1.本当に必要なものを求める祈り
私共にとって、本当になくてはならぬもの、本当に必要なものとは一体何でしょうか。もし、このように問われたならば、皆さんはどのように答えられるでしょうか。あれも必要、これもなくては困る。数え上げればきりがないほど出てくるかもしれません。昔から、衣食住と言うように、食べる物、着る物、住む所は最低必要だと考える人もいるでしょう。しかし、衣食住が満たされていればそれで十分かといいますと、なかなかそうとも言えません。着る物にしても夏用・冬用が必要ですし、食べ物にしても美味しいものが欲しい。衣食住を満たすためにはそれなりの収入も必要ですし、そのためには仕事も必要だ。一人で生きていくわけにはいかないので、社会も必要だ。私共が必要だと思うものはこのようにどんどん広がっていくのです。おおよそ私共が目にしている物は人が必要とするから作られているので、必要じゃない物を捜す方が難しいくらいでしょう。
しかし、今朝私共はイエス様が与えてくださった主の祈りによって、私共が本当に必要としているものは何なのか、そのことを知らされるのです。それは二つです。食べる物と罪の赦し、この二つを祈り求めなさいとイエス様は教えてくださいました。主の祈りの第四と第五の祈りです。イエス様が教えてくださった主の祈りには六つの祈り、願いがあります。第一から第三までは、神様の御名、御国、御心を求める祈りであり、神様のために祈る祈りです。そして、後半の三つの祈りは、私共のために祈ります。その私共のための祈りの一つ目と二つ目において、食べることと罪の赦しを求めることを教えられています。
これは肉体の命と霊の命が守られ支えられるようにという祈り、或いは、肉体の養いと霊の養いを求める祈りと言って良いでしょう。私共は、自分の命を自分の力で保っていると思っているかもしれませんが、そうではなくて、私共の命は神様の御手の中で守られ支えられているものなのだ。そのことを弁えて、神様に祈り求めなさい。そうイエス様は教えてくださったのです。私共の日々の営みは神様の御手の中にある。そのことを心に刻む祈りです。この祈りを知らなかった時、私共は自分の力で食べ物を手に入れ、自分の努力で人生を切り開き、自分の人生は自分の思い通りに生きていくものだと思っていたでしょう。まして、罪の赦しを求めるなんて考えたこともなかった。しかし、イエス様と出会って、私共は神様の御前に生きる者、神様の御手の中で生きる者、神様と共に生きる者となりました。そのキリスト者としての新しい歩みと共にあり、キリスト者の祈るべき祈りとして与えられたのが主の祈りなのです。
2.日用の糧を、今日も与え給え。
順に見てまいりましょう。
11節「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」これは私共がいつも祈っている言葉で言えば、「我らの日用の糧を、今日も与え給え。」です。主の祈りの初めの三つは分かりにくいけれど、この祈りは分かる。そう思う方もおられるでしょう。この祈りによって急に主の祈りが身近になった。そんな感想を持つ。確かに、イエス様に出会う前から、自分の都合で、私共は目に見える物が与えられるように祈っておりましたから、この祈りをイエス様抜きにして祈る、イエス様によって与えられた神様との新しい関係、父なる神様と神様の子とされた私共の関係を抜きにして祈る、そういうことがあるのかもしれません。しかし、この主の祈りの大前提は、神様は私共の父であり、私共は神の子として祈るということです。イエス様抜きに聖書の言葉が分かる気がする時、それは誤解に過ぎないことが多いのです。この場合もそうです。
この主の祈りを与えられる直前に、イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(6章8節)と言われました。私共に食べ物が必要なことを、神様は百も承知なのです。私共が食べ物を必要としていることを神様は御存知であり、その神様が食べ物を与えてくださることを信じて、私共はこの祈りを祈るのです。祈っても与えられるかどうか分からないけれど祈るというのではないのです。神様が与えてくださる、備えてくださる、そのことを信じて、安心して祈るのです。
食べ物というのは、私共の肉体の命を保つためにどうしても必要なものです。私共の肉体の命は、食べられなくなったら終わるのです。この祈りによって私共は、自分の肉体の命を保っているのは自分の力によってではない、神様が食べ物を供えてくださり、それによって生かされている、そのことを心に刻むのです。人間の傲慢、神様からの離反は、実に「自分は自分の力で生きている」と思うところから始まるのです。食事の度毎に、この食べ物は神様が与えてくださったもの、私は神様の御心の中で生かされている、そのことを心に刻むようにと、イエス様は私共にこの祈りを与えられたのです。
3.食前の祈り
