富山鹿島町教会

礼拝説教

「求めよ、さらば与えられん」
詩編 27編1〜14節
マタイによる福音書 7章7〜12節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝私共は2017年度最初の、主の日の礼拝を捧げております。お気付きの方もおられると思いますが、週報の表紙に記される御言葉が変わりました。マタイによる福音書7章7節の言葉になっております。この御言葉が2017年度に与えられました教会聖句です。今日はこの御言葉に集中して、御言葉を受けてまいりたいと思います。

2.だれでも
 7節の御言葉は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とあり、8節の「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と続きます。8節の冒頭に「だれでも」とありますように、求める人は「だれでも」与えられますし、探す人は「だれでも」見つけることが出来ますし、門をたたく人には「だれにでも」開かれる。そうイエス様は告げておられます。信仰深く、愛に満ち、優しくて、立派である、そのような特別な人が求めたり、特別な人が探したり、特別な人が門をたたけば、与えられ、見いだし、開かれるのではないのです。「だれでも」です。これが、イエス様が私共に与えてくださった約束です。この約束は私共を励まします。私も求めてみよう。探してみよう。門をたたいてみよう。そのような積極的な思いを私共に抱かせるのではないでしょうか。そうなのです。イエス様はこの御言葉によって、求め、探し、門をたたくよう、私共を励まし、招いておられるのです。この励まし、招きの中で、イエス様は、求めよ、探せ、門をたたけと命じておられるのです。

3.神様を信頼する
 では、この「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とイエス様が約束された根拠は何でしょう。それは、天の父なる神様の私共への愛です。イエス様は知っておられるのです。父なる神様は私共を愛しておられる。だから、求め、探し、門をたたく者を放ってはおかれない。神様は必ず与え、見つかるようにし、門を開いてくださる。イエス様はそのことをよくよく御存知なのです。ですから、続けてこう言われるのです。9〜11節「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」確かに、親はパンを欲しがる子に石を与えませんし、魚を欲しがる子に蛇を与えません。まして、天の父は求める者に良い物を与えてくださるに違いないのです。ここには実に単純でおおらかな、父なる神様への信頼があります。イエス様はこのように、父なる神様をいつも信頼しておられました。まことの神の子なのですから当たり前と言えば当たり前なのですが、イエス様はこの単純でおおらかな神様への信頼へと私共を招いておられます。あなたもこの父なる神様への信頼に生きよう。あなたはもっと単純に、もっとおおらかに神様を信頼していいのだ。そう招いておられるのです。

4.「父なる」神様、「子なる」神様
 しかし、そう言われても、神様は自分には石や蛇しか与えてくれなかった。今だってそうだ。体のあちこちは痛むし、次々と手術を受けなければならないし、家族の関係だって大変だ。次から次へと大変なことばっかりだ。神様は自分が求めるものを少しも与えてくれない。そう感じている人もおられるかもしれません。そもそも、パンを求める子に石を与える親だっているではないか。魚を欲しがる子に蛇を与える親だっているではないか。新聞を見れば子どもの虐待の記事が毎日のように載っているではないか。確かにそういう現実があることを私共は知っています。しかし、父なる神様はそのような、子どもを虐待するような父なのでしょうか。そうではないでしょう。
 皆さんは、父なる神様という言葉をどう受け止めているでしょうか。自分が知っている父親の姿に神様を重ねるのでしょうか。そうではありません。私共は、父なる神様を知ることによって、本当の父の姿を知らされ、自らの父としてのあり方を変えられていくのです。子ということにしても同じです。私共は生まれた時から父と母の子なのです。しかしその、子としてのあり方はどうなのでしょうか。私共は、子なる神であるイエス・キリストの姿によって本来の子の姿を知る、父に対する子の姿を知るのです。十戒の第五の戒は「父と母を敬え。」です。この十戒に完全に生きた方はイエス様しかおられません。しかし、このイエス様の姿によって、私共は、子としてのあり方、父と母を敬うとはどういうことなのか、そのことを知るのでしょう。
 週報にありますように、一昨日、私の母が天の父なる神様の御許に召されました。明日前夜式、明後日葬式をここで行います。母は6年ほど私共と同居いたしました。その中で、この「父と母を敬え。」という戒に生きることがいかに難しいかを知らされ続けました。そしてまた、この戒が与えられているが故に、同居を続けることが出来ました。神の子とされた者として、子としての自分のあり方を正され続けました。
 私共は実際に子であり、父であり、母でありましょう。しかし、その姿は罪に満ちた子であり、父であり、母でしかありません。その姿が正されるのは、まことの父とまことの子である、父なる神様と子なるキリストの姿によってです。私共はこのイエス様の、父なる神様への単純でおおらかな信頼の中に生きるよう招かれている。そして、その歩みの中でこそ、実際の父としての、子としての姿が正されていくということなのです。

