富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の子とされた者の祈り」
詩編 139編13〜18節
マタイによる福音書 6章7〜13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日から、イエス様がお語りになった言葉に聞いて、祈りについて御言葉を受けてまいりたいと思います。  前回見ましたように、6章においてイエス様は、当時信仰の善き業と考えられておりました施し・祈り・断食について、偽善者のように人に見てもらおうとしてこれを行うな、隠れたことを見ておられる父なる神様が報いてくださるのだから、この父なる神様だけを見て、父なる神様との関係の中でこれらのことを行いなさいと言われました。大切なことは、私共と神様との関係なのです。何でもいいからとにかく施しをし、祈り、断食をすれば良いということではないのだと言われたのです。
 そして、今朝与えられた御言葉において、イエス様は、くどくど言葉数多く祈るなと言われ、こう祈りなさいと言って「主の祈り」を教えられました。この「主の祈り」については、何回かに分けて見ていこうと思っています。
 祈ることは信仰するということと同じです。この礼拝がそもそも祈りです。この礼拝のすべてが祈りであり、祈りの具体的な形として礼拝があります。また、祈るとは神様を拝むことですから、祈らない信仰なんて存在しないのです。そして、祈りを語ることは信仰を語ることです。ですから、そのすべてをこの短い時間で語ることは出来ません。与えられた御言葉に従って、祈りについて見ていきたいと思います。

2.くどくど祈るな
まず、「くどくど祈るな」ということです。これは「異邦人のように」と付け加えられております。異邦人というのは、聖書においてはユダヤ人以外の人ということです。日本人も異邦人ということになります。ここにはユダヤ人と異邦人の、祈りについての考え方の違いが明らかに示されていると言って良いでしょう。どうして異邦人はくどくど祈るのか。それは、言葉数を多くして長く祈れば祈りが聞かれる、祈りが叶えられる、そう考えているからだとイエス様は言われるのです。これは実に鋭い指摘です。この背後には、自分の祈りの力で神様を動かそうとする思いがあります。これだけ熱心に祈れば神様も聞いてくれるだろうという思いがあるというのです。日本には御百度参りという習慣がありますが、これなどはその思いが表れたものでしょう。
 この祈りの形、祈りのあり方がはっきりした形をとったものが呪術です。イエス様はここで呪術のような祈りを退けられたのです。呪術というのは、呪文を唱えたり、特殊な所作で祈ることによって、神の力を意のままにしようとする試みです。これは十戒の第三の戒「主の名をみだりに唱えてはならない。」に違反している祈りと言っても良いでしょう。
 イエス様は、そんなことはするなと言われる。何故か。それは、神様は私共が願う前から、私共に必要なものを御存知だから、と言われるのです。祈りについての大前提が違うのです。
 こう言っても良いでしょう。異邦人の祈りは、不足を挙げてそれを満たそうとする祈りです。自分が欲しいものを願い求める。そこで忘れられているのは、神様がそれ以外のすべてを与えてくださっているという恵みの現実です。私共は、自分が神様に祈り願う前に、すべてを神様によって与えられている。この命も友人も学校も、日々の生活に必要なすべてを与えられている。そのことを忘れて、それは当たり前のこととし、或いはそれを自分の努力で手に入れたものとし、特別に困った時だけ、不足を思った時にだけ、祈る。でもそれは違うのだということです。祈りはもっと日常的と申しますか、この世界、私の日々の営みすべてが、神様の恵みの中にある。そのことを知った者が感謝の思いをもって神様と交わること、それがイエス様が私共に教えてくださった祈りの世界なのです。

