富山鹿島町教会

礼拝説教

「御国が来ますように」
イザヤ書 65章17〜20節
マタイによる福音書 6章9〜13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 イエス様は私共に「このように祈りなさい。」と言って、主の祈りを教えてくださいました。キリスト者とはこの祈りと共に、この祈りに導かれ、この祈りを捧げる者です。この祈りによって、この祈りと共にキリスト者の人生もキリスト教会の歴史も営まれてきました。主の祈りはまことに短い祈りでありますが、ここからすべての祈りが生まれ、すべての祈りがここに向かっていく、そのような実に壮大な祈りです。今、主の祈りのすべてを語り尽くすことは出来ません。しかし、この祈りについて私共がどうしても弁えておかなければならないことが幾つかあります。そのことに絞ってお話ししたいと思います。
 前回は、「天におられるわたしたちの父よ」、私共がいつも祈っている言葉で言えば「天にまします我らの父よ」でありますが、この主の祈りの冒頭の言葉、私共が祈りを捧げるお方について見ました。第一に、私共が祈りを捧げるお方は私共の父であられる。つまり、私共はこの方の子とされた者として祈るということです。もちろん、それはイエス様の十字架の出来事が前提となっているわけです。第二に、父なる神様は天におられる。つまり、私共がどのような状況の中で生きていても、その上には天があり、父なる神様はすべてをそこから御覧になって支配しておられるということ。第三に、この方は「我ら」の父であられる。つまり、この祈りにおいて私共は一人で祈るのではなく、祈りの交わりに身を置く者とされているということです。この三つの点だけでも何回説教しても語り尽くすことが出来ないのですけれど、先に行きます。
 その前回の時に申し上げたことでありますが、主の祈りは私共に祈ることを教え、正しい祈りへと導き、そしてその祈りの中で私共を変えていくということです。このこともとても大切なことですので、よく心に留めておいていただきたいと思います。私共は、主の祈りと言えば、これを覚えて折々に祈るということしか考えていないかもしれません。しかし、それは主の祈りの用い方のほんの一部でしかありません。この祈りによって私共の祈りが整えられ、自由にされ、まことに喜びに満ちた神様との交わりへと導かれていく。この祈りによって祈りの言葉が新しく生まれ、そして祈る私共自身が新しくされていくのです。何が本当に大切なことで、何を求めて生きるのか、その道筋が新しくされるということです。

2.「主の祈り」の構造
 さて、主の祈りの全体の構造を見てみましょう。主の祈りというのは、前半の三つの神様についての祈り、そして後半の三つは私共の祈りというように、明らかに前半と後半において祈ることが違っています。これは、祈りの言葉の字面を見ただけでも分かります。日本語ではその辺の所がはっきりしないのですけれど、ギリシャ語ですと、御名というのは「あなたの名」ですし、御国というのは「あなたの国」ですし、御心というのは「あなたの意志」です。すべて「あなたの」という言葉が付いているのです。そして後半は、すべて「わたしたち」という言葉が出てくる。
 ここまで申し上げますと気付いた方もおられるでしょう。主の祈りは十戒と同じ構造なのです。十戒も前半は神様との関係を示し、後半は人と人との関係を示しています。こう言っても良いと思います。主の祈りは十戒に生きる者が祈る祈りである。十戒に生きようとする者はどう祈るのか、そのことをイエス様は教えてくださったのです。十戒は「倫理」、主の祈りは「祈り」という風に、別々のこととして理解しないことが大切です。共に神様の御心から出ているものなのですから、当然繋がっているのです。一人の信仰者の中で、この二つがバラバラになることなどありません。十戒に生きる者は祈り無しに生きることは出来ませんし、主の祈りを祈る者は御心を求めて生きるわけです。十戒は、神様が私共に求めている生き方、為すべきことが示されているわけですが、そのように生きようとする者は、この主の祈りと共に、この祈りを祈りつつ、この祈りに導かれて生きるのだ。そうでなければ、十戒に従って生きることが出来ないということなのです。
 これは、当然と言えば当然のことです。神様が私共に求めておられることを為そうとしても、私共は罪人ですから、これに反することばかりしてしまいます。そのような私共が神様の御前に正しく生きようとしても、自分の力や努力ではどうにもならないわけです。そこで、神様との交わりとしての祈りがどうしても必要なのです。聖霊なる神様の導きによらなければ、十戒に生きることは出来ないからです。主の祈りは、イエス様の十字架によって罪赦された者、神の子・神の僕とされた者の祈りです。この父と子としての祈りの交わりの中で、十戒に従っていく新しい歩みが始まる。私が、「主の祈りは、祈り続けていく中で、その祈りに相応しい者に変えられていく。」と言ったのはこのことです。
 今日は、前半の三つの祈りについて見てまいりたいと思います。

