1.人の前ではなく、神様の御前に
イエス様に出会い、イエス様の救いに与った者は、神様の御前に生きる者となりました。自分の日々の歩みの上に神様の愛のまなざしが注がれていることを知り、その愛に応えて生きる者となったのです。それは、神様との交わりの中に生きる者になったと言っても良いでしょう。今お読み致しました詩編33編13〜15節には「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」とあります。詩編の詩人は、自分の上に注がれている神様のまなざしをこのように歌いました。神様はすべての人を造られ、支配しておられます。人の心も人の業も、すべてを御覧になり、すべてを知っておられます。キリスト者の心だけ、キリスト者の業だけを御覧になっているわけではなくて、すべての人の心と業を見ておられるのです。しかし、世の人はそれを知りません。ですから、神様が自分をどのように見ておられるかということを思わないで、人が自分をどう見ているのか、そのことにばかり気が向きます。それはもう心の習慣になっておりますので、何の意識もせずに、人の目にどう映るかだけを気にして生きていくわけです。
もちろん、私共は社会の中で生きているわけですから、人の目を全く気にしないで生きることは不可能でしょうし、もしそんな風に生きるならば奇人・変人と言われるでしょう。社会生活が出来ないということになってしまうのです。今日は暑いからといって、裸で町を歩くわけにはいかないのです。当たり前のことです。
しかし、キリスト者は人の目、人の評価よりも大切なものがあることを知らされました。それが神様の目、神様の評価です。神様の御前に生きる者になるということは、神様の御前に生きる者として新しくされるということです。生きる意味、目的、喜び、そのすべてが新しくされてしまったのです。神様との交わりの中で、神様のまなざしの中で、すべてが新しくされる。それは新しい私の誕生と言っても良い出来事です。
キリスト者となるということは、まさにこのように生まれ変わる、新しい私になる、新しい命に生きる者になるということなのです。生まれつきの人間にちょっと信仰という要素が加わったというようなことではないのです。もちろんそれは、性格が全く変わるというようなことではありません。変わる所もあるでしょうけれど、変わらない所もある。無口な人が多弁になったり、多弁だった人が無口になるというようなことではありません。また、様々な能力に変化が起きるということでもありません。急に英語が出来るようになったり、数字に強くなったりするわけではありません。見たところにおいて、急に何かが変わるということではないのです。しかし、命の有り様が変わります。その一つの決定的な変化が、神様の御前に生きる者になるということなのです。
2.施し・祈り・断食
さて、マタイによる福音書の5章から始まり7章まで続く、イエス様の山上の説教を共に読み進めております。前回までの所は、イエス様が具体的な六つの律法を挙げて、その律法が意味するところ、神様の御心はこうなのだとお示しになった部分でした。律法に示されていることを形の上だけで守るのではなくて、心が問われる。その心とは、神を愛し、人を愛するということです。この神様の御心を示し、その心を私共に与えるために、イエス様は来られました。イエス様は、私共がその新しい心に生きることが出来るように、私共が神様と親しく交わることが出来るように、十字架にお架かりになりました。そしてイエス様は、その交わりに生き切ることが出来るように、私共に聖霊を注いでくださっています。この聖霊なる神様のお導きの中で信仰が与えられ、新しくされ、神様の御前に生きる者とされたのが私共です。
この6章の始めには、三つの善き業について「注意するように」とイエス様がお語りになったことが記されています。その三つとは施しと祈りと断食です。この三つは、当時のユダヤにおいて善き信仰の業と考えられ、また実行されていたものです。ここでイエス様は、この三つの信仰の善き業をする際にも、律法の時と同じように、私共の心を問われるのです。施しと祈りと断食、これ自体は善き業なのです。しかし、これを行う際の私共の心が問題なのです。この施しと祈りと断食を行う時についてお語りになった個所で、共通する二つの言葉があります。一つは「偽善者」という言葉、もう一つは「隠れたことを見ておられるあなたの父」という言葉です。
3.偽善者のようにではなく
「偽善者」という言葉ですが、これは見える所では善い行いをしているようだけれども、それは本心からではなくて、虚栄心や利己心から行う人のことでしょう。イエス様はここで、施しや祈りや断食といった善き業を行うにしても偽善者のようであってはならない、そう言われました。イエス様が問題にされたのは、人の目に付くように行うことによって、人にほめられようとする心でした。