3.神様がすべて御存知なら、祈る必要はないか?
 さて、私共が願う前から神様は私共に必要なものを御存知であるなら、祈る必要などないではないか、そのように考える人がいるかもしれません。まだ信仰を与えられていない人たちとこの箇所を読みますと、必ずこのような問いが出されます。しかし、これはただの理屈ですね。しかも、神様との交わりを持たない人、神様を愛さない人、祈らない人の理屈でしょう。これは、朝起きて家族と顔を合わせても、別に「おはよう。」と言わなくたっていいではないか、というのと同じです。目の前に居ることが分かっているのだから、敢えて「おはよう。」と言う必要はない。確かに、必要はないけれど、「おはよう」と言うでしょう。祈りもそういうものなのです。神様が私の必要をすべて知り、すべてを備えてくださって、私の日常がある。だから感謝する。「ありがとう。」と言う。それが私共の祈りなのです。
 逆に申しますと、私共の必要を全く知らないような神様に祈ろうと思うでしょうか。「私共の必要を全く知らない」ということは、全知全能ではないということであるか、私共に関心が無いかです。そのような神様に祈りたいと思うでしょうか。私共の神様は、私共が必要なものをすべて御存知であり、すべてを備えてくださる方であるが故に、私共は安心して祈るのです。祈りは愛なのです。神様が私共を愛してくださり、私共が神様を愛する。この愛の交わりの中に身を置いて、心から出て来る言葉が祈りなのです。

4.祈りの工夫
 ですから、祈りは色々な形をとることが出来ます。例えば、讃美歌は祈りの歌です。讃美歌は好きだけれど、祈るのは苦手という人が居ますけれど、讃美歌の歌詞に自分の思いを重ねて歌う時、それは祈りとなっているのです。ですから、讃美歌が好きということは、讃美歌を歌うという祈りが好きだということです。或いは、聖書を読んで、そこで与えられた神様の言葉に応えて祈る。一人で祈る。みんなで祈る。台所で茶碗を洗いながら、「神様、○○さんを守ってください。」と祈る。様々な形をとり得ます。ですから、私共は工夫することが大切なのです。祈る者となるためには、生活の中で工夫していくことがどうしても必要なのです。
 今日、私が皆さんにお勧めする祈りの形は、二つです。一つは「射祷」と言います。あまり馴染みのない言葉かもしれませんが、逢阪元吉郎という方がこのような言い方をしました。この祈りは、日々の生活の中で思い出したときに「神様、〇〇さんの△△をお助けください。アーメン。」といった具合に、一瞬、神様に矢を射るように祈る祈りです。この射祷によって、私共の生活は、くさびが打ち込まれるように神様と繋がっていくことになります。
 もう一つは、祈りのカードを作ることです。祈るべきことをカードに書いて、英単語を覚えるための単語帳のように、それを繰りながら祈る方法です。祈るべきことが多くなると覚えていられない、歳をとるとすぐに忘れてしまうという私の現実から、どうしても必要となった工夫です。忘れてしまうからカードに書いておくのです。信徒の方に「先生、○○を祈ってください。」と言われます。放っておくと、忘れてしまうのです。牧師としては深刻な問題です。ですから、カードに書いていつもポケットに入れておき、空いた時間に祈るのです。初めは、家族のこと、孫のこと、で良いのです。しかし、祈りはどんどん広がっていきます。そういうものなのです。祈りは愛ですから。神様との愛の交わりは、必ず人との愛の交わりへと展開していくものだからです。