私共がキリスト者となって日常の生活の中で何が一番変わったかというと、食前の祈りをするようになったということではないでしょうか。私共の食前の祈りは、「我らの日用の糧を、今日も与え給え。」という主の祈りから生まれた祈りなのです。この主の祈りに対応するようにして、食前の祈りは生まれました。食前の祈りは、こう祈りなさいという言葉が決まっているわけではありません。自由で良いのです。子どもがいる家は子どもが祈れる言葉で良いのです。同じ言葉で良いのです。
洗礼を受ける人と準備会をする時、或いは小児洗礼の備えのために両親と準備会をする時、私は必ず食前の祈りをするように勧めます。「私の食前の祈り」或いは「○○家の食前の祈り」があったら良い。その祈りの例として、我が家の食前の祈りの言葉を教えます。食事の度に「この豊かに備えられた食卓を感謝します。」と祈る。この食事は、自分で手に入れたのではなくて、神様が備えてくださったのだ。これを365日、食事の度毎に祈る。それは、この食事が「我らの日用の糧を、今日も与え給え。」と祈る祈りに神様が応えてくださって、与えられたものとして受け取るということです。食事の度に、神様は私に食べ物を与え、今日も生きよと言ってくださる、その神様の御心受け取るのです。食事をいただく度に、神様の愛を受け取るのです。
4.「我ら」の日用の糧を
さて、この祈りは「我ら」の祈りですから、「私だけ」が食べ物を与えられれば良いという祈りではありません。これはとても大切な点です。この祈りを祈る者は、自分以外の多くの者たちが飢えていることを知ったなら、その人たちにも食べ物が与えられることを祈り求めるのです。私共は、現在、世界中に飢えた人たちがいることを知っています。現在、世界で約8億人が十分な食物を得られていないと言われています。その人たちにも食べ物が与えられるようにとの思いが、この祈りによって導かれます。
昨日は3月11日、東日本大震災から6年目を迎えた日でした。まだ仮設住宅で生活している人が大勢いることが改めて報道されていました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈る者は、「我らの」なのですから、東日本大震災で避難生活をしている人たち、仮設住宅で生活している人たちのためにも祈らざるを得ないのです。
先の大戦の時に少年時代を過ごした方は、皆、こう言われます。「戦争は嫌だ。いつも腹を空かせていた。もうあんなひもじい思いはしたくない。」食べ物がある。安心して食事が出来る。そのためには平和でなければならないのです。ですから、この祈りに導かれて、平和を求める祈りも生まれてくるでしょう。食べるためには仕事がなくてはなりません。ですから、この祈りによって、仕事を求める祈りだって生まれてくるでしょう。イエス様は、この食べ物を求める祈りから、私共の肉体の命を保つためのあらゆる祈りが生まれてくることを知っておられますし、それを良しとされています。主の祈りが「祈りの中の祈り」と言われるのはそういうことです。この祈りから色々な祈りが生まれるのです。無事出産出来ますようにという祈りも生まれてきますし、病気の人の癒やしを求める祈りだって生まれてくる。私共の肉体の命を守り支えてくださっているのは神様なのですから、この神様の守りと支えを信頼して、目に見える命、目に見える守りと支えを祈り求めたら良いのです。しかし、その祈りの根底にあるのは、今日も私を生かしてくださっている父なる神様に対しての感謝なのでしょう。私共の必要を知り、すべてを備えて生かしてくださる神様への感謝。それもまた、この祈りによって私共の中から生まれる祈りなのでしょう。
5.我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。
次に、罪の赦しを求める祈りです。12節「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」これは、私共のいつもの祈りの言葉で言うならば、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。」です。罪の赦しを求める。これは日用の糧を求める祈りに比べますと、あまりピンとこないという人もいるかもしれません。しかし、イエス様の十字架による罪の赦しがなければ、神様に向かって「父よ」と祈ることなど出来るはずもありません。この主の祈りによる祈りの世界の大前提が、私共の罪は赦されているということです。我が家の食前の祈りには、「罪の赦しの中、私共を生かしてください。」という祈りも入っています。食事の度毎に、肉体の命のためと共に、霊の命のためにも祈ることが必要だと思ったからです。そうでないと、いつの間にか、目に見える命のことにしか関心がなくなってしまうでしょう。この我が家の食前の祈りは、加藤常昭先生の説教集の中に、御自身がドイツに行かれた時に食事に招かれて、その食事の食前の祈りに「私共になくてはならぬものを与えてください。日用の糧と罪の赦しを。」という言葉があり、心が動いたということが書いてあって、私も結婚して「我が家の食前の祈り」を作る時にはこれを使おうと思っていたのです。私共は罪赦されている。神の子とされている。だから、それに相応しく生きるのです。その相応しく生きるということが、赦す者として生きるということです。神様に赦されているのですから、赦す者として生きる。愛されているのですから、愛する者として生きるということです。