2節に「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とあり、5節に「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、街道や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とあります。16節には「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とあります。これらは当時のユダヤにおいて、よく見かける光景だったのではないかと思われます。
まず「施し」ですが、社会福祉は、現在の日本のような制度としては無かったものの、当時のユダヤにおいてとても大切なこととされていました。申命記24章19〜22節「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたはエジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」とあるほどです。そして、イエス様の時代、物乞いする人が町には必ずおりました。その人たちに施しをするということは、ユダヤ人として当然のことだったのです。また、シナゴーグで為される安息日の礼拝においても、最後に施しが行われました。会堂の会計係がこれを集め、貧しい人々にそれを施すということが日常的に為されていたのです。これは初代教会にも受け継がれましたし、宗教改革において長老派・改革派には執事という職務が生まれましたが、この執事という職務が担ったのもこの務めでした。施し自体は善き業なのです。しかし、それを人に見せて、人から賞賛を受けようとするならば、それは違う、とイエス様は言われたのです。
日本のことわざに、「情けは人の為ならず」という言葉があります。「情けをかけるとその人が頑張らなくなるから、その人のためにならない。」と誤って理解する人が若い人の半数にもなると、だいぶ前に話題になった言葉です。正しくは、「人に情けをかけておくと、その人のためになるばかりでなく、やがて回り回って自分に返ってくる。」「人に親切にしておけば必ずよい報いがある。」という意味です。この言葉とイエス様が言われたことは、似ているようですけれど違います。結局の所、目に見える報いを求めて情けをかけるということならば、イエス様がお語りになったこととは違います。
次に「祈り」でありますが、イエス様の時代、9時、12時、15時には祈りをささげることになっていました。何をしていても、その時刻になったら手を止めて祈らなければならなかった。そうすると、その時刻にわざわざ街道や大通りの角に出て祈る人がいたのです。当時の祈りの姿勢は、両手を挙げて、声を出して祈ります。ですから、傍で見ていても祈っているということがすぐに分かったのです。当時のユダヤでは、それを見て「立派だ。」と言ったのでしょう。今の日本でそんなことをすれば、ただの変な人になってしまいますけれど。祈ること自体は善いことです。しかし、それを人に見てもらおうとするならば、それは違う、ということです。「断食」も同じです。
本来、施しは神様から与えられている恵みに対する感謝の業ですから、神様に献げるわけです。ところが、人に見てもらって、「あの人は立派な人だね。」と言われたい、そんな思いが出てくる。信仰の業という、最も悪から遠いと思われるものにおいても罪が顔を出すのです。それではダメだ、とイエス様は言われた。祈りにしてもそうです。祈りこそ自分と神様との交わりの時であって、他人がそこに入り込んでくる余地が無いはずのものです。ところがそこに、「あの人は大したものだ。あんなに長く祈っている。立派だ。」そんな風に言われたいという思いがあったならダメなのだと言われた。断食も同じです。
4.承認欲求
どうしてそうなってしまうのか。そこには人間の本質に関わるものがあるからなのでしょう。それは現代の心理学の言葉で言えば、「承認欲求」と呼ばれるようなものでしょう。人は誰でも他の人から認められたいし、自分自身でも自分をなかなか立派だと思いたい、そういう欲求を持っているのです。これは誰もが持っているもので、これが適度に満たされないと欲求不満の状態になって、周りの人に当たったり、理不尽な要求をしたりというトラブルの元になったりするわけです。もっとも、この承認欲求がすべて悪いということではないのです。子どもは親にほめられて、それがうれしくて頑張るということがあるでしょう。ハイハイしていた子が、ある日立って歩く。すると親は「立った、立った。」と言って喜ぶわけです。それに励まされて子どもはまた歩くのです。
しかし、この承認欲求というものは、なかなか厄介なものでもあります。これはいつも言うことですけれど、人の評価と自分自身の評価、これが一致することはほとんどありません。何故なら、他人は私共の生活のほんの一部しか知りません。自分だって自分のことを本当によく分かっているわけではない。周りからの低い評価に対して、高い自己評価。これはストレスが生じますね。しかし、逆もある。周りからの高い評価に対して、低い自己評価。こっちの方は周りの期待に押しつぶされることになりかねません。イエス様に出会うまで、私共は、この周りの評価と自己評価のギャップに苛まれていたのではないでしょうか。
