富山鹿島町教会

礼拝説教

「まず、神の国と神の義を求める」
詩編 124編1〜8節
マタイによる福音書 6章25〜34節

小堀 康彦牧師

1.招きとしてのイエス様の御命令
 今朝与えられております御言葉において、イエス様は二つのことを命じておられます。一つは「思い悩むな。」ということ、もう一つは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」ということです。この二つの命令は、確かに文法的には命令形なのですけれど、内容を考えれば二つとも招きの言葉です。イエス様は今朝、このように私共を招いてくださっています。「あなたがたはもう、日々の生活のことで思い悩まなくてよい。父なる神様がすべてを備え、導いてくださっているのだから。」だから、「神の国と神の義を第一のこととする新しい命に生きよう。」そう私共を招いてくださっているのです。私共は、このイエス様の招きに対して、「はい。日々の生活のことで思い悩むのではなく、いつでもあなたの御心を第一として歩んでまいります。」そのようにお答えしたい。そう願うのです。イエス様は、私共がそのように答えることが出来るように招き、説得してくださっています。まず、そのイエス様の招き、イエス様の説得の言葉に聞いてみましょう。

2.困窮のただ中にある人に向かって
 25節「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服より大切ではないか。」食べ物は命を保つためにあります。イエス様の時代、食べるということ自体が大変でした。人が働くのは、とにかくその日一日の食べ物を手に入れるため。そういう時代でした。ここで、「何を食べようか何を飲もうかと思い悩む」と言われているのは、スーパーマーケットやコンビニやファミリーレストランに行って、今日は何を食べようかな、あれも食べたいしこれも食べたい、と決めかねて思い悩むというような、のんきな話ではないのです。そうではなくて、今日食べることにも事欠くという状況の中で、生きるためにどうやって食べ物を手に入れようかと思い悩むのです。ここでイエス様の所に来て、救いを求めてイエス様の話を聞いていたのは、実にそういう人たちでした。その人たちに対してイエス様は、食べること飲むことという日々の生活のことで思い悩むなと言われたのです。「何を着ようかと思い悩む」というのも同じです。たくさんある服を前にして、今日はどれにしようかしらと悩んでいるのではありません。当時、普通の人は上着を一着しか持っていないのです。それでも、もっと良いものを願い求めてしまう。
 「思い悩む」というのは、目の前の困難、問題がすべてになってしまって、心がバラバラになってしまう状態のことです。そのことしか考えられない。その具体的な困難・問題がすべてになってしまい、他のことは何も考えられなくなってしまう状態です。イエス様はその日の食べ物にも困窮するような人々に対して「思い悩むな。」と言われた。しかし、そう言われて、「はい、分かりました。もう思い悩むことはやめます。」そんな風になるでしょうか。「そんなこと言われても…」と心の中で反論し始めるのではないでしょうか。この時イエス様のこの言葉を聞いている人たちは、日々の生活の苦労で疲れ果てている人たちなのです。そのような人たちに向かってイエス様は、「思い悩むな。」と言われた。この言葉を聞いて「何言ってんだ。」と反論を始めようとする心の動きをイエス様は知っています。知った上で、イエス様はこう話を続けられるのです。イエス様は説得し始められたと言っても良いでしょう。それが、26〜31節の言葉です。

