1.はじめに、前回までを振り返り
今日は二月の最後の主の日ですので、旧約の出エジプト記から御言葉を受けます。
イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷の状態に置かれていました。イスラエルの民は神様に助けを求め叫び、神様はその嘆きの叫びを聞いてアブラハム・イサク・ヤコブとの契約を思い起こされ、イスラエルの民をアブラハム・イサク・ヤコブと約束した土地、カナンへと導き上ることをお決めになりました。神様はモーセをイスラエルの指導者として立てるために選び、アロンと共にエジプト王ファラオとの交渉に当たらせます。しかし、ファラオの心はかたくなで、イスラエルの民がエジプトから去ることを許しませんでした。そのため、神様は十の災いをエジプトに下し、イスラエルの民が御自分の民であることを明らかにされました。その災いを受ける中で、ファラオは何度かイスラエルの民をエジプトから去らせることを約束するのですが、災いが去ると心変わりして、イスラエルの民をエジプトから去らせようとはしませんでした。そして、その十の災いの最後の災いが、エジプト中の初子がすべて神様に撃たれて死ぬという過越の出来事でした。かたくななファラオもこの過越の出来事には参ってしまい、遂にイスラエルの民は奴隷の地エジプトを出発することが出来たのです。
2.窮地で呟くイスラエル
イスラエルの人々はこの時、「意気揚々と出て行った。」(14章8節)とあります。それはそうだと思います。やっと奴隷の状態から解放され、神様に導かれて、神様が先祖たちに約束された土地に出て行くことが出来る。神様が遂にエジプト王に言うことを聞かせられた。もう怖いものなどない。彼らの心は希望と喜びに満ちていました。
ところがです。ファラオは再び心をかたくなにし、イスラエルの民を解放してしまったことを後悔します。そして、当時世界最強であったエジプト軍の全軍を、イスラエルの民を連れ戻すために動員するのです。その数、「戦車六百」と聖書は記します。この戦車というのは二頭か三頭の馬に引かせる馬車で、通常、士官が乗るものです。三人乗りであり、馬を操る人と弓を射る人と盾を持つ士官が乗るようになっていました。つまり、戦車に乗った人数だけで1800人です。しかし、当時世界最強であったエジプト軍の全軍が差し向けられたのですから、何千という程度の単位ではなかったはずです。一台の戦車の周りには騎兵と歩兵が何百と付いているものなのです。ですから、この「戦車六百」というのは、何万という大軍であったと考えて良いでしょう。9節を見ますと、「エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロト傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。」とあります。イスラエルの民は女・子ども・老人も一緒です。家畜もいたことでしょう。エジプトの軍隊が全力で追いかければ、あっという間に追いついたはずです。イスラエルの民はまさに絶体絶命の状況となりました。前は海、後ろはエジプト軍。逃げ道はありません。
この時イスラエルの人々はどうしたでしょうか。10節b〜11節「イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。」神様に向かって叫ぶのは分かります。しかし、モーセにも言うのです。その内容たるや、まことにひどいものでした。11節b〜12節「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」これは言いがかり以外の何ものでもありません。エジプト軍を見るまでは意気揚々として、喜びに溢れていたのです。それがエジプト軍を見た途端、モーセを責め始めるのです。「お前が悪い。お前がエジプトからわたしたちを連れ出したせいでこんな目に遭うことになった。だから嫌だと言ったんだ。」というわけです。自分が困った状態に陥ると人のせいにする。これはよくあることです。しかし、誰のせいにしようと、事態は何も変わりません。
3.神様の訓練を受ける神の民
この時点では、イスラエルの民はまだ神の民になっていないと言って良いでしょう。神の民とは、神様の御支配と導きとを信じて、困難の中でも、神様が道を拓いてくださることを信じて祈り、為すべきことをする民です。ここでイスラエルの民はモーセに文句を言っているのですが、本当はその背後におられる神様に対して文句を言っているのです。気持ちは分かります。奴隷の地エジプトを脱出して、バラ色の明日があるはずだった。こんなはずじゃなかった。なんでこんな目に遭わなければならないのか。そう文句を言いたくもなる。しかし、神の民というものは、神様からの訓練を受けるものなのです。神の民は、神の民になっていくのです。出エジプトの旅は40年にも及ぶものでした。その間、様々なことが起きました。水がない、食べ物がない、そういう中で神様を信頼する、生きて働き給う神様と共に歩むという訓練を受けなければならなかった。岩から水が出、天からマナが与えられる、主の養いに生きることを学ばねばならなかった。