イエス様は、3節で「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」とも言われました。これは、現実には不可能でしょう。右の手がすることを左の手に知らせない。これは、人からの評価だけではなくて、自分の評価からも自由でありなさいということなのです。
5.隠れたことを見ておられる父による報い
イエス様がここで教えてくださっているのは、人にどう見られるかということから自由になる道です。そして、自分を評価するということからも自由になる道です。それは、ここでイエス様が繰り返しておられる、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」という言葉に示されています。「隠れたことを見ておられる」とは、人には分からないところ、更に言えば、自分も気付いていないところも含んでいるでしょう。周りの人も自分自身さえも気付いていない本当の私を、正しく見ておられる方がいるということです。そして、その方は私共の父である。つまり、私共を我が子として愛しておられる方だということです。ここに、周りの評価と自己評価のギャップのストレスから解放される道が開かれていくのです。この神様の絶対評価、独り子を十字架に架けてまで私との交わりを求め給う徹底した愛のまなざし、その中に生きる者となったのがキリスト者なのです。
最後に「報い」ということでありますが、周りの人が私共に与える報いとは「立派だね。」「大したもんだね。」といった賞賛でしょう。しかし、神様が与えてくださる報いは、私共を完全に正しく評価し、その上で徹底的に愛してくださるだけではなくて、この地上の命を超えた永遠の命、復活の命をも与えてくださるということです。ここに至って、私共のこの地上の生涯は、人にどう見られるかというような次元をはるかに超えて、天の御国に向かっての歩みであるということになるのです。そしてそれは、私共がどんな時にも失うことのない、愛の交わりを与えられるということでもあるのです。
周りの人との関係は移ろいやすいものです。最近は、SNSと言うのでしょうか、スマートフォンで繋がった人たちの間で、自分のことが勝手に評価され、身に覚えのないことで中傷されることもあるようです。しかし、そんな人間の関係というものは、実にはかないものでしょう。そんないい加減な関係でなくても、例えば親子や兄弟や親友でも、やがては別れなければなりません。それは本当に辛いことです。しかし、そうなっても失われることのない愛の交わりがある。それが父なる神様との愛の交わりです。私共がどんな境遇になっても、たとえ皆が私のそばから離れていったとしても、決して私から離れず、愛してくださり、天の御国へと導いてくださる。それが私共の父なる神様なのです。
6.父なる神様との交わりとしての祈り
この神様との交わりは、一対一のものです。イエス様は6節で「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と言われました。教会ではこれを「密室の祈り」と呼んで来ました。私共の信仰の歩みが力強く、いよいよ確かなものとされるためには、この密室の祈りが確保されなければなりません。「私は人前で祈ったりしないから大丈夫。」ではないのです。そうではなくて、この密室の祈りを確保しているかということです。私共は主の日にここに集って共に祈ります。主の日の礼拝は公の祈りです。これは大切です。言うまでもありません。しかし、公の祈りは、密室の祈りへと繋がっていかなければ力を発揮しないのです。御言葉を聞いた。聖書が分かった。そこにとどまってはいけません。それを携えて密室に行くのです。そんなことを言われても、自分の部屋などないという人もいるでしょう。だったら寝室でも車の中でも風呂場でも良いのです。静かに主のまなざしを受けて祈るのです。この祈りの習慣は、必ず私共を祈りの戦士として立ち上がらせてくれることでしょう。いつの時代でも、どの教会でも、最も必要とされているのは、この祈りの戦士なのです。神様の救いの御業の戦いに、祈りをもって参加する者のことです。私共はそのような者としてここに召し出されているのです。
ただ今より私共は聖餐に与ります。この聖餐によって私共は、神様が私共をどれほど愛してくださっているかを改めて心と体に刻みます。神様との間に与えられている交わりがどんなに確かなものであるかを知らされるのです。そして、その確かさを手に、密室へ赴くようにと促されるのです。どうか今日からでも密室の祈りを確保することが出来るよう、いよいよ神様との親しい交わりの中に生きる者とされてまいりましょう。
[2017年2月5日]
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