5.何を求めるのか
 この「求めなさい。そうすれば、与えられる。」という言葉は、しばしば誤解されます。それは、「とにかく祈っていれば与えられるのだ。求めていれば必ず手に入る。だから求め続けよう。」そのように読まれる。しかしこれは、全く間違いとは言えなくても、誤解を招く理解の仕方です。本当に何でも求め続ければ与えられるのでしょうか。イエス様はここでその様に約束されたのでしょうか。そうではないでしょう。
 「何を求めるのか」、これが大切なことは言うまでもありません。少し前の6章33節でイエス様は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言われています。ここで「これらのものはみな加えて与えられる」と言われている「これらのもの」とは、食べること、着ることに代表される、私共の日常に必要な物のことです。私共はそれらのものを第一に求めてはいないかということです。そうではなくて、それらは私共が神の国と神の義を求めていく中で、神様によって与えられるものなのだということです。ですから、私共が第一に願い求めるものは、何よりも神の国と神の義なのです。つまり神様の御支配です。神様の御心が成ること、神様の救いが前進することです。神様の愛がこの世界に満ち、すべての者の唇が主をほめたたえるようになることです。ルカによる福音書の同じ記事を記した11章9〜13節には、13節b「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」とあります。神の国と神の義が現れるのは、聖霊なる神様の御業によってでありますから、私共が第一に求めるものは聖霊だと言っても良いでありましょう。聖霊は私共に信仰・希望・愛を与えてくださいます。神様との親しい交わりを与えてくださいます。何が正しいのかという判断も知恵も与えてくださいます。私共の互いの平和も与えてくださいます。生きる力も勇気も与えてくださいます。自分が何をしていけば良いのかという、ビジョンも与えてくださいます。そして、祈りも与えてくださいます。

6.祈り続けなさい
 求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい。これは、祈りなさいということです。祈り求めよ、祈って探せ、祈って門をたたけということです。
 ここで、祈って求めるものが神の国と神の義であり聖霊であるとするならば、探すものとは何なのか、たたく門とは何なのか、そういう問いが生まれるでしょう。探すものとは何でしょうか。それは、神様の御計画の中にある私共の歩むべき道、為すべきことであるでしょうし、神様が与えてくださる福音の真理でありましょうし、どんな逆境の中でも力を与えるまことの希望でもありましょう。また、私共がたたく門とは、天の国の門、永遠の命の門、救いの門でありましょう。そして、それは必ず見いだすことが出来、開かれる門なのです。天の国の門は、自分の力でこじ開けようとしても開けることは出来ません。天の国の門は、向こう側から開かれるのです。しかし、たたかなければなりません。探さなければなりません。つまり、祈り求めることが私共には求められ、命じられています。父なる神様の子とされた者、神の子とされた者として、父なる神様への単純でおおらかな信頼をもって祈るよう、命じられているのです。
 この「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」という言葉は、ギリシャ語では、動作の継続を意味する言葉で記されています。つまり、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「門をたたき続けなさい」ということです。求めよ、探せ、門をたたけとは祈ることだと申しましたが、それは、祈り続けなさいということなのです。祈りは、祈り続けなければダメなのです。私共はすぐに諦めてしまう。祈ったところでどうにもならないと思う。それは、神様は何もしてくれないと思う不信仰が根っこにあるのでしょう。もちろん、神様は私共の祈りをいつもそのままのあり方で、祈った通りに叶えてくださるということではありません。神様は、私共にとって何が一番良いものであるかを、どの時に与えるのが良いのかを御存知です。しかし、私共はそれを知りません。私共は目の前のこのことがこのようなあり方で展開していくのが一番良いのだと考えます。しかし、神様はそう思われないということだってしょっちゅうあるのです。神様は、私共が祈れば何でも叶えてくれる、幸せの自動販売機ではないのですから。
 神様は私共とは比べものにならない、永遠から永遠を見通しておられる全能のお方であり、独り子を十字架にお架けになるほどに私共を愛してくださっているお方なのです。神様はその愛と知恵と力をもって、私共に一番良いものを備えてくださるのです。そのことを信じて良いのです。そのことを信じて祈り続けるのです。祈ろうとしない自分、神様を信頼しようとしない自分、自分の力だけでやっていけると勘違いしている自分と戦って祈り続けるように、イエス様は私共に命じておられるのです。

