富山鹿島町教会

礼拝説教

「和解を求めて」
創世記 32章23〜33節
マタイによる福音書 5章21〜26節

小堀 康彦牧師

1.神様の御心としての和解
 神様が私共に与えようとされていること、そして私共に求めておられること。それは和解です。神と人との和解、人と人との和解です。神と人とが、人と人とが、敵対関係にある。それが罪の状態です。その罪の状態から私共を救うこと。それが神様の御心なのです。そして、この罪の状態から救われるということが和解するということなのです。
 私共は神様と和解しなければなりませんし、人とも和解しなければならない。しかし、これが難しい。人と人との関係において、ひとたび関係がこじれてしまいますと、どうやって和解へつなげていくか、それはほとんど不可能のように思えてしまいますし、いっそのこと関係を切ってしまった方がいいのではないかと思うことさえある。面倒くさいのです。本当に面倒くさい。考えることさえ嫌になるほどです。それは国と国、民族と民族との関係においても同じです。今、日本と近隣の国々との関係が難しくなっています。その根っこの所に、先の戦争があることは間違いありません。私共はそれらの国々と今は戦争をしているわけではありません。しかし、本当に和解が出来ているかと言えば、そうは言えないでしょう。だから、ひょんなことですぐにぎくしゃくしてしまう。隣の国同士なのですから、互いに支え合って、仲良くしていきたいと思う。お互いに思っているのでしょう。しかし、これが本当に難しい。途方に暮れるほどです。
 そのような私共に今朝与えられております御言葉は、「和解しなさい。」というイエス様の言葉です。和解、そして和解によって与えられる平和。これこそ、聖書全体が私共に告げている神様の御心です。私共を和解へと平和へと導く、それが神様の御心なのです。

2.ヤコブとエサウ、ヨセフと兄弟たち
 先程、創世記32章23節以下をお読みいたしました。この個所は、ヤコブが神様から命じられて故郷に帰る途中の場面です。しかし、故郷には兄エサウがいます。かつてヤコブは、双子の兄であるエサウをだますようにして、エサウのものだった長子の特権も父イサクの祝福も手に入れてしまいました。当然エサウは怒りました。その結果、ヤコブは家にいることが出来なくなって、母リベカの実家のある、ヤコブの家からは500km以上離れたハランへと逃げました。その地でヤコブは妻をめとり、多くの財産も手に入れ、そして何十年ぶりに故郷に戻ることになったのです。そして、遂に明日は兄エサウと会うという段になって、ヤコブは恐れました。兄エサウは自分を許してくれるだろうか。兄エサウと和解することが出来るだろうか。
 ヤコブは周到な準備をしました。兄への贈り物として、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭を選び、それを群れごとに分けて自分より先に行かせます。遊牧民にとって家畜こそが財産です。これは贈り物の常識を越えた、莫大な財産です。ヤコブはさらに、その群れごとに召し使いを行かせ、兄エサウに「これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります。」と言わせることにしました。これは言うなれば贈り物作戦です。これだけの贈り物をした上で兄エサウと会えば、きっと自分を快く迎えてくれるだろう。そうヤコブは思ったわけです。この贈り物作戦というようなことは、誰でも思い付く類いのものでしょう。でも、この贈り物によってエサウはヤコブと和解した、とは聖書は言っていないのです。
 ヤコブはたくさんの贈り物を用意しました。しかし、不安だった。恐ろしかった。そこでヤコブは何をしたか。エサウと再会する前の日の夜、「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」と25節にあります。この「何者か」とは、神様と考えて良いでしょう。そしてこの「何者か」との格闘とは、「祈りの格闘」であったと考えられてきました。それは27節で、ヤコブが「祝福してくださるまでは離しません。」と言っているからです。ヤコブは神様から祝福を受けるまで、祈りに祈った。それは「格闘」と言うほどに激しいものでした。そして、神様はヤコブを祝福します。そしてこの時、ヤコブは神様から「イスラエル」という名をもらったのです。
 ヤコブは神様の祝福を受け、それからエサウと再会したのです。33章4節「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」と聖書はヤコブとエサウの再会の様子を記します。ここで、エサウの姿から何か思い起こさないでしょうか。あの放蕩息子を迎える父の姿です。エサウとヤコブは和解したのです、神様と格闘するほどに兄エサウとの和解を求めたヤコブ。神様はそれを良しとされ、祝福されたのです。実に、神様の祝福によって与えられるものこそ、兄弟との和解だったのです。そして、この和解を与えることこそ、神様の御心だったのです。
 また、創世記は、ヤコブの息子ヨセフと兄弟たちとの和解についても告げます。ヤコブの息子ヨセフは、ヤコブに溺愛されます。それを妬んだ兄弟たちは、ヨセフを奴隷としてエジプトに売ってしまうのです。何ということかと思います。今、ヨセフ物語を語る時間はありませんけれど、ヨセフと兄弟の間にも、何十年も経った後に和解が与えられます。そして、イスラエルはエジプトに移り住むことになり、次の出エジプトへとつながっていくわけです。
 ヤコブとエサウも、ヨセフと兄弟たちも、家族の中で敵対しますが和解へと導かれます。聖書は、この兄弟同士の敵対という状況、それが私共の罪の現実ではないかと告げると同時に、それは和解へと至るのだ、それが神様の備えている歴史、神様の御手の中にある将来なのだと告げているのでしょう。神様の御支配のもとにある世界の歴史、私共の人生、それは和解へと導かれていく。そのことを信じて良いのです。