12節の後半「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」、私共のいつもの祈りの言葉で言えば「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」というのは、神様に私共の罪を赦してもらうための条件なんかではありません。そうではなくて、私共は既に赦されているのです。この「赦された」という救いの出来事は、赦された者として生きるという新しい生き方、新しい霊の命のあり方を生み出すのです。赦されたから、赦されているのだから、何をしてもいいのだ。そんなことには決してなりません。もし、そのように思う人がいたとしたら、その人は自分の罪がどうして赦されたのかということが分かっていないからでしょう。私共の罪が赦されたのは、イエス様の十字架という尊い犠牲によってです。ですから、罪赦された者として生きるということは、このイエス様の十字架の前に生きるということです。イエス様の赦しに与る者は、感謝をもってこのイエス様の十字架に応える者として生きる。それ以外に生きようがない。そしてそれは、具体的に言えば、赦す者として生きるということなのです。それは、愛する者として生きると言っても良いでしょう。
赦されているのに何故赦しを求めるのか。そのような問いは、神様が私共の願う前から私共の必要を御存知ならば何故祈るのか、という問いと同じです。私共の必要を御存知である神様だから、私共は安心して、感謝をもって祈り求めることが出来る。愛の交わりの中で祈り求めるのでしょう。赦されているから、安心して、感謝をもって赦しを求める。そこに私共の霊の命があるからです。神様から離れ、自分の思いのままに生きるのが当たり前だと思っていた私。自らの罪に引きずられ、少しも願ってもいないことばかりしてしまい、人と人との愛の交わりを壊してしまっていた私。その私のためにイエス様が来てくださった。イエス様は私を愛してくださり、罪の中を、闇の中を歩んでいた私を赦してくださり、神様との愛の交わりの中に生きる者にしてくださった。どうぞこの交わりの中に私を生かし続けてください。そう私共は祈るのです。
この霊の命は、今の私を健やかにするばかりでなく、肉体の命が終わった後も、神様との永遠の命の交わりを与えるものです。罪赦された者として、イエス様の復活の命に与る者として生きることになります。神様による霊の養いは、私共の今だけに必要なものなのではなく、肉体の命が終わった後においても、なくてはならないものなのです。
6.「我ら」の罪を赦し給え
そして、この祈りもまた、「我ら」の罪の赦しを求めます。私の罪さえ赦されれば良いのではありません。これは、この世界に生きる人々が神様の御前において互いに赦し合う者として生きるようにという祈りへとつながっていきます。それは、まだイエス様を知らない人々にイエス様の赦しの福音が伝えられて行くようにという祈りを生むでしょう。そして、その様に祈る者は、イエス様の「罪の赦しの福音」を伝えていく者へと導かれていくでしょう。
そしてまた、この世界が主の平和で満ちるようにという祈りにもなっていくでしょう。何故なら、人と人、国と国、民族と民族とが互いに赦せないから、対立して争いが起き、和解へと歩んでいけないのでしょう。しかし、赦された者は赦す者として生きる。それ以外に生きようがない。ですから、この我らの罪の赦しを求める祈りは、御国が来ることを求める祈り、御心が天に成るごとく地にも成ることを求める祈りとも重なってくるでしょう。
日用の糧を求める祈り、罪の赦しを求める祈り、この二つの祈りが完全に成就されるのは神の国の完成においてでありましょう。ですから、この祈りと共に生きる者は、神の国を求めて、神の国の完成を目指して生きる者なのです。主の祈りに導かれ、主の祈りと共に生きる私共の視線は、御国に向けられていきます。この御国を目指す者として今を生きる。そのような私共のために与えられたのが、そのような私共が祈る祈りが、主の祈りなのです。主の祈りを祈りつつ、心を歩みを整えられ、いよいよ御国への歩みを確かなものとされてまいりたいと、心から願うのであります。
[2017年3月12日]
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