5.主の祈り=祈りの学校
 イエス様は、ここで具体的に祈りの言葉を教えてくださいました。それが「主の祈り」です。イエス様が、「このように祈りなさい。」と教えてくださった祈りです。「主の祈り」は短い祈りです。しかし、この祈りにすべてがあります。キリスト教会二千年の祈りは、すべてこの祈りから生まれ、この祈りへと収斂していく。そういう祈りです。キリスト教会の礼拝において、「主の祈り」を祈らない教会はありません。
 「主の祈り」はその意味で、「祈りの学校」とも呼ばれてきました。この「主の祈り」によって、キリスト者たちは祈ることを教えられてきたからです。「主の祈り」についての解説本は、おびただしい数が書かれています。私の本棚にも10冊以上あるでしょう。この「主の祈り」の効用は三つあると思います。@祈ることがどういうことなのか教えられる。A祈りへと導かれる。Bこの祈りにふさわしい者へと変えられていく。
 @とAは分けることは出来ないでしょう。祈ることがどういうことか分かったら、そのように祈るのでなければ意味がありません。しかし、「祈ることが分かった」という所にとどまってしまう人が少なくないのです。でも、それでは本当に「祈ることが分かった」ことにはなりません。祈りは、実際に祈らなくては意味がないのですし、本当のところで分かることはないのです。水泳についての本を読んでも、実際に水の中に入って泳がなければ、泳ぐことが分かったことにはなりません。それと同じです。祈りは、実際に言葉を口にし、時間を用いることです。そして、それを続けていく中で、Bが起きる。この祈りを祈るのにふさわしい者へと変えられていくということが起きるのです。私は、このBがとても大切なことだと思っています。ここに、祈りが聖霊の業であることの確かな証しがあると言って良いでしょう。
 私は毎月二回、教誨師として富山刑務所に行っています。受刑者の方の話を聞き、聖書の話をするのです。この教誨師というのは、受刑者の方がこの宗教の話を聞きたいという希望があると、それによって行くことになります。希望者がなくて何ヶ月かに一回ということになってしまう場合もあるわけですが。そして、聖書の話をするようになって一年ほど経つと受刑者の方が必ず「祈りたいけれど、祈ることが、祈り方が、分からない。祈ることを教えて欲しい。」という要望を出すようになることに気付きました。ほとんど全員がそう言うのです。「祈りたいけれど、祈り方が分からない。」これは、イエス様の弟子たちがイエス様に言った言葉と同じですね。ルカによる福音書11章には、弟子の一人がイエス様に「わたしたちも祈りを教えてください。」と言い、イエス様が「主の祈り」を教えられたことが記されています。そこで私も「主の祈り」をプリントしたものを、「これを毎日祈りなさい。」と言って渡すことにしました。全員ではありませんが、大抵これを覚えます。覚えてから、この祈りの意味を教えるようにしています。そして、受刑者の方がよくこのような話をしてくれます。「この『主の祈り』をするようになって少し変わってきたような気がする。この間、嫌なことを言われて、今までだったら『何を!コノヤロー!』と言って喧嘩になっていたのに、受け流すことが出来た。」些細なことです。でも、自分が変わり始めていることを受け止めることが出来るのは素敵なことだと思っています。多分、本人はまだ気付いていないのでしょうけれど、神様に向かって「父よ」と呼び続ける中で、神様の子としての自分が新しく生まれている。最も深いところにおいての変化が起き始めているのです。

