1.はじめに
今朝私共に与えられております御言葉は、イエス様が律法について、神様の本当の御心はこういうことなのだと教えられた六つの教え、5章21節から始まる一連の教えの、終わりの二つの所です。律法は、神様を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つから理解され、受け取られなければならないと、イエス様はここで教えられていることを見てまいりました。その結論と申しますか、頂点と申しますか、それが今朝与えられております御言葉に示されていると言って良いでしょう。それは、44節「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」です。これは強烈な言葉です。言葉としては分かるけれど実現不可能、全くの理想、これが出来る人などいるのか、そう思ってしまうイエス様の言葉です。しかし、キリストの教会は二千年の間、この言葉をイエス様の御命令として大切にしてきました。とても出来そうにないことだから忘れてしまおう、そのようには歩んでこなかったのです。それは今も同じです。私共も今朝、この言葉をイエス様の言葉、神様の言葉として聞き、受け取ることを求められています。
2.目には目を、歯には歯を
順に見てまいります。
38節「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」とあります。「目には目を、歯には歯を」という言葉はよく知られた言葉ですが、これはレビ記24章19〜20節に記されている「人に傷害を加えた者は、それと同一の障害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」を指していると考えられます。しかし、その起源は、イエス様の時代よりさらに二千年ほど前の古代バビロニア王国のハムラビ法典に遡ります。「目には目を、歯には歯を」という言葉は、日本では「やられたらやり返せ」というようなニュアンスで受け取られているところがありますが、本来はそういう意味ではありません。「目には目を、歯には歯を」というのは、目をやられたなら目、歯をやられたなら歯、それ以上の報復をしてはならない、という法律です。これを同害報復法、同害同刑法と言います。ハムラビ法典で定められたこの考え方は、イエス様の時代まで二千年もの間ずっと続いていたわけですから、単にユダヤの人々の間だけではなくて、広く世界の常識となっていたと言って良いと思います。現代の日本では文字通りに「目には目を、歯には歯を」という刑罰を受けるわけではありませんけれど、基本的な考え方としては現代にまで通じるものだと思います。社会の法としてはそういうことでしょう。
しかし、イエス様がここで言われているのは、社会の法としての「目には目を」ではないのです。私共の生き方、隣り人との関係について言われている。もっと言えば、イエス様がここで告げられているのは、この世の秩序のことではなくて、神の国の秩序のことなのです。イエス様は、「神の国が始まった。神の国はそこまで来ている。その神の国においては、神の国に生きる者は、このように歩むのだ。」そう告げられたのです。あなたがたは神の国に生きるのだから、このようにしなさいと言われた。そして、「この世界は神の国の完成へと向かっているのだ。そのためにわたしは来た。」そうイエス様は告げられたのです。
3.右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい
39節「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」とあります。細かいことですが、「右の頬を打つなら」とありますが、普通私共が相手の頬を打つのは右手で打ちますから、左の頬を打つことになります。ところがイエス様はここで「右の頬を打つなら」と言われました。これは、イエス様が言い間違いをしているのではありません。そうではなくて、ここでイエス様が言われているのは、右の手の甲でもって相手の頬を打つということです。当時、手の甲で頬を打つのは、相手に対しての侮辱を意味していました。つまり、ここでイエス様が言われているのは、喧嘩の時にどうするかという話ではなくて、人に馬鹿にされ侮辱されてもやり返すな、ということなのです。しかし、そうなると、いよいよ難しいと思わされますね。
私は、この39節の言葉に忘れられない思い出があります。私が20歳で洗礼を受けた時のことです。父がこの言葉を使って、私にこう告げたのです。父は教会には行ったことがない人でしたが、この言葉は知っていました。そして、「『右の頬を打たれたら、左の頬も出せ』そんな甘いことを言っていて、世の中生きていけると思っているのか。一発殴られたら三発殴り返すくらいの気持ちがなくてどうする。世の中そんなに甘いものではないぞ。そんな理想的な事ばっかり言っていては、生きていけん。」そう言ったのです。残念ながら、その時私は父に言い返す言葉を持っていませんでした。
「右の頬を打たれたら、左の頬も出せ。」これは、「そんな甘いことではこの世は生きていけない。」と言われるほどに理想的なことなのでしょうか。イエス様が説かれた愛は、理想を語っているだけで、この世を生きていく上では何の力にもならないものなのでしょうか。私はそうは思いません。もしそうであるならば、キリスト教会はとっくの昔にこの世界から無くなっていたでしょう。しかし、そうはならなかった。それどころか、辺境の地ガリラヤから始まったイエス様の言葉は、全世界に広まっていったのです。それは、このイエス様の言葉には力があったからです。その力とは、人間を変え、世界を変えていく力です。そして、その力の源こそ、愛なのです。右の頬を打たれるということは、その人との関係が最悪の状態、敵対関係になったということでしょう。その敵対関係を打ち破るのは、和解へと至るのは、赦しであり、愛なのだ、とイエス様は告げられたのです。
