富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「復活の朝」
詩編 16編1〜11節
マタイによる福音書 28章1〜10節

小堀 康彦牧師

1.復活の主を拝む
 今朝私共は、イエス様が復活されたことを覚えて礼拝を守っております。復活されたイエス様を神様として拝む。これがキリスト教の礼拝の始まりであり、キリストの教会が二千年の間、主の日のたびごとにささげてきた礼拝です。イエス様は素晴らしい教えを語られました。数々の奇跡も為さいました。しかし、それだから私共がイエス様を神様として拝み、礼拝するようになったのではありません。イエス様は金曜日に十字架に架かり死なれました。そして日曜日の朝、復活されました。今朝与えられました御言葉において、この復活されたイエス様と出会った女性たち、マグダラのマリアともう一人のマリアは、復活のイエス様の「足を抱き、その前にひれ伏した」(9節)と記されております。この「ひれ伏した」と訳されている言葉は、神様として拝む、神様を礼拝するという時にのみ使われる言葉です。それ以外に用いられることはありません。マグダラのマリアともう一人のマリアは、復活されたイエス様を神様として拝んだ、礼拝したのです。さらに、復活されたイエス様は、ガリラヤの山で十一人の弟子たちとお会いになりました。この時、十一人の弟子たちはやはり「イエスに会い、ひれ伏した」(17節)のです。イエス様を神様として拝んだ、礼拝したのです。これがキリスト教の礼拝の始まりです。
 イエス様が復活された。それは二千年前にただ一度起きたことです。しかし、この出来事は、遠い昔に地球の反対側で起きた、今の私共には関係のないことなどではないのです。イエス様が復活されたということは、イエス様が今も生きておられ、私共と共におられるということだからです。私共が毎週ここで主の日の礼拝をささげているのは、復活されたイエス様が今も生きて働いてくださっているからです。だから、私共はこの方の前にひれ伏し、この方を神様として拝み、礼拝しているのです。

2.キリスト教の誕生
 教会学校でよくキリスト教の大切な三つの誕生日の話をします。イエス様の誕生日であるクリスマス、教会の誕生日であるペンテコステ、そしてキリスト教の誕生日であるイースターです。イエス様が復活されたイースターは、それによってキリスト教が誕生した日なのです。逆に言いますと、イエス様が復活されなかったなら、イエス様が十字架の死で終わっていたのなら、キリスト教は誕生しなかったということです。イエス様が捕らえられた時、弟子たちは皆逃げてしまいました。そして、イエス様が十字架に架けられて死んでしまうと、弟子たちは自分たちにも累が及ぶことを恐れて、身を潜めていました。もし弟子たちが復活されたイエス様と出会わなければ、イエス様が復活されなかったのならば、彼らはほとぼりが冷める頃にそっとエルサレムを離れ、生きる目的を失ったようになって、その後の人生をそれぞれ歩んだことでしょう。時々懐かしくイエス様のことを思い出したかもしれません。でも、それだけのことです。
 しかし、そうはならなかった。彼らは「イエスは主なり。」「イエス様こそ神の子なり。」そう高らかに宣言し、全世界にイエス様の福音を宣べ伝えていったのです。そして、使徒たちの多くは殉教しました。イエス様のことは語るなと止められても、彼らは語ることをやめませんでした。彼らは、復活されたイエス様と出会ってしまったからです。そして、その復活されたイエス様に、すべての民を弟子とするよう命じられたからです。復活されたイエス様と出会い、死では終わらないことがはっきり示されましたから、彼らは死さえも恐れない者として、イエス様の福音を宣べ伝え続けたのです。
 もっと言えば、復活されたイエス様と一回出会っただけならば、その時どんなに衝撃を受けたとしても、その記憶はやがて薄れていき、しまいには「あれは錯覚だったのではないか。」ということになってしまったかもしれません。イエス様の弟子たちは、イエス様の奇跡を何度も見ていましたけれど、イエス様が捕らえられれば逃げてしまい、十字架に架けられれば身を潜めているしかない者たちだったのです。出エジプトの出来事において、あれだけの奇跡を見せられながらも、荒れ野での旅で食べ物がなくなると不平を言う、それが人間です。しかし、そうはならなかった。彼らは命をかけてイエス様の福音を宣べ伝え続けました。彼らが信仰深かったからでしょうか。そんなことではありません。復活されたイエス様は弟子たちに姿を現し、ルカによる福音書によれば、40日にわたってその姿を弟子たちに現して天に昇られました。そしてその後、聖霊が弟子たちに注がれます。復活されたイエス様は、聖霊として弟子たちと共に歩み続けられたのです。復活されたイエス様が生きて働く神様として弟子たちと共に在り続けた。それ故、弟子たちはイエス様の復活によって明らかにされた救いの道、イエス様の福音、私共の一切の罪がイエス様の十字架によって既に裁かれ、罪赦された者として、神の子・神の僕として、永遠の命に生かされるという福音を宣べ伝え続けたのです。復活されたイエス様は、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と命じられたとき、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されました(マタイによる福音書28章19〜20節)。この約束通り、イエス様は福音を宣べ伝える弟子たちと共にいて、その歩みを守り、導き続けられました。そのことは使徒言行録に記されております。「主は生きておられる。」これがイエス様の復活を覚える私共に告げられているメッセージです。