私共もそうです。洗礼を受ければキリスト者にはなります。しかし、そこから神様の訓練が始まるのです。「洗礼を受ければすべて完了。もうキリスト者として一人前。」そうはならないのです。神様の訓練を受ける。そして、少しずつ神の民にふさわしく変えられていくのです。私も、何度も何度も訓練を受けてきました。ヘブライ人への手紙12章4〜7節「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」とある通りです。
イスラエルの民は、今までエジプトに対する十の災いを見てきました。自分たちの前には雲の柱・火の柱があり、主が共におられることも示されていました。神様がこれだけのことをしてくださっているのだから、この時もイスラエルの人々は神様の御業を信頼していればよかったのです。しかし、そう出来なかった。前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の状況の中で、神様を信頼することも吹き飛んでしまった。なぜそうなるのかと不思議に思われるでしょうか。しかし、これが人間なのでしょう。何度神様の大いなる御業に触れても、いざとなったら神様を信頼する所に立てない、このどうしようもない弱さ、身勝手さ。それが私共なのです。だから訓練が必要なのです。
イエス様の弟子たちもそうでした。イエス様と一緒にいて、彼らはイエス様の大いなる御業を何度も見た。しかし、イエス様が捕らえられると、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのです。そして、イエス様の十字架の死を見て、これですべてが終わったと思ったのです。もちろん、それで終わりとはなりませんでした。イエス様は復活された。神様は私共の思いを超えて道を拓いてくださるお方なのです。そのことを一つ一つの出来事をもって知らされ続けていく。それがキリスト者の生涯であり、神様の訓練を受けて歩むということです。神様からの訓練抜きにキリスト者の人生はありません。それは、神様が私共を我が子として愛してくださっているからです。父から鍛えられない子はいないからです。
4.神の民の為すべきこと
この時モーセは、イスラエルの民にこう言いました。13〜14節「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」このモーセの言葉には、神の民として為すべきことが四つ告げられております。「恐れるな。」「落ち着け。」「主の救いを見よ。」「静かにせよ。」の四つです。前は海、後ろはエジプト軍。自分たちの命がもう風前の灯火となっている時に何を言っているのか、と言いたくなるような言葉です。しかしこれが、どんな状況の中にあっても神の民が為すべきことなのです。何故恐れないで良いのか。何故落ち着けるのか。何故静かにしていられるのか。理由はただ一つです。14節「主があなたたちのために戦われる。」からです。良いですか皆さん。私共が本当に困り果てた時、もう自分でどうすることも出来なくなった時、それは主が私に代わって戦ってくださる時なのです。私共は日常の生活においては、自分で朝起きて、食事をし、仕事をし、計画を立てて生活しているわけでしょう。しかし、もう自分ではどうしようもない、そういう時があるのです。頑張れば何とかなる。そういうのは本当に困った時じゃないでしょう。頑張れば良いわけですから。でも、頑張りようがない、八方ふさがり、明日のめども立たない、そういう時がある。そういう時こそ、実は神様が私共に代わって戦ってくださる時なのです。だから、私共は恐れず、落ち着いて、静かに、主の御業を見るのです。それが神の民の為すべきことなのです。
5.道は拓く、神様の御計画の中で
この時、神様はモーセに何と言われたでしょうか。15〜16節「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。」皆にはあのように言ったモーセでしたが、同時に神様に向かって、何とかしてくださいと叫び、祈っていたに違いないのです。モーセは神様ではないのです。神様によって立てられた指導者です。民には神様の言葉を告げ、神様には民の言葉を伝えて、民に代わって、民のために祈る。それがモーセの立場なのです。モーセ自身、イスラエルの民と同じように不安であり、恐ろしかったに違いありません。