3.文脈から
 さてイエス様は、先週与えられました5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と告げ、20節では「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と告げられました。イエス様による律法の完成、そして律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは何か、そのことを具体的に示すために、今朝与えられております21節以下で「殺すな」、また27節「姦淫するな」、31節「離縁するな」、33節「誓うな」、38節「復讐するな」と律法の言葉を引いて、それが本当はどういう意味なのか、神様の御心はどこにあるのか、そのことを明らかにし、だからどうすることが律法を完成し、義を立てることになるのかを示されたのです。

4.殺すな
 21〜22節「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」ここでイエス様は実に驚くべき言葉を語られました。「殺すな」これは十戒の第六の戒です。律法学者もファリサイ派の人々も、これを文字通りに受け取り、殺さなければ良いと理解しておりました。自分は殺してはいない。この律法を守っている。だから、自分は正しい。そう考えていた。ところがイエス様は、神様がこの十戒の第六の戒で告げていることは、神様がこの第六の戒めにおいて私共に求めておられることは、そんなことではないのだと言われたのです。ただ殺さなければ良いということではなくて、「兄弟に腹を立てる」だけでこの律法の告げていることを破っているのだ。兄弟に向かって「ばか」と言うだけで、「愚か者」と言うだけで、裁かれるのだ。そう言われたのです。
 殺さなければ良いという所に立てば、誰もが「自分はこの律法を守っている」と言えるでしょう。しかし、兄弟に腹を立てるだけで、ばか者、愚か者と言うだけでダメなのだとすれば、この律法を全うしていると言える人はいなくなります。ここで、だったらもう「ばか」とか「愚か者」と言わなければ良いのだ、これからは「アホ」と言おう。そんなことではないのです。イエス様はここで、実際に殺すという犯罪に至ったかどうかではなくて、それ以前の心の動きさえも神様は見ておられるのだと言われたのです。ここでイエス様が問題にしているのは、「殺すな」という、誰もが「守っている」と思っている律法さえも、実は守れていないではないか。あなたがたは、実際に殺人はしていないけれども、兄弟に腹を立て、或いは馬鹿にし、見下していないか。それが罪なのだ。律法は、そのことを私共に示すために神様が与えられたのだと言われたのです。
 最高法院というのは、当時のユダヤの最高裁判所と考えて良いでしょう。実際には、兄弟に対して「ばか」と言って最高法院に引き渡されるようなことはないわけです。ですから、この裁きは神様によって為される裁きを指しているのです。イエス様がここで言われたのは、「ばか」とか「愚か者」と言うことは、それくらい重い罪なのですよということです。でも、誰でもこのくらいのことを平気で言っているでしょう。ちなみに、この「ばか」とか「愚か者」と訳されている言葉は、その人の存在そのものを否定する様なきつい言葉です。イエス様はここで、誰もが守っていると考えている「殺すな」という戒めでさえ、神様の御前に「自分は律法を完全に守っています。正しい人です。」そんなことを言える人は一人もいないのだということを示されたのです。イエス様はここで、人と人との関係において敵対状態にある私共の姿、神様との関係においても裁きを受けなければならない私共の姿を示してくださったのです。

5.本当に難しい和解
 だったら、どうしたら良いのか。23〜26節「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」兄弟と仲直りしなさい。和解しなさい。そう言われたのです。これが、殺さなければ良いと考えていた律法学者やファリサイ派の人々に勝る義です。イエス様は、「殺さなければ良い」のではなくて、「和解しなさい」と告げられました。殺さない、○○しない、ではなくて、和解しなさい、○○しなさい、と告げられたのです。私共は、殺さなければ良いのではなくて、そこから一歩も二歩も進んで和解をする、そのような歩みへと召されているということです。
 しかし、和解というのは本当に難しいです。関係がこじれてしまいますと、お互いに一歩が踏み出せない。向こうから赦して欲しいと行ってくれば赦してやっても良いが、何で悪くもない自分の方から赦しを求める必要があるのか、そんな理不尽なことなど絶対に出来ない、そう思う。誰もがそう思うのでしょう。これは子どもから大人・年寄りまで同じです。幼稚園の子どもだって、ケンカしている子どもに「ごめんなさい、って言いなさい。仲直りしなさい。」って言えば、「だって〇〇ちゃんがぼくのおもちゃを取ったんだ。」「先にぼくを叩いたんだ。」悪いのは相手の方だ。ぼくは悪くない。そう言うのです。こじれた関係というのは、どっちかが一方的に悪いということはあまりないのだと思います。「ばか」と言ったのは、見下したのは、傷付けたのは、どっちが先か。大抵、双方の言い分は正反対です。そして自分は悪くないと思っている。だから、歩み寄れない。これが私共の現実でしょう。