6.天におられるわたしたちの父よ
 さて、「主の祈り」に入っていきましょう。  最初に、「天におられるわたしたちの父よ」です。私共は「天にまします我らの父よ」と言っておりますが、ここで大切なことが三点あります。第一に、神様に向かって「父」と呼んでいることです。第二に、その父なる神様は「我ら」の父であるということです。第三に、その父なる神様は「天におられる」方だということです。順に見ていきます。
@父よ
 第一に、神様に向かって「父」と呼べる。それは、私共が神様の子とされているということを意味しています。もちろん、天地を造られた神様の御子はイエス・キリストだけです。イエス様は神様の独り子ですから、イエス様が「父」と呼ぶのは分かります。しかしイエス様は、私共もまた神様に向かって「父よ」と呼んで良い、呼びなさい、そう教えてくださったのです。罪人である私が聖なる神様を「父」と呼ぶことなど、本来出来るはずがありません。しかし、呼んで良い、呼びなさい、と言われた。それは、イエス様が私共のために十字架にお架かりになって、私共の一切の罪の裁きを受けてくださり、神様との関係を新しくしてくださったからです。もちろん、イエス様は勝手に地上に降って来られたわけではなく神様に遣わされたわけですから、実に神様御自身が私共を愛し、私共との関係を新しくしようとされたということです。つまり、私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのは、神様が私共を「我が子」として受け入れてくださったということが先にあるのです。神様が私共を我が子として愛してくださった。だから、私共は神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのです。
 「主の祈り」によって与えられる祈りの世界は、実に天地を造られた神様と私共が父と子の関係になった、その驚くべき恵みによって開かれた世界なのです。異邦人は、神様が自分の父だとは思っていません。だから、くどくど祈るのです。しかし、私共はもうそんな必要はないのです。父なる神様は、独り子であるイエス様を愛するように、私共をも愛してくださっているからです。私共は神の子なのです。神の子とされた者として祈るのです。
 私には一人娘がいます。私を父、お父さんと呼ぶのは、世界中でこの娘だけです。娘は、私の説教に対してなかなか厳しいことを言います。しかし、私は腹も立ちません。父娘だからでしょう。こんなことを言ったら父娘の縁を切られるのではないか、といった不安など娘にはありません。同様に、私共の祈りは、神様の子とされた者の、この自由な交わりの表れとしてあるということです。こんな祈りをしても良いのだろうかとか、そんなことは気にしないで良いのです。神様が必要だと思えば与えられるし、必要でないとお考えならば与えられない、それだけのことです。
 祈っても聞かれない。叶えられない。神様は私のことなど愛しておられないのだ。そんな風に考えてはなりません。神様が祈りを叶えてくれたら私の父で、叶えられないときは父ではない。そんなことはあり得ないことです。それではまるで、自分の思い通りにならないとすねてしまう、出来の悪い子でしょう。イエス様の十字架によって私共は神の子とされている。まことにありがたいことです。この恵みの中で私共は祈るのです。そして祈りと共に、私共の中に神様を父と呼ぶ、神の子としての私が生まれ、形作られていくということです。これは大きな恵みです。神様を父として愛する私が育まれるのです。
A我らの
 第二に、父なる神様は「我ら」の父であられます。私だけの父、ではありません。ということは、私共はここで自分の祈りが、私だけのことを考えた祈りから「我ら」のことを視野に入れた祈りへと広がっていくことを知らされます。この「我ら」とはどこまでの広がりを持っているのでしょうか。私は、この「我ら」は少しずつ広がっていくものだと思っています。初めは家族くらい。それが友人に広がり、教会の人々に広がる。教会には、年老いた人、病の中にある人、祈らなければならない方々がたくさんいます。この教会の人々にまで広がるのがポイントです。教会に広がりますと、それは世界に向かって広がっておりますから、多くの祈るべき課題が与えられることになります。富山地区だけを見ても、福光教会が無牧の状態です。祈っていただきたいと思います。
B天におられる
 第三に、神様は「天におられる」ということです。天というのは、私共が生きているこの地上の上すべてに広がっているものです。月も火星も、人間の作ったロケットが行けるのですから、そこは地です。天ではありません。神様は、地に住む私共がどんな所にいても、どんな状況の中にあっても、すべてを御存知であり、私共の父として、必要のすべてを与え、養ってくださるということです。天はすべての地の上に広がっている。天を持たない地はないのです。私が喜びの日々を歩む時にも天は私の上にあり、私が嘆きの日々を歩む時も天は私の上にあります。病室で死の恐怖と闘う時にも、私の上には天が広がっています。そして、そこに神様がおられる。私の父である神様がおられる。だから、祈ったら良い。喜びの感謝を、嘆きの祈りを、苦しみの叫びを祈ったら良い。そして、もし祈れなくなったら、祈れるようにしてくださいと祈ったら良い。しかし、それでも祈れなかったらどうするのか。「私のために祈ってください。」と信仰の友にお願いしたら良い。父なる神様は我らの父なのですから。

[2017年2月19日]

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