相手が自分を侮辱しようと、馬鹿にしようと、赦し、愛するのだと告げられた。そりゃ、腹が立ちますよ。右の頬を打たれたら、殴り返したいですよ。いや、もっと徹底的に、相手が立ち上がれないくらいの目に遭わせたいですよ。それが私共です。しかし、イエス様はダメだと言われる。何故なら、それでは敵対関係は全く解決されないからです。解決されないどころか、報復は報復を呼び、憎しみの連鎖は途切れることなく続いていく。その憎しみの連鎖を断ち切るのは、赦しであり、愛なのです。憎しみに対して憎しみで応酬するのではなく、愛をもって応えよ。そうイエス様は言われたのです。その道に私共を招くためにイエス様は来られたのです。
4.敵を愛せ
だから、44節の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」へとつながっていくのです。敵を愛する。何と不可能なことかと思います。相手は自分を侮辱し、迫害する人です。どうしてそんな相手を愛せましょう。
当時ユダヤの人々は、自分たちだけが救われ、異邦人や律法を守らない人は滅びると考えておりました。彼らは汚れているので、一緒に食事もしませんでした。ユダヤの人々にとっての隣人とは、律法を正しく守る同じユダヤ人であり、それ以外の人はつまりは敵だったのです。自分の仲間、自分と同じ考えの人、自分に良くしてくれる人、それが隣人であって、それ以外の人は隣人ではない。そう考えていたのです。しかし、この思考パターンと申しますか、内と外、仲間と敵、この分類は、いつの間にか誰もがしていることでしょう。日本人と外人、白人とアジア人、同じ会社の人とそれ以外の人、男と女、健常者と障害者等々、線引きは無限にある。民族・国家・人種・文化・経済、あらゆる所で分断がある。そして、そこに対立と差別が生まれる。宗教も例外ではありません。宗教も一つの線引きに使われています。そのようにして、この世界は幾重にも分断され、対立している。私共自身、幾重にも線を引き、幾重にも対立する関係を作り出し、その中で生きているわけです。
では、隣人とは誰でしょうか。自分の仲間、家族、友人、その辺りに限定したくなる。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、そのように限定したのです。そうでなければ、隣人を愛することなど出来るはずがないと考えたからです。自分の身が持たないのです。まことに現実的です。確かにそれが私共の限界です。しかし、イエス様はここで「敵を愛せ」と言われる。それは、私共が敵と考えている人も隣人なのだ。赦し、愛さなければならない相手なのだということです。敵もまた隣人なのです。
これを最も良く表しているイエス様のたとえ話は、ルカによる福音書10章25節以下にある「善きサマリア人のたとえ」です。律法学者がイエス様に「わたしの隣人とはだれですか。」と問うたのに対し、イエス様は善きサマリア人のたとえ話をされました。追いはぎに襲われて道に倒れていた人の横を、祭司が、レビ人が、通り過ぎた。しかし、その後に通りかかったサマリア人はその人を介抱する。サマリア人というのは、当時ユダヤにおいて侮蔑されていた人々であり、ユダヤ人と敵対関係にあった人々です。イエス様は敢えてサマリア人を登場させ、最後に、「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問われた。介抱したサマリア人に決まっています。そしてイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われた。だれが自分の隣人なのか、ではなく、だれが隣人になったか、と言われた。それは、私共が隣人となるのだ、そうイエス様は言われたということです。
5.天の父なる神様の子として
この人は自分の隣人か敵か、それを決めるのは私です。私の中にある敵意が、敵を作るのでしょう。線引きをしているのは私です。イエス様は、その線引きを止めよと言われたのです。敵をも隣り人として愛せと言われた。
根拠は一つ。45節「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」神様は線引きをされない。神様の愛は、善き人を愛し、悪しき人を敵とするというようなものではありません。もし神様の愛がそのようなものであるならば、だれが神様に愛されるでしょうか。私共が線引きをする時、必ず自分は正しい方にいます。そして、線の向こうの人は悪い人になる。しかし、本当に私は正しいのでしょうか。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」このイエス様の厳しい言葉の前で、自らの正しさを主張出来る人などいないでしょう。でも愛された。神様は善人と悪人の線引きさえされないからです。そもそも、線引きし分断するようなことをしていては、神の国に生きることは出来ないのです。神様の愛が支配する国、それが神の国だからです。神の国に生きるとは、この神様の愛の御支配の中に生きるということです。神様は、善人にも悪人にも同じように太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。神様は、善人も悪人も、区別することなく愛してくださっているからです。だからイエス様が来られた、だからイエス様が十字架にお架かりになったのでしょう。この神様の愛に生きる。それが、神の国に生きるということです。これは、とても単純に神の国・天国の姿を指しています。天国に、ここからは黒人の天国、そっちは白人の天国。こっちは日本人の天国、あっちは中国人の天国。そんなものがあるはずがないでしょう。だからあなたがたもこの神の愛に生かされた者として、神の国に生きる者として、敵を愛しなさい。そう告げられたのです。