モーセは神様に言われたとおりに、この場所にイスラエルの民を導いたのです。モーセがこの場所を、この道を選んだわけではないのです。神様がこの道へと導かれたのです。どうしてわざわざ逃げ道もない、袋のネズミになるような所に導かれたのか。モーセには分かりませせんでした。しかし、神様には神様の御計画があった。そして、ここに導いたのです。それは、海の水を右と左に分けて道を拓き、その道を通ってイスラエルの民をエジプト軍から逃がす。そして、エジプト軍は海の藻屑となる。これが神様の御計画でした。しかし、モーセもイスラエルの民もそれを知りません。だから恐れ、狼狽え、叫ぶしかなかった。私共の人生も教会の歩みもそうなのです。神様の御計画があるのです。それは私共には分かりません。私共は明日を知ることを許されていないのです。でも神様は知っておられる。そこに神の民の究極の安心があるのです。
神様はモーセに「イスラエルの民を出発させなさい。」と言われた。でも一体どこに。すると神様は「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」と言われたのです。こんな奇想天外なこと、モーセは考えたこともなかったでしょう。海の水を分けて道を作る。これは、もちろんモーセの力ではありません。天地を造られた神様の力です。神様に出来ないことはないのです。神様は道のないところにも道を拓いて、御自分の民を進めさせられるのです。この神様が拓かれる道は、人の目には隠されています。しかし、私共の前にもこのような道が必ず備えられているのです。それを信じて良いのです。
この海の奇跡は、ただ一度、三千年以上前に起きたことです。しかし、この出来事を起こされた父なる神様は、今も変わることなく神の民と共に歩んでくださっています。イスラエルの民がエジプト軍というこの世の力から守られ、誰も考えることの出来ない、海に道を拓くというあり方で約束の地に導かれたように、私共を天の御国に導くために、その全能の御力を用いてくださるのです。
6.我らを試みにあわせず…
さて、コリントの信徒への手紙一10章1〜4節に「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。」とあります。パウロはこの海の奇跡を洗礼に例えました。これはどういうことかと申しますと、この海の奇跡の出来事によってエジプトからの脱出は終わった。もうエジプト軍は追ってこない。そしてここからは約束の地に向かう旅が始まるわけです。それと同じように、私共も、洗礼によって罪の奴隷の状態からの脱出は終わった、そこからは天の国に向かっての旅が始まる、ということではないかと思います。この旅は、神様の訓練を受け続ける旅でもあります。
私共は、そのような訓練や試練にはあいたくありません。だからイエス様は「主の祈り」の中で、「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え。」と祈るよう教えてくださいました。そう祈れば良い。しかし、それでも神様が必要と思われる試練はあるのです。それは神様の訓練の時なのですから、恐れず、落ち着いて、静かに、神様の御業が為されるのを見れば良いのです。でも、そう言われても恐ろしいし、落ち着いて静かになんかしていられない。そうですね。だから祈るのです。「我らを試みにあわせず、悪より救いいだし給え。」と祈るのです。「この苦しい状況の中であなたへの愛が失われませんように。あなたの愛をさらに増し加える時としてください。かつてあなたが海に道を拓いてくださったように、今あなたが道を拓いてください。あなたこそ全能のお方であり、私を愛してくださるお方であることが明らかになる時としてください。」そう祈ったら良いのです。祈り続けていく中で、神様は必ず生きて働き給い、出来事を起こしてくださいます。神様は私共が天の御国に入るまで、その全能の御力をもって私共を守り、支え導いてくださると約束してくださっているのですから。
そこで私共は一つのことを心に留めておかなければなりません。それは、この肉体の死が終わりではないということです。神様は、海に道を拓かれたように、死さえも滅ぼして、永遠の命への道を拓いてくださいました。この永遠の命への道、復活の命への道、それこそ私共に与えられている、何によっても壊されることのない最も確実な道なのです。洗礼をもって始まったこの救いの道は、主の日の礼拝に与り続け、聖餐に与り続けることによって、いよいよ確かなものとされていく道なのです。聞く御言葉と見える御言葉に与り続け、天の御国への道をしっかり歩み続けてまいりましょう。それが神の民の歩みなのですから。
[2017年2月26日]
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