3.御名が崇められますように
 最初の祈りは、「御名が崇められますように」です。私共がいつも祈っている言葉ですと「御名をあがめさせ給え」です。この私共がいつも祈っている言葉は、訳としては誤訳とまでは言いませんが、聖書の言葉をかなり解釈していると言いますか、意訳になっていると思います。私が神学校にいた時から、この言葉は変えた方が良いという議論がありました。しかし、子どもから年老いた者まで皆がずっと祈ってきた祈りなので「今更変えられない」ということで、手が付けられずにいるというのが本当の所です。どう違うかと申しますと、「御名が崇められますように」というのは、直訳すれば「あなたの名が聖とされますように」です。「あなたの名」というのは、神様御自身と理解して良いでしょう。神様御自身が聖なる方とされますようにと祈るのです。しかし、神様は聖なる方です。私共が聖なる方としようとしまいと、神様は聖なる方でしょう。でも、聖なる方としていない、神様を神様としない、その現実があるわけです。先程の十戒との関係で言えば、十戒の第一戒、「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」が守られていない現実がある。それは具体的に言えば、神様以外のものが神様の場に置かれているということです。諸々の偶像、富、自分自身、等々です。それに対して、あなただけが神とされ、聖なるものとされますようにという祈りです。しかし、神様を神様としていないのは、誰よりも私共自身でありますから、私共が神様を聖なる方、神様を神様とすることが出来ますように。ここでやっと、私共がいつも祈っている「御名をあがめさせ給え。」ということになるわけです。意訳だと申し上げたのはそういうことです。
 さて、イエス様はこの祈りを第一の祈りとして教えてくださいました。これは十戒の第一の戒とも関係していることは申し上げた通りですけれど、何よりも神様が聖なる方として崇められる、神様が神様とされる、そのことを第一の祈りとする。ここに父なる神様の子、僕とされた者の新しい祈りが始まるということなのです。
 私共は、この主の祈りに教えられなければ、神様のために祈るなどということは考えられなかっただろうと思います。私の願いを叶えてくれるのが神様の役目だ、くらいに思ったままだったのではないでしょうか。それでは私が主人になって、神様は自分の願いを叶える僕ということになってしまいます。私共自身が、そしてこの世界が、神様に造られたものとして神様を聖なる方と崇める。この秩序が乱れたところに、私共の、そしてこの世界の罪がある。イエス様に罪赦された私共は、何よりもこの神様との関係を正された者として生きるということです。私共は何をさて置いても、まず神様のために祈る、神様が神様とされることを願い求めるのです。栄光はただ神にのみ、です。私共が自らの栄光を求め始める時、それは主の祈りと共に生きていないということになるのです。
 それは国家とて同じことです。教会と国家の関係は、キリスト教会の歴史の中でいつも重大な課題でした。もし、国家が神様の前にひれ伏すことなく、キリストの教会を自分の一部であるかのように見なし、教会を好きなように出来ると考えるなら、それは国家が神様の位置に身を置くということです。主の祈りと共に生きる私共は、それを良しとすることは決して出来ません。それがこの主の祈りと共に歩む私共のあり方です。国家はしばしば自らを「聖なる国」とします。しかし、聖なる国家などは存在しないのです。聖なる方はただお一人、天地を造られた、我らの父である神様しかおられません。
 何が正しく、どのように歩むべきか、私共はただこの方に聞くのです。何を差し置いてもこの方に聞く。それが主の祈りの第一の祈りによって形作られる新しい人間の姿なのです。神様を聖なる方とする、神様を神様とする者として新しくされた者の歩みなのです。
 私は、この主の祈りの第一の祈りによって与えられる新しい人間の祈りの形の一つが、賛美なのではないかと思います。御名を崇める。それは御名をほめたたえるということになるでしょう。神様を賛美する。それは新しい人間の姿です。

4.御国が来ますように
 第二の祈りは、「御国が来ますように」です。私共のいつもの祈りですと「御国を来たらせ給え」です。御国とは神様の国です。神様の御支配が完全に行われている世界です。マタイによる福音書では「天の国」と言われ、ルカによる福音書では「神の国」と言われているものです。
 「御国が来ますように」と祈るのは、まだ御国が来ていないからでしょう。しかし聖書は、御国はイエス様の到来と共に来た、とも言っています。これは「未だ」と「既に」ということですが、確かにイエス様と共に、既に神の国は来たのです。しかし、未だ完成はされていません。ですからこの祈りは、神の国の完成を求める祈りと言っても良いでしょう。私共は既に神の国、神様の御支配の中に生き始めています。神様が私共を「我が子」と呼び、私共は神様を「父よ」と呼びます。ここに既に神の国は来ているのです。しかし、未だ完成していません。キリストの教会は神の国を指し示しますが、神の国そのものではありません。ですから、地上の教会はいつでも問題を抱えています。しかしそれでも、神の国を指し示す特別な使命が与えられていることは確かです。
 御国の完成は、イエス様の再臨と共に与えられます。ですからこの祈りは、「マラナ・タ」(主よ、来てください)という祈りと重なります。この後私共は聖餐に与りますけれど、そこで讃美歌21の81番を歌います。この讃美歌は「マラナ・タ、マラナ・タ」と繰り返し歌います。聖餐に与る毎に、私共は御国への希望を新たにするからです。キリストの教会はこの聖餐に与る度に、この地上の命を超えた命、イエス様の復活の命に与ることを心に刻み、イエス様が再び来られる時に共々に主の食卓を囲むことを思い、御国への歩みを確かにされてきました。そして、主が再び来られることを待ち望む者、御国の到来を待ち望む者とされ続けてきたのです。
 少し奇妙な表現かもしれませんが、私共はこの祈りによって御国への強い憧れを持つ者とされてきたのではないでしょうか。この憧れは希望と言っても良いでしょう。この希望は、この世界がどんな状況になろうとも失われることのない希望であり、生きる力を与え続けてきました。戦火が激しくなる中でも、キリストの教会はこの希望と共にあり、生きる力と勇気を失うことはなかったのです。この地上の営みを超えた希望。御国の希望。これが私共の希望なのです。