3.空の鳥・野の花を見よ、視線を変えて
 イエス様はいきなり「空の鳥をよく見なさい。」と言われます。この時イエス様は家の中で話をされていたのではありません。山上の説教ですから、山の上で御自分の周りに集まって来た人々に対して語られた。この日の天気はきっと晴れていたと思います。少なくとも雨ではありません。イエス様に「空の鳥をよく見なさい。」と言われて、人々は空を見上げます。この時イエス様は、空を指さされたかもしれません。人々がイエス様が指さす方を見ると、鳥が飛んでいる。イエス様は人々の視線を変えられたのです。いつもその日の生活のことしか頭にない人たちの視線を変えた。そして、視線を変えてその鳥を見ながら、イエス様は話された。「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」空を飛んでいる鳥は、確かに種も蒔かない。刈り入れもしない。しかし、自由に空を飛んで生きている。いや、生かされている。天の父なる神様が養ってくださっている。イエス様は視線を空の鳥に向けさせ、そして更に天の父なる神様に向けさせるのです。
 イエス様は、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」と言われた。これを改めて説明する必要はないかもしれません。「あなたがたは、鳥よりも価値がない。」と言われれば、「何?」と思うでしょうが、「あなたがたは、鳥よりも価値あるもの」と言われて疑問を持つ人はいないでしょう。当然だと思う。しかし、これは鳥より人間の方が優秀だから価値があるという話ではありません。ここでイエス様は、神様のことを「天の父」と呼んでいます。神様が父ですから、私共は子ということになります。つまり、あなたがたは天の神様の子ではないかと言っているのです。だから、神様は父として、子であるあなたがたを鳥よりも大切にするはずではないか。神様は鳥を養ってくださるように、いやそれ以上に、子どもであるあなたがたを大切にし、養ってくださる。だから、何も思い悩むことはない。この神様の養いを信じたら良い。生活のことで思い悩まなくても良いのだよ。信じなさい。そう言われたのです。
 次にイエス様は、野の花を見るように促します。多分、そこには花が咲いていたのでしょう。そして、やはり花を指さして語られたのではないでしょうか。この花が何だったのか、様々な想像が為されてきました。書いていないのですから分かるはずはないのですが、イスラエルにおいて一般的な野の花であるアネモネではないかという人もいます。赤・白・紫。鮮やかな色をした花です。あるいは、そうかもしれません。ここでも、イエス様は人々の視線を変えさせています。そして言われます。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」当時の庶民は、上着は一着か二着しか持っていない。それでも、もっと良いものを、もっと高価なものを、もっと美しいものを着たいと願う。この食べ物、着る物というのは、私共が手に入れようと願うすべてのものの代表でしょう。現代の日本で言えば、車であったり、家であったり、ブランド物のバッグであったり、給料であったり、社会的地位であったり、名誉であったり。それを手に入れようとあくせくし、うまくいかないと言っては胃を痛めている。しかし、「あなたがたに本当に必要なものを神様は御存知であり、すべてを備えてくださっている。あなたがたは神様の子ではないか。天の父なる神様があなたに命を与え、家族を与え、仕事を与え、地上の生涯の日々を与えてくださった。何も心配しなくていい。神様がすべてを備えてくださる。いや、既に備えてくださっている。そこに目を向けなさい。」そうイエス様は言われているのです。

4.出来ることを出来るように精一杯>
 しかし、それでもなお、そうは言われても病気になったらどうするのか、介護の問題はどうするのか、色々と言いたくなるかもしれません。確かに介護の問題は、それを受ける方も担う方も、どうすれば良いのか、誰もが不安を抱えているでしょう。私もそれは分かります。今年の三月末に私の母を天に送りましたが、六年間自宅で介護生活をしました。そして、連休に訪ねて来てくれた義弟の家族とも、妻の両親のこれからについて話をしました。どうすれば良いのか、知恵を出して対応していかなければならないと思っています。しかし、だからといって、思い悩みはしないのです。神様が必ず、一番良いように導いてくださることを信じるからです。神様が備えてくださる一番良い道とは、自分が期待する一番楽な道を神様が備えてくださるということではありません。そうではなくて、神様がお考えになって、私共にとって一番良い道を備えてくださるということです。神様は私共に出来ないことをお求めにはなりません。ですから、出来ることを出来るように精一杯やれば良い。それだけのことなのです。どんな状況の中でもそれは同じです。人によって、状況によって出来ることは違うでしょう。去年まで出来ていたことが今年は出来ない。そういうこともあるでしょう。だから、その時その時に、出来ることを出来るように精一杯する。それで良いのです。

