1.「試み」か「誘惑」か?
イエス様が与えてくださった祈りである「主の祈り」から御言葉を受けています。今日は主の祈りの第六の祈り、「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え。」です。聖書の言葉では、13節「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」となっています。ここですぐに気がつくことは、私共が祈っている主の祈りでは「試み」となっているところが、聖書では「誘惑」となっていることです。これはどちらが正しいということではなくて、どちらにも訳せるということです。私共がいつも祈っている主の祈りですと「試み」なのですけれど、カトリック教会や聖公会で用いられている主の祈りでは「誘惑」となっています。
どちらにも訳せるけれど、「試み」という言葉は、試験される、テストされるということです。ですから、「試練」というニュアンスがあると思います。一方、「誘惑」というのは、悪い道に誘われるということでしょう。このように見ていきますと「試み」と「誘惑」というのは別のことのような気がしますけれど、ギリシャ語は同じです。文脈によって日本語の訳を変えているだけなのです。私はこう考えています。「誘惑」も「試練」も事柄としては同じだけれども、私共がこれに負けてしまえば「誘惑」となり、これに打ち勝てば「試練」となる、そういうことではないかと思っています。
2.「悪」か「悪い者」か?
もう一つ、私共が祈っている主の祈りと聖書の訳で違っているのは、私共が祈っている主の祈りでは「悪より」となっているところが、聖書では「悪い者から」となっています。これもどちらにも訳せるのです。この場合、「悪」と言えば、具体的な悪い行いや習慣、悪い集団をイメージするかもしれません。一方、「悪い者」と言えば、自分を悪の道に誘い込む人や悪魔、サタンをイメージするでしょう。
これは、先程お読み致しました創世記の3章、アダムとエバが神様の言いつけを破って、食べてはいけない木の実を食べてしまったという、人間の罪の始まりを記した所でも「蛇」というあり方で示されていたものです。「これは神話であって、こんなものはいないのだ。そもそも蛇が話すはずないではないか。」と言う人もいるでしょう。確かに、この蛇というのは神話の形で記されているのですけれど、これは私共が悪を犯す時のあり様を実に良く示している、本当に深い話だと思います。私共が罪を犯す時、私共の中にある欲と言いますか、そういうものが刺激されて、越えてはならない一線を越えてしまう。この私共を刺激するもの、これが蛇です。それは具体的な人であったり、環境であったりするのですが、これに刺激されて私共の心に「大したことじゃない。」「みんなやっているよ。」「一回だけなら大丈夫だ。」そんな囁きが生じるわけです。
私は刑務所でよく、この創世記3章を受刑者の方と読むのですが、ここに書かれていることは自分のことだと皆が言います。自分が刑務所に入ることになってしまった出来事のことを思い出して、蛇の所に具体的な人を当てはめているようです。この蛇というのは、そのように具体的な人となることもあるでしょうけれど、その本当の姿は悪魔、サタンとしか言いようのないものなのではないかと思います。これは、誘惑と本気で戦ったことのある人ならば誰でも分かるほど、リアリティーのあるものです。
主の祈りというのは、神様を父とし、自分が神の子、神の僕として歩む者に与えられた祈りです。イエス様に出会い、神様との親しい交わりに生きるようになるまで、私共は自分の思いのままに生きておりました。神様の御心など考えることもなく生きておりました。ですから、真面目に罪と戦うということもありませんでした。罪がよく分からなかったのです。しかし、私共が神様と共に生きる神の子、神の僕として、神様の御心に従って生きていこうとした時、自らの罪との戦いが始まりました。神様に従って生きようとすれば、そうしようとしない自分がいることに気付かざるを得ない。その戦い無しに、私共の信仰の歩みはありません。ですから、そのような歩みをする私共にどうしても必要な祈りとして、イエス様は「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え。」という祈りを与えてくださったのです。
3.何が試み・誘惑なのか?