6.イエス様の言葉
ここまで言ってもなお、「そうは言われても。」「やっぱり無理。」「右の頬を打たれたら左の頬を出すなんて出来ない。」「敵を愛すなんて出来ない。」そういう思いを持たれるかもしれない。正直な思いでしょう。しかしイエス様は、私共がこの言葉通りに生きられない、それは百も承知なのです。
良いですか皆さん。イエス様は、ただの理想主義者、絵に描いた餅の話をする方ではないのです。ただ言葉で語られるだけで、その語られた言葉に対して責任を取らない様なお方でもありません。侮辱され、馬鹿にされ、鞭打たれ、最後には十字架にお架かりになってもなお、御自分を十字架に架けた者のために祈られたのは誰でしょう。イエス様でしょう。あの善きサマリア人のたとえの中でのサマリア人、それはイエス様でしょう。そのイエス様が言われているのです。聖書は何度も繰り返してこう告げます。39節「しかし、わたしは言っておく。」、44節「しかし、わたしは言っておく。」イエス様が言われたのです。私のために、私に代わって十字架にお架かりになった方が告げられたのです。十字架の上から語られているのです。「わたしに従いなさい。行って、あなたも同じようにしなさい。あなたの敵を愛しなさい。あなたの敵を隣人としなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
7.マーティン・ルーサー・キング牧師
このイエス様の言葉に本気で従った、忘れることの出来ない大勢の人がいます。その中の一人の名前を挙げましょう。それはマーティン・ルーサー・キング牧師です。1960年代のアメリカ合衆国の公民権運動、黒人解放運動の指導者として有名な人です。日本ではあまりその点について注目されていないようですが、彼は牧師でした。彼の父も牧師でした。彼は、このイエス様の言葉に従ったのです。非暴力主義を貫き、人種差別撤廃運動を行いました。今、彼の歩みについてお話しする時間はありません。彼は39歳の若さで、ライフル銃で狙撃されて死にました。しかし、50年後、黒人のオバマ大統領が誕生しました。イエス様のこの言葉がキング牧師を動かし、アメリカを変えたのです。もちろん、この世界が神の国になったわけではないし、アメリカの社会の中に人種差別は今も色濃く残っているでしょう。しかし、この世界が神の国に向かっていかなければならないこと、向かっていけること、そしてこの言葉には力があることを、この出来事は私共に示しています。
マーティン・ルーサー・キング牧師の説教集『汝の敵を愛せよ』の中に収められている『非暴力への遍歴』という自伝的なエッセーの中で、彼はこう言っています。「今日このごろのわたしにとって、神は痛切にリアルであり給う。外面の危険にさらされながら、わたしは内面的な平静さを感じてきた。孤独な日々や恐ろしい夜々にも、わたしは『さあ、わたしがお前と共にいてあげよう』という内なる声を聞いてきた。恐怖の鎖と挫折の手枷がわたしの努力をほとんど妨害しそうになる時にも、わたしは神の力が、絶望の労苦を希望の回復力に変えてしまうのを感じてきた。」
イエス様の言葉に従って生きる者は皆、神様がまさに生きて働き給うお方であることを、主が本当に共におられ、道を開いていってくださることを、いよいよ知ることになるのです。
8.神の国への一歩
イエス様がお語りになることは、いつも常識を超えています。それは、イエス様はこの世の常識の中にはおられないし、この世の常識を超えて、私共を神の国へと導こうとされているからなのです。イエス様がお語りになったことは、処世術なんかではなくて、神の国のあり様、神の国に生きる私共の姿です。イエス様の言葉は単なる理想主義者の言葉ではなく、この世界を造り、御支配されているただ独りの神様の言葉なのです。ですから、この言葉は現実的であり、私共を造り変え、世界を変える力があるのです。
私共がこのイエス様の言葉に従って、自分の心の中にある敵意を一つでも消すことが出来れば、私共の中にある線引きを一つでも減らすことが出来れば、私共は神の国に生きる者としての一歩を、神の国に向かっての確かな一歩を歩むことになるのです。
洗礼を受けた時に父に何も言い返せなかった私ですが、今ならこう言えると思います。「お父さん。理想を失った世界で上手くやっていくことよりも、私は理想を持った者として、イエス様の言葉に従って、この世界で生きていきたい。それが最も現実的で、力ある歩みとなるものだから。安心してください。私はこの世の力に潰されたりはしません。世界の主であるイエス様が共にいてくださるのですから。」父もきっと分かってくれると思います。もっとも、私の父はもう20年も前に亡くなってしまったのですが。
十字架にお架かりなられたイエス様は、私共を新しい神の国に生きる者としての歩みへと促されます。そして、聖霊を注いでくださって、その歩みを支えてくださいます。ですから、私共はイエス様の御力を信じて、安んじて、敵をも愛する歩みへと一歩を踏み出して参りたいと願うのです。
[2017年1月22日]
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