5.神の国と神の義を探せ
 そのことをイエス様はこう言われました。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」これも有名な言葉ですが、少し説明が必要でしょう。まず、「求めなさい」と訳されている言葉は、7章7節に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とありますけれど、33節の「求めなさい」は、7節では「探しなさい」と訳されている言葉と同じ言葉なのです。つまり、無いから求める、のではなくて、あるから探す、それがここで言われていることです。
 「神の国」というのは「神様の支配」ということです。私の支配ではなくて、神様の支配です。神様がすべてを造り、すべてを支配しておられる、この神様の御支配を探しなさいということです。また「神の義」とは、「神の義しさ」ということですが、これは「神の愛」と結び付いています。神様が私共を愛してくださって、全くの罪人であるにもかかわらず、一切の罪を赦すためにイエス様を降らせ、私共のために、私共に代わって十字架にお架けになり、復活させられた。その出来事によって、私共は神の子とされ、神様を父と呼び、神様との親しい交わりの中に生きるようにしてくださった。これが「神の義」です。この神の義を探し、見出すのです。既に与えられているからです。
 イエス様はここで、「神の国と神の義を求めなさい。」と言われたのですが、それは私共が一生懸命、神様の御支配のために、神の義が顕れるために努力したら、そうしたら「これらのもの」即ち、私共の必要のすべてが備えられる、と言われたのではないのです。そうではなくて、「空の鳥を見てごらん、野の花を見てごらん。空の鳥も野の花も神様の御支配の中で生かされているではないか。あなたがたは神様の子とされるほどに神様に愛されているのだから、何の心配も要らない。よく自分の周りを見てごらんなさい。神様の御支配があるでしょう。神の義が愛が、あなたの周りに充ち満ちているでしょう。それを探しなさい。」そう言われたのです。「何よりもまず」です。つまり、何よりも優先して、第一にということです。このことを第一にすれば、もう既にすべてがあたえられている、備えられている、そのことが分かるはずです。私共の命は、自分で手に入れたものではないでしょう。気がついたら与えられており、生かされていた。色々大変なことはあったけれど、今こうして生かされている。神様がすべてを備えてくださっているからでしょう。「このことに目を向けなさい。そうしたら、思い悩むことはなくなりますよ。大丈夫。」そう言われているのです。イエス様は、思い悩みの中にある私共を、その思い悩みから解き放ち、神様の御手の中に生かされた大安心に生きるようにと、招いてくださっているのです。

6.明日のことまで思い悩むな
 ここまで言われても、それでも不安だ、心配だという私共に向かって、イエス様は最後にこう言われました。34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」私共の不安や心配というものの多くは、今、今日のことではなくて、明日こうなったらどうしよう、というものではないでしょうか。明日のことは誰も分からない。だから不安になるし、心配にもなる。そして、挙げ句の果てには占いのようなものにさえも頼りたくなる。しかし、明日は神様の御手の中にあるのです。私共を愛しておられる天の父なる神様の御手の中にある。そのことを信頼して、私共は今やらならなければならないことを、神様の御心に適うように精一杯やれば良い。それで十分なのです。
 私共は死を恐れます。死が怖くない人なんていません。だから、少しでも健康でいたいと思い、サプリメントを飲んだり、これが体に良いとなればそれを食べる。当たり前のことです。イエス様は、思い悩む私共の本当の原因が、死にあるということを知っておられます。そして、この死の向こうにある神様の御支配、神の国、永遠の命にまで、私共のまなざしを向けさせようとしておられるのです。私共は何時かは死ぬのです。それが何時かは分かりません。それもまた、神様の御手の中にあることです。そして、大切なことはその後なのです。私共は、この肉体の死ですべてが終わるのではないということです。イエス様が復活されたからです。私共は死んでも生きるのです。だから、死んだらどうしようと思い悩むことも、もう要らない。イエス様が復活されたからです。私共は、この復活のイエス様の命に与る者とされている。そこに目を向けるならば、食べるという命を保つためのことや着るという自分を飾ることなどの、目に見えるものに思い悩まされることはない。神様の大安心の中に生きれば良い。今朝イエス様はそのように私共を招いてくださっています。
 確かに、私共が生きている限り、いつでも色々な問題があるのです。しかし、神様の御手の中にある明日、これは死の向こうの永遠の命をも含む明日ですが、これがあることを知った者は今日の問題に押しつぶされないということです。この希望を私共から奪うことは誰にも出来ません。辛くても空の鳥を見る、野の花を見るのです。神様の御支配に目を向けるのです。そして、神様の御手の中にある自分を発見するのです。これさえ出来れば、私共から生きる力と勇気とを奪うことが出来るものなど何もありません。

7.執事の任職に向けて
 これから執事の任職式があります。先週の教会総会で初めて執事に選出された方が一人おられます。この方に執事の按手を行います。誰でも初めて執事や長老に選出された時には、「どうしよう。」と思います。私なら執事くらい、どうということはない。そんな風に思う人はいません。皆「どうしよう。」と思う。あるいは「どうして私が。」と思う。しかし、その人に対しても、イエス様は今朝、「思い悩むな。何よりも、神の国と神の義を求めなさい。」と告げておられます。すべては神様が備えてくださいます。その神様が備えてくださる能力、体力、時間、それを神様の御心に適うよう用いていけば良いのです。「出来ることを、出来るように、精一杯」です。神様が御心の中でそれを用いていってくださる。そのことを信頼して、安心して主の御用にお仕えしていっていただきたい。主はあなたと共におられます。

[2017年5月7日]

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