6.イエス様の言葉としての「和解しなさい」
 ここで私共は、この「和解しなさい」と告げられたのはイエス様であること、イエス様の言葉であることをよく考えなければなりません。イエス様は単に私共の罪の状態を暴いて見せただけで、出来そうもない和解を私共に求められたということなのでしょうか。そうではないのです。イエス様は、神様の御心も知らず、それ故自分は正しいと思い上がり、神様によって裁かれるべきことを平気でしている私共のために、私共が神様と和解することが出来るように、私共のために、私共に代わって十字架にお架りになりました。そのイエス様が、私共に「和解しなさい」と告げられるのです。私共は思います。「どうして私の方から仲直りしようと言い出さなければならないのですか。私は悪くないのです。悪いのは向こうの方なのです。」そのような私共に向かって、イエス様は言われます。「わたしが悪かったから、わたしが罪を犯したから、わたしは十字架に架けられたのか。あなたが自らの罪を知り、神様に赦しを求めたから、わたしは十字架についたのか。そうではあるまい。何の罪もない神様が、あなたと和解したいと願って、わたしを遣わされた。そして、わたしは十字架についた。あなたが悔い改める前に、わたしは十字架について、あなたと神様との和解の道を備えた。だから、あなたも行ってそのようにしなさい。」和解は成る。必ず成る。それが神様の御心だからです。
 先程お話ししました、ヤコブとエサウの出来事、ヨセフとその兄弟たちの出来事は、そのことを私共にはっきりしめしております。私共の常識で言えば、ヤコブとエサウ、ヨセフとその兄弟たちの関係は破綻しており、修復不能です。しかし、そうではなかった。神様が和解を求められたからです。この御心の御支配の中に世界の歴史はあり、私共の人生もあるのです。

7.罪の赦しを与える神様を礼拝する者として
 神様との和解は、人との和解へとつながっています。この二つは分けることが出来ません。イエス様は、23〜24節において、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」と言われました。祭壇に供え物を献げるとは、現代の私共の言葉に言い換えるならば、「礼拝する」ということです。ここには、神様を礼拝する者としてのあり方が示されていると言って良いでしょう。イエス様は、神様を礼拝し神様との和解に生きる者は、兄弟との和解へと一歩を踏み出す者だ、と言われているのです。神様を礼拝して神様との和解の恵みの中に生きながら、兄弟との和解をしないのでは、イエス様の言葉を聞かず、イエス様の十字架を無駄にしてしまうことになってしまうのです。
 こう言っても良いでしょう。イエス様の十字架による神様との和解に生きるようになった者は、イエス様が与えてくださった「主の祈り」と共に生きるようになります。「主の祈り」の中で、私共は「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。」と祈るよう教えられている。この祈りは、「私の罪を赦してください。その条件として、私に罪を犯す者を私は赦します。」と祈っているのではないのです。この「主の祈り」は、既にイエス様の十字架によって罪を赦していただいた者が、その恵みの中にとどまり、その恵みの中を生きていくために祈る祈りです。それはこの祈りが、神様に向かって「天にまします我らの父よ」と呼ぶことから始まっていることからも明らかです。神様の赦しに与ることなく、とうして神様に対して「父よ」と呼ぶことが出来ましょう。この祈りを祈る人は、既に神様に赦されているのです。神様との和解の中に生きているのです。その赦された者が、「私は自分に罪を犯す者を赦します。兄弟との和解への道を歩みます。イエス様の十字架を無駄にしません。ですから、私をあなた様との和解の恵みの中に置き続けてください。」と祈る。神様との和解と兄弟との和解は、この祈りの中で一つに結び合わされている。私共はこの祈りと共に、この祈りに導かれて歩む者とされています。ですから、私共は諦めることなく、和解へと歩み出し続けていくのです。私共が神様と人と和解することが出来るようにと、私のために十字架にお架かりくださったイエス様を知っているからです。イエス様が与えてくださった救いに与っているからです。それが礼拝者としての姿だからです。

[2017年1月8日]

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