3.私も復活する
 主が生きておられるということは、私共の命もまた、死では終わらないということです。私共も復活するということです。イエス様が復活しても、それが私の復活の保証とならないならば、私にとって何の益があるでしょうか。パウロが、「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」(コリントの信徒への手紙一15章32節)と言っている通りです。私共の命が、もし死んで終わりであるならば、ただ面白おかしく生きれば良いのです。神様の御心なんて関係なく生きれば良いのです。もし私共が復活しないのなら、イエス様の復活に与ることがないのであれば、イエス様が復活したかどうか、そんなことはどうでもよいことになるでしょう。しかし、そうではないのです。イエス様が復活したということは、私もまた復活するということなのです。死は最早私共を支配するものではなくなったということです。これが私共に与えられている救いです。

4.私の母の死
 先月の31日に私の母が天に召されました。私は祖父や父の最後の時を見守ることをしてきましたが、息を引き取る場面に立ち会ったことはありませんでした。でも今回は、息を引き取るその時に立ち会うことが出来ました。そして葬式もしました。20年前に父を送った時と今回と全く違うのは、父には洗礼を施すことが出来ませんでしたが、母には洗礼を授けることが出来、毎日、共に祈ることが出来たということです。そして、母の死というものを、父なる神様の御許に送ったのだとはっきり確信することが出来ました。死は確かにすべてを奪っていきます。しかし、今回の母の死に際しては、私は母の死がイエス様の十字架の死と一つにされたというか、イエス様が連れて行かれたというか、ヨハネによる福音書において、イエス様は息を引き取られる時に「成し遂げられた」と言われましたが、この言葉は、「すべては終わった」「すべては完了した」「すべての目的は果たされた」とも訳せる言葉ですが、この「すべては終わった」と言われたイエス様の死と一つにされた、そのように受け止めることが出来ました。母は神様から頂いた地上の生涯を歩み通した。すべてが終わった。成し遂げた。走り通したのです。だから、確かに地上の命は終わったけれど終わっていない。死んだけれども死んでいない。イエス様の死と一つにされた死だからです。