私共を襲ってくる試み・誘惑とはどういうものか。それはまことに様々です。悪魔は賢いですし、私共は実に弱いものですから、私共を取り囲むすべてものが試み・誘惑になり得ますし、なってしまいます。特に自分にとって大切なもの、必要だと思っているものは何でも誘惑になります。それが試み・誘惑になるのは、私共がそれを通して神様から離れる、神様との交わりを絶つ、そのように仕向けられるからです。
イエス様はこの第六の祈りの前に、第四、第五の祈りとして、日用の糧が与えられるように、罪の赦しが与えられるように祈りなさいと教えてくださいました。この二つはどうしても必要だから、イエス様は願い求めるように教えてくださったわけです。これが私共にどうしても必要だということは、ここに悪魔が働きかけるということでもあります。ですから、この第六の祈りは、第四、第五の祈りとつながっているのです。
食べることや日々の生活において、困窮したり、病気なったりしますと、私共の心に誘惑の囁きが生まれてまいります。「神様なんていったってどうにもならないじゃないか。」「神様が何をしてくれるのか。」そういう思いが私共の心にむくむくと湧いてきます。これが誘惑です。この他にも、富への欲求、名誉・名声への欲、性欲、そして我が子への執着だって誘惑になるのです。この欲というものは、元々は悪いものではありません。私共は欲がなければ生きられません。食欲がなければ、お腹が空いても何も食べたいと思わない。そんなことが続けば死んでしまいます。しかし、欲が暴走して、自分がこの欲に引きずられ、引き回されてしまうと、神様の御心なんてどうでもよくなってしまうのです。良い仕事をしよう。それは善い志です。しかしそれだって、この仕事で人に認められたい、人から大したものだと言われたい、そんな思いが大きくなれば、神様の御心なんてどうでもよくなってしまうわけです。子育てにしてもそうです。神様を愛し、人を愛し、神と人とに仕える者として育んでいこう。これが私共の子育ての基本でしょう。ところが、そんなことよりも、他の子より少しでも良い成績を取らせたい、そんな思いに支配されてしまいますと、誘惑に陥ってしまうわけです。神様から与えられた子どもが、自分の欲を満たすものになってしまう。
罪の赦しを求めつつ、神様との交わりに生き、人との交わりにおいても、そこに愛の交わりを形作ることが私共の為すべきことです。しかし、人が愛の対象ではなくて、自分の欲を満たすための道具としてしまうことだって起きるわけです。最近、ブラック企業などという言葉がありますが、これはまさに人間が人間としてではなく、利益を生み出す単なる道具と見なされているということでしょう。これは、誘惑に引きずられてしまった人間のあり様です。夫婦の関係にしてもそういうことが起き得るわけです。
4.誘惑を知り、これから逃げる
私共は、神様を神様とする、神様との交わりの中に生き続ける、そのような者として新しくされたのです。ところが、そこから離反し神様に反逆するような、実に様々な誘惑に遭い続けるのです。この誘惑から逃れることは出来るでしょうか。誘惑に全く遭わないように生きる。これは残念ながら出来ません。しかし、少しでも陥らないようにすることは出来ます。
まず、誘惑に対して、これは誘惑だと分かるということです。そして、それが誘惑だと分かったならば、これと戦うのではなくて、その場を避ける、その場から逃げるということです。私は刑務所でいつも言っているのですけれど、覚醒剤で刑務所に入った方には、「覚醒剤のある所に行かない。覚醒剤を持っている人と会わない。そのためには今まで住んでいた所に帰らない。そうしないと、いくらもうやらないと思っても、またやってしまいますよ。」と。覚醒剤という誘惑は分かりやすいです。しかし、私共の遭う誘惑というものは、もっと分かりづらいものです。お金に対しての欲などというものは中々難しいです。お金はなくても困ります。しかし、どれだけ持っていれば安心、これで十分ということもないのです。富というものは、それを持つと、いつの間にかそれに支配されてしまう、それほどの力を持っているのです。しかし、お金の無い世界に行くことは出来ません。ですから、お金から逃げるわけにはいかない。どうしても関わらなくてはならないわけです。だったらどうするのか。それは、お金には私共を神様から離そうとする大きな力がある。誘惑がある。そのことを良く弁えて、これと関わるということです。そこで、この祈りが大きな意味と力を持つことになります。
5.イエス様も誘惑に遭われた
ここで私共は、イエス様が誘惑に遭われたことを思い起こすのです。イエス様の歩みは誘惑との戦いの連続でありました。イエス様は神の御子であられ、大いなる力もお持ちでした。それ故、誘惑も大きかったのです。力があるから誘惑に遭うのです。イエス様の十字架までの歩みは、誘惑との戦いの連続であったと言って良いでしょう。
ここでイエス様の二つの場面を思い起こしましょう。
一つは荒野の誘惑です。荒野の誘惑において、イエス様は悪魔から三つの誘惑をお受けになりました。今その場面を丁寧に見る時間はありませんけれど、この誘惑は要するに、神様との関係を絶って自分の力だけでやっていけるのではないか、その力があるだろう、神様の御心に従うなんてやめてしまえ、そういう誘惑でありました。つまり、十字架につくのなんかやめてしまえという誘惑でした。しかし、イエス様はそれを退けられました。この誘惑はイエス様が弟子を召されて、公の生涯に歩み出す直前の出来事でした。イエス様は十字架への歩みをする前にこの誘惑を受け、それを退けられたのです。つまり、ここで十字架への歩みが定まったと言って良いでしょう。悪魔の狙いは十字架につかせないことだったからです。
