その赦しの中に生きよ。」イエス様はそう招いておられるのです。

5.赦しはあるか?愛はあるか?
 5節「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」は、このイエス様の赦しに与った者はどう生きるかということを示しています。偽善者という言葉は、元々は「何かを演じる者」という言葉です。何を演じているのか。神様を演じているということです。自分の目に丸太があっても気づかなかった時、人の目のおが屑を取りましょうと言っても、それは自分は正しい、自分は真理を知っているがあなたは分かっていない、そのように上から人を見下すようにして人の目からおが屑を取ろうとしますから、そこではどうしても裁くというあり方になる。確かに、目から丸太を取り除いていただいた者も、やはり兄弟の目からおが屑を取り除くのですけれども、それは自分の目に丸太が入っていた時とは全く違うあり方になるはずなのです。自分が裁かれる者であり、その裁きをイエス様によって担っていただいたということを知った者は、赦すということ抜きに、その人を愛すること抜きに、人の目からおが屑を取ろうとはしないということなのです。
 先程、「イエス様は『人を裁くな。』と言うことによって人を裁いているではないか。」という疑問には後でお話しします、と言ったのはこのことです。イエス様は確かに、「人を裁くな。」と言われることによって、誰よりも厳しく私共の罪を指摘しておられます。しかし、それは誰よりも私共を愛してくださっているからです。十字架にお架かりになってまで私共を赦し、私共を神様との交わりの中に生きるようにしてくださる方からです。だから、イエス様のこの「人を裁くな。」という言葉は私共の心に響くのです。イエス様以外の人に「人を裁くな」と言われても、私共は「あなたには言われたくない。あなただって裁いているではないか。」としか受け取らないでしょう。イエス様のこの言葉は、単なる処世術の話ではなくて、私共の根本的なあり方を造り変えようとする厳しい、しかし限りなく深い愛の言葉なのです。赦しの言葉、招きの言葉なのです。だから、私共の心に響くのです。
 裁きはあります。裁きは必要です。しかし、そこに愛があるか、そこに赦しはあるかということです。親が子を育てる時、「こんなことをしてはダメじゃないか。」と言う。当たり前のことです。それは、我が子を正しく導こうする愛があり、過ちを犯してもなお赦し、我が子として受け入れている親の言葉なのです。イエス様は、裁きそのものをいけないと言われているのではないのです。そうではなくて、その裁きの言葉に、人に対する評価の底に、愛はあるか、赦しはあるか、そう問われているのです。

6.赦しを伴う裁き
 先程、創世記18章16〜33節をお読みしました。神様は罪に満ちたソドムの町を滅ぼそうとされる。まさに裁こうとされている。それに対してアブラハムは、ソドムの町に正しい者が五十人いれば、その五十人のために町を赦してくださるようにと、神様に掛け合うのです。そして、神様はそのアブラハムの申し出を受け入れます。そして、アブラハムはその人数を五十人から四十五人、四十五人から四十人、四十人から三十人、三十人から二十人、二十人から十人と減らしつつ掛け合っていきます。とうとう神様は、十人の正しい人がいればソドムを滅ぼさないと約束されました。しかし、残念なことにソドムの町にはその十人の正しい人もいなかったために滅ぼされてしまいました。
 神様の裁きはあるのです。しかし、神様の裁きは赦しと結び付いています。もし、この時アブラハムが、一人の正しい人がいたらとまで掛け合っていたら、話は違ったかもしれません。私は、この時アブラハムが一人にまで減らしても、神様はソドムを滅ぼさないと言われたに違いないと思っています。何故なら、この世界が今もまだ滅んでいない理由は、ただ一人の正しい方、イエス・キリストがおられたからなのです。毎日のようにテロの報道がなされ、犯罪があり、神様のことなど考えもしないで自分の欲に引きずられ、お金が一番大切であるかのように勘違いしている世界。ソドムより今の世界の方が正しいと誰が言えましょう。しかし、この世界はまだ滅んでいません。それは、イエス様がおられるからです。
 私共はイエス様によって滅びを免れ、神様の裁きを免れ、赦された。だから私共も赦しに生きるのです。「あの人はダメだ。」そんなことをつい心に思い、口に出してしまうような私共です。確かに、その人のやったことはダメかもしれません。しかし、その人自身がダメではないのです。その人はやり直せるし、新しくなれるのです。その人もまた、神様に愛されている者なのですから。その人のためにもイエス様は十字架にお架かりになったのですから。私共はそのことを信じて、愛を失ってはならないし、赦していかなければならないのです。そのような世界にしていかなければならないのです。

7.たとえ噛みつかれても
 そのためには、その相手の目の丸太も取り除かれなければならないのでしょう。みんな目に丸太が入っていて、自分のことも人のことも、お互い分かっていない者同士なのですから。みんなの目から丸太が取り除かれなければなりません。
 ここで、次の課題が生まれてきます。自分の目に丸太があることは分かった。イエス様の赦しに与る者とされている幸いも分かった。自分も赦す者として生きたいと思う。そして、相手もまたそのような者として生きる者となって欲しいと思う。そこで私共は伝道へと押し出されていくわけです。しかし、イエス様は6節「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」と告げるのです。
 これは「豚に真珠」という言葉の元になった言葉です。ここで、聖なるものを犬に、真珠を豚に投げてはならないと言われていますが、この「聖なるもの」「真珠」というのは、イエス様の福音と言って良いでしょう。犬とか豚というのは、当時のユダヤでは嫌われていた動物、汚れた動物でした。異邦人を指していると読む人もおります。しかし、そのように限定する必要はないと思います。要するに、イエス様の福音を伝えても、それが本人の求めているものと違っていれば、その人には見向きもされず、逆に噛みつかれることさえあるということです。それは、イエス様自身、十字架に架けられるというあり方で噛みつかれてしまったわけです。
 人の目のおが屑を取り除くのは、まして丸太を取り除くのは、大変難しいのです。そのこともちゃんとわきまえておきなさいということなのでしょう。それは、私共が相手の目のおが屑を取り除こう、丸太を抜こうとする時、いつの間にか上から目線になってしまうからでしょう。愛をもって、赦す者としておが屑を取ろうとしているつもりでも、いつの間にか偉そうになってしまう。そして、「そんなこと、あんたに言われたくない。」という反応にあうことにもなる。しかし、たとえそうであっても、私共は赦された者として赦しに生きる。愛された者として愛に生きる。この聖なるもの、真珠のように尊いものを失ってはいけない。それが、「人を裁くな。」と言われたイエス様が、私共に望んでおられることです。このイエス様の思いを正面から受け止めて、愛する者、赦す者として、この一週もまた、御国に向かって歩んでまいりたいと思うのです。

[2017年5月14日]

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