5.復活させられる
 先週の受難週の間、火曜日から金曜日まで毎日二回ずつ、朝と夜に受難週祈祷会が守られました。私が担当した祈祷会では、マタイによる福音書の26章17節以下の過越の食事の場面から始まり、イエス様が十字架の上で息を引き取られるまでのところを4回にわたって学び、イエス様の十字架への歩みを辿りました。そして、婦人会、壮年会、長老会の方が担当された祈祷会では、それぞれ奨励者が立てられ、証しが為されました。聖書に聞きながらイエス様の十字架の出来事を心に刻むと共に、信徒の方々の証しを通して、イエス様が確かに生きて働いておられることを心に刻むことが出来ました。私にとっては大変恵まれた受難週でした。
 イエス様の復活は、あの十字架の出来事と切り離すことは出来ません。私共のために、私共に代わって十字架の上で神様の裁きを受けて死なれたイエス様。そのイエス様が復活されたのです。正確に言えば、「復活させられた」のです。聖書はイエス様の復活を、「復活させられた」と受身形で記しています。「復活した」と翻訳されている言葉はすべて、文字通りに訳せば「復活させられた」です。復活させたのは、勿論、父なる神様です。イエス様は父なる神様によって復活させられたのです。
 イエス様は父なる神様によって復活させられた。そのイエス様のまことの父である神様は、私共の父となってくださいました。私共は祈るたびに「父なる神様。」と呼びかけることを許されています。それは、神様が、イエス様の十字架の故に、私共のことを一切の罪の裁きを既に受けた者と見なしてくださり、イエス様のように我が子として受け入れてくださったからです。そうであるが故に、父なる神様は独り子であるイエス様を復活させたように、私共をも我が子として復活させてくださいます。まことにありがたいことです。
 イエス様の十字架は私の十字架であり、イエス様の復活は私の復活なのです。イエス様を信じるとは、このイエス様と一つにされた者になるということです。信仰とは、私共の単なる信じている気持ちの問題なのではありません。聖霊が私共に働いてくださって、イエス様の十字架が私の十字架であり、イエス様の復活が私の復活となるという、とても信じられないことを信じる者としてくださったのです。「イエス様が復活した。だから、あなたがたも復活する。」そう言われて、すぐに信じた人が一人でもいるでしょうか。信じられなかったでしょう。しかし、信じる者となった。いや、信じる者にしていただいた。聖霊なる神様が働いてくださったからです。信仰とは、今も生きて働かれる神様が私共に与えてくださる奇跡なのです。イエス様を信じる者は、この神様による救いの奇跡の中に既に生きているのです。

6.ガリラヤで会おう
 今朝与えられております御言葉において、イエス様の墓に行ったマグダラのマリアともう一人のマリアに対して、天使はこう告げました。5〜7節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは恐れながらも喜び、このことを弟子たちに伝えるために走りました。すると、復活されたイエス様がこの婦人たちの行く手に立たれます。婦人たちは、この復活されたイエス様を神様として拝みました。そしてイエス様は、婦人たちにこう告げます。10節「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 ここで、天使の言葉と復活されたイエス様の言葉として繰り返されるのは、「ガリラヤで会うことになる」ということです。ガリラヤは弟子たちがイエス様に召し出された所であり、イエス様と一緒に旅をした所です。イエス様の言葉を聞き、イエス様の業を見た所です。弟子たちはイエス様が捕らえられた時にイエス様を捨てて逃げた。その弟子たちと再びガリラヤで会うと言われる。それは、弟子たちを再び弟子として召し出し、再出発させるということでしょう。
 昨日、入院されているS・Kさん、K・Tさん、M・Yさんの所に行って祈ってきました。三人とも、このイースター記念礼拝に姿が見えないなど考えられない信仰の歩みをしてきた人たちです。忠実な礼拝者として歩んできた方々です。それぞれ病を得て、今までのように元気な姿ではありませんでした。しかし、肉体が弱くなれば弱くなった在り方でイエス様の弟子として歩む。そのような再出発の時を迎えたのだと受け止め、祈って参りました。この三人の方々にとって、この病室がガリラヤなのだと思いました。イエス様に召された時のことを思い起こし、イエス様と共に歩んだ日々を思い起こし、今日から再出発する。去年出来ていたことが今年は出来ない。そういう弱さを私共は一つ一つ抱えていきます。しかし、その状況を受け入れ、そこから再出発する。イエス様の弟子として新しく歩み出す。私共は今朝、復活の朝を迎えているのです。復活のイエス様と共に、それぞれ新しく歩み出していくのです。
 今から私共は聖餐に与ります。イエス様が私共と一つになってくださり、私共と共にいてくださることを心に刻む時です。イエス様の体を食べ、イエス様の血を飲み、イエス様の命と一つにされて、ここから新しく歩み出してまいりましょう。

[2017年4月16日]

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