そしてもう一つは、ゲツセマネの祈りの場面です。ゲツセマネの祈りにおいて、イエス様は「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(26章39節)と祈られました。ここでもイエス様は、十字架にお架かりになることをやめるという誘惑を受けたのです。イエス様は十字架にお架かりならず、そこから逃げることも出来ました。しかし、そうはなさいませんでした。そして、この誘惑は十字架の上で最高潮に達したと言って良いでしょう。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(27章40節)と、サタンは人々の口を使って誘惑しました。しかし、イエス様はその誘惑を退けて、十字架の上で死なれました。イエス様は十字架の上から降りることも出来たでしょう。しかし、そうはなさいませんでした。そんなことをすれば、神様の救いの御計画がご破算になってしまう。神様の御心に適わない。そのことを知っておられたからです。御自分が十字架にお架かりになることこそが御心だったからです。
6.誘惑への対処
ここで私共は、イエス様が誘惑に対してどう対処されたのか、二つのことを教えられるのです。一つは、御言葉に従うということです。荒野の誘惑においてイエス様は、悪魔の誘惑を聖書の言葉をもって退けられました。もっとも、悪魔の方も聖書の言葉で誘惑したのですから、正しく聖書を読んでこれに従うことが大切であるということです。もう一つは、祈るということです。イエス様はいつも祈っておられました。イエス様はその祈りの中で誘惑と戦い、これを退けられたのです。祈りがなければ、私共は誘惑と戦うことは出来ないのです。
このゲツセマネの祈りの時、弟子たちは眠ってしまいました。その弟子たちに対してイエス様は、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(26章41節)と言われました。つまり、祈らないこと、霊的に眠りこけてしまうこと、それが誘惑に陥った私共の姿なのです。まさにイエス様は、私共が誘惑に陥らないためにこの祈り、「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え。」を与えてくださったのです。イエス様は誘惑というものを知っておられ、これに勝つ力もお持ちでした。この祈りは、そのようなイエス様によって与えられた祈りなのです。私共はこの祈りによって、自分が誘惑に立ち向かうのではなくて、イエス様が私のために、私に代わって戦ってくださる、そのことを願い求めるのです。私共を悪から、悪い者から救ってくださる方は誰か。イエス様です。イエス様に助けを求めるのです。イエス様は確かに誘惑する者に勝利されましたから、この方が私共のために戦ってくださるならば、たとえ私共が誘惑に遭ったとしても、大丈夫です。この方が私共を守ってくださるからです。
この祈りを祈っていれば誘惑に遭わないかと言えば、そんなことはありません。誘惑は私共の周りにいつでもあります。しかし、この祈りを祈り続ける中で、私共は何が誘惑であるかが、少しずつ分かってきます。御言葉に従って生きていく中で、それをいよいよ知っていきます。そして、それから逃げることも知っていきます。そして、どうしても逃げられない時にはイエス様に助けを求めるということを知っていくのです。
それは、御言葉と祈りによって生きる者として導かれていくということです。逆に申しますと、御言葉と祈りが私共の生活の中からなくなってしまいますと、私共は自覚することのない内に神様から離れていってしまう、誘惑に陥っていることさえ知らずに陥ってしまうということなのです。
悪魔は大変賢いのです。何を私共から取り上げれば易々と私共を自分のものとすることが出来るかを知っています。それは御言葉と祈りです。それさえ取り上げてしまえば、私共は自分から進んでサタンの誘惑の中に身を投じていくでしょう。そうならないように、イエス様は私共に主の祈りを教え、神様との交わりの中に生き続けることが出来るようにしてくださいました。主の祈りの最後が「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え。」であるということは、この誘惑・試みの中を私共は生きていかなければならないという私共の現実をはっきり教えると共に、この試み・誘惑を退けてくださるイエス様の守りがあり、このイエス様の守りの中を歩むならば大丈夫だ、そのことをも教えているのです。もちろん、ただ教えるだけではなくて、この祈りに応えてくださって、神様は私共が御国に入るまでその信仰の歩みを支え、守り、導いてくださるのです。
私共にイエス様がこのように祈りなさいと教えてくださったということは、イエス様御自身が「この祈りにわたしが応える。わたしがあなたを悪い者から、サタンから、悪の道から救い出す。」そう約束してくださったということです。こう祈りなさいと言っておいて、「祈りの結果についてはわたしは知らない。」イエス様はそんな無責任な方ではありません。だから安心して、私共は祈ったら良い。「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え。」この祈りに応えて、イエス様は必ず私共を助け、守り、導いてくださいます。私共を、いよいよ神様を愛し、信頼し、従う者へと導き、成長させてくださいます。そして、その私共の歩みは御国へとつながっているのです。この祈りを祈りつつ、御国への確かな歩みを為してまいりたい。そう心から願うのです。
[2017年3月19日]
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