7.祈ることの工夫
 祈ることが大切だということは、教会に来て間もない方もよく聞かせられていることでしょう。祈らなくても良いなどと言う人はキリスト者にはおりません。しかし、皆がよく祈っているかといえば、なかなかそうとも言えない。それは、祈りの訓練が出来ていないからだと思います。祈りには工夫が必要なのです。
 祈りとは何かということを論じるのも良いでしょうが、実際に祈りの生活を整えていくためには祈りの工夫が必要なのです。求道者の方には求道者なりの祈りの工夫が必要ですし、長い信仰生活をしてきた人には長い信仰生活をしてきた人なりの工夫が必要です。毎日忙しく仕事をしている人には忙しい人なりの工夫が必要ですし、高齢になった方には高齢の方なりの工夫が必要です。この工夫は各自がしていかなければなりません。置かれている状況が違うのですから、こうするのが一番良いなどと簡単に言うことは出来ません。そしてこの祈りの工夫は、キリスト者である限り、為し続けていかなければならないものなのです。確かに、祈りの生活には、いつの間にか自分なりのスタイルというものが出来てくるものです。しかしそこにとどまらず、そのあり方を少しでも工夫して、より御心にかなった祈りを為し続けていく、その営みが大切なのでしょう。一つ工夫することによって、私共の信仰の歩みは一歩前に進んでいく。そういうものでしょう。
 工夫すべき点は幾つもあります。まず祈りの時間の確保。多分これが一番難しく、しかし一番大切なところです。祈りの仕方の工夫も必要です。また、何を祈るのかという祈りの課題の発見も必要です。これについて一言だけ申しますと、私共の祈りが自分のことや家族のことについてだけ為されていると、いつまでたってもイエス様が招いてくださった豊かな祈りの世界の入り口でうろうろすることになってしまいます。高齢になった方の一つの問題は、祈りの課題が自分中心になっているということです。高齢になりますと次から次に大変なことが起きますので、他の人のことなど考えられないということになってくる。しかし、そこで自分以外の人のためにしっかり祈ることが出来れば、私共はいつも天からの光の中を歩むことが出来ます。神様が与えてくださる良き物で満たされることが出来るのです。これは本当のことです。

8.神様は与えたいのです
 今年の教会聖句としてこの「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」が与えられたということは、この一年を私共が自らの祈りの生活を整える一年にしたいということです。天の父は求める者に良い物をくださいます。これはイエス様の約束です。ということは、「わたしはあなたのために、あなたに代わって十字架についた。それはあなたが一切の罪を赦され、神の子、神の僕として生きる者となるためだった。あなたは神の子とされた。だから、神様を我が父として愛し、信頼しなさい。そして、信仰を、希望を、愛を、聖霊を、神の国と神の義を、祈り求めなさい。そうすれば、それは必ず与えられる。父なる神様が与えてくださるようにわたしがするのだから、安心しなさい。あなたはわたしの名によって祈るのだから、父なる神様が聞かれないはずがない。わたしの父なる神様は、あなたに与えたいのだ。救いを、信仰を、神の国を、永遠の命を、愛を、平和を、喜びを、祝福を、真実を、良き物すべてを与えたいのだ。何故なら、そのためにわたしは来たのだから。だから、安心して祈りなさい。祈り続けなさい。」そうイエス様は私共に告げておられるのです。

 私共は今から聖餐に与ります。これは神様が確かに私共に良き物を与えたいと思っておられることの、一つのしるしです。この聖餐に与る者として、与った者として、祈りの生活を主の御前に整え、新しい2017年度の歩みを為してまいりましょう。

[2017年4月2日]

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