5.御心が行われますように
 時間がありません。第三の祈りにいきます。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」私共のいつもの祈りですと「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え。」です。この祈りは、内容としては第二の祈りと同じでしょう。ルカによる福音書においてイエス様が弟子たちに「主の祈り」を教えられた個所では、この祈りは抜けています。しかし、この祈りによって、御国を求めるということがどういうことなのかが、よりはっきりと示されています。ここで大切なのは「御心」です。これは直訳すれば「あなたの意志」です。この祈りもまた、イエス様に教えていただかなければ、私共が決して考えることのない祈りです。私共は、神様の意志など関係なく、自分の願いが叶えられるよう願い求めること、それが祈りだと思っていました。しかしイエス様と出会って、私共は「神様の御心」「神様の意志」というものがあることを知りました。この神様の御心というものは、天地創造の前から私共を選び、救いに与らせるという、とてつもなく長く、広く、深い、そして憐れみに満ちたものです。私共の小さな頭では、そのほんの一部さえも知り尽くすことは出来ないほどです。科学者は、その広大で深遠な神様の御心を探るために、今も研究に研究を重ねています。しかし、一つの謎が明らかにされると新しい謎が生まれるといった状況です。当たり前のことですけれど。
 神様の御心ということで私共が思い起こすのは、ゲツセマネの祈りにおけるイエス様の祈りの言葉です。イエス様は、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(26章39節)と祈られました。十字架にお架かりになる前の晩のことでした。このイエス様の祈りの中に「御心」とはどういうものかが示されていると同時に、御心を求めるとはどういうことなのかが示されています。
 イエス様が十字架にお架かりになること、それが御心、神様の御意志でした。しかし、イエス様を十字架にお架けになるという神様の御心は、それ自体が目的ではありませんでした。そのことによって罪人である私共の一切の罪を赦し、神様との交わりを失っていた私共を、神様の子・僕として新しい命に生きるようにするためでありました。神様の御心とは実に憐れみ深い、恵みに満ちたものなのです。それを知らず、神様を私共の都合も考えず好き勝手なことをする暴君のように考えるならば、このような祈りは出来ません。神様の御心は憐れみに満ちているのです。私共は神様に愛されている。イエス様の十字架により、それは明らかなことです。私共はそのことを知らされたが故に、この祈りを祈ることが出来るのです。神様に向かって「父よ」と呼ぶ者とされているが故に、この祈りを祈れるのです。
 しかし、それでも私共は思い違いをしてしまうのです。自分の都合の良いことが起きれば「御心」だ、都合が悪ければ「御心」ではないと。しかし、イエス様は十字架にお架かりになる直前に、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られました。ここに神様とイエス様の、愛と信頼で結ばれた父なる神様と子なる神様の関係が示されています。私共はこのような祈りの言葉を口にすることは出来たとしても、なかなか心から納得することが出来ないのではないでしょうか。しかし、変えられていきます。少しずつですが、変えられていきます。私共の願い通りになるよりも、神様の御心が為されることこそ一番善いことなのだ。そのことが分かってきます。この祈りを祈り続けていく中で、そのような私に変えられていくのです。私共はそのことを信じて良いのです。
 それはこういうことです。御国が完成したとき、なおも私共は御心よりも自分の思いが遂げられることを願い求める者であるでしょうか。そんなことはないでしょう。私共は自分の思いよりも神様の御心が成ることを何よりも喜ぶ者とされているはずです。もっと言えば、イエス様の心を自分の心とする者にされているはずです。私共は、そのような自分になることを目指して、この地上を歩んでいくのでしょう。その歩みの中で、聖霊なる神様の導きの中で、私共は少しずつ変えられていく。そのことを信じて良いのです。主の祈りを祈りつつ歩む中で、この祈りに相応しい者へと私共は変えられていくのです。
 主の祈りを祈りつつ、この祈りに導かれ、この祈りと共に変えられながら、御国に向かって歩んでいく。それがキリスト者として新しくされた私共の歩みなのです。

[2017年3月5日]

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