富山鹿島町教会

元旦礼拝説教

「変わることなき神の言葉」
申命記 4章1〜4節
マタイによる福音書 5章17〜20節

小堀 康彦牧師

1.元旦を迎えて
 2017年の元旦を迎えました。今日は日本中どこに行っても初詣の人だらけです。護国神社への初詣の人の車で、教会の周りも車で一杯です。皆さんも車を停めるのに苦労されたのではないかと思います。私共は先週クリスマス記念礼拝をささげ、そして今朝は元旦礼拝として主の日の礼拝をささげています。周りの人や近所の人が皆、初詣に行く中、その人々の流れに抗う様にして、私共はここに集い礼拝をささげている。毎年この時期、私共は改めて自分はキリスト者なのだと思わされるわけです。
 初詣において、人々は今年の無事を、目に見える幸を祈り願うのでしょう。私共も同じように、2017年の歩みが主の御心に適ったものとなるように、主の恵みと祝福の中を歩めるように、祈り願います。しかし、そのためだけにここに集ってきたのではありません。私共は御言葉を受けるために、今ここに集っているわけです。それは、2017年を歩んでいくに当たって、私共の願いや思い以上に大切なものがあるということを知っているからです。それは神の言葉です。神の言葉を受け、神の言葉に従い、神の言葉と共に新しい2017年の歩みを始める。そのことこそ、最も神様の御心にかなうことであり、最も確かな歩みへと導くものであるからです。
そのような私共に今朝与えられておりますのは、マタイによる福音書5章17節の、イエス様が告げられた御言葉です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

2.地の塩・世の光として
 さて、私共はマタイによる福音書から順に御言葉を受けているわけですが、前回マタイによる福音書から受けた御言葉は、この直前にあるイエス様の言葉、「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」でありました。まことの塩・まことの光であるイエス様と一つにされ、イエス様が私共の中に宿ってくださり、地の塩・世の光とされている私共です。私共が良い人だから、地の塩・世の光だと言われているのではありません。まことに小さな、愚かな、罪人でしかない私共をイエス様は祝福してくださって、私共と一つになってくださる。その恵みの中で私共に告げてくださった、この「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」という宣言こそ、神様の御前における新しい私共の姿を示しています。神様から見て私共は何者なのか、どのような者として私共を新しくしてくださったのかを示しているのです。大切なことは、私共が自分をどのように見ているかということでもなければ、周りの人の評価がどうかということでもありません。神様が私共をどのように見てくださっているかということです。そして、神様は私共を「地の塩・世の光」と見てくださっているということなのです。
 そこでイエス様は「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(16節)と告げられました。「あなたがたの光」「あなたがたの立派な行い」とはどういうことなのか。イエス様の時代のユダヤにおいて「立派な行い」と言えば、旧約の律法をどう守っているか、そのことを指します。ですから、この「立派な行い」という言葉を聞いた人々はこれを、律法を完全に守ること、そのように受け取ったでしょう。しかし、イエス様はそのような意味で言われたのではありません。ですから、イエス様は今朝与えられております御言葉において、旧約の言葉と自分がどういう関係にあるのか、律法とは何なのか、そのことをお語りになったのです。そして、続く21節以下で、具体的にこの律法はこのような意味なのだと教えられているわけです。

3.律法や預言者
 ここでイエス様は「律法や預言者」と言っておられますが、これは現在の私共の言葉で言えば旧約聖書ということです。当時のユダヤ教においては、ユダヤ教においては現在もそうですけれど、「旧約聖書」という言い方はありません。旧約というのは、イエス様によって新しい契約、新約が与えられたから出来た言い方です。そもそも、聖書が一冊の書になったのは随分後です。旧約聖書は39巻の巻物でした。ではどういう言い方をしていたかと言いますと、旧約聖書の中身を並べた形で言い表しておりました。どのような中身かといいますと、まず「律法」(トーラー)。これは創世記から申命記までの五書で、モーセ五書という言い方もします。そして「預言者」(ネイビーム)。ちなみに、ヨシュア記から列王記上・下までの現在では歴史書として扱われている所は「前の預言者」、イザヤ書からマラキ書を「後の預言者」と言いました。そして最後に「諸書」(ケスビーム)。詩編とかヨブ記とか、律法と預言者以外のものです。この代表が詩編です。この旧約聖書に収められている書の中身を並べて、「律法と預言者」や「律法と預言と詩」という言い方で、旧約全体を指したのです。トーラー、ネイビーム、ケスビームの頭文字をとって、TNK(タナク)と呼ばれたりもします。そして、その中で中心にあるのは、最も重要であると考えられていたのは律法です。律法が預言者や諸書の前提、基礎だからです。

4.律法を完成するために
 イエス様は、旧約を廃止するために来たのではなく、完成するために来たのだと言われました。これはとても大切です。と言いますのは、キリスト教の歴史の中でしばしば、「イエス様が来たからもう旧約なんて要らない。」と言う人が現れたからです。でも、旧約を捨ててしまいますと、イエス様が誰なのか、イエス様の十字架とは何なのか、全く分からなくなってしまいます。そしてもっと深刻なのは、神様は御心を変える方だということになってしまうことです。「神様は、昔は旧約の言葉で御心を示されたけれど、イエス様が来られたからもう旧約は要らない。旧約はもう古い。神様の御心を示していない。」そんなことになれば、神様も時代と共に変わるのだ、ということになってしまうでしょう。
 これは大問題です。時代と共に変わってしまうような神様を私共は信じられるでしょうか。時代が変わっても、国や民族や文化が変わっても、変わることなき神様の御心。そうでなければ、私共はどうして神様を信頼出来るでしょうか。また、私共は聖書をどのように読めば良いのでしょうか。「旧約が書かれた時代からイエス様の時代まで」よりも、「新約が記された時代から現在まで」の方が、長い時を経ています。ですから、神様はあの時はイエス様によって救われると言われたけれど、今は御心が変わった、ということにもなりかねません。そうすると、「イエス様はこう言われたけれど、神から遣わされた私、神である私はこう言う。」などと言い出すデタラメな教祖も現れてくるでしょう。そんなキリスト教系の新興宗教もあるのです。勿論、はっきり言いますが、そんなところに救いはありません。
 イエス様がここで言われたのは、「神様の御心は少しも変わらない。旧約においては律法によっては完成されなかった神様の御心、それを完成するためにわたしは来た。」ということです。18節「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」も、そういう意味です。神様の御心は、神様の言葉は、「天地が消えうせるまで」、つまり終末まで、一点一画も消え去ることはない。変わることはないということなのです。
 では、律法によっては完成することのなかった神様の御心とは何でしょうか。それは、私共の救いです。罪人の救いです。神様は十戒に代表される律法を与え、その律法を守ることによって救うという、神様との交わりの中に生きる道を示してくださいました。その律法は神様の言葉、御心を示すものでしたから、不十分なものだったわけではありません。だから、神様の御心を完成出来なかったのは、この律法を完全に行うことが出来なかった人間の側に責任があります。人は神の与えた律法を完全に守ることが出来なかった。それ故、救いに与ることが出来なくなってしまっていたということです。しかし、神様の変わらぬ御心は「罪人を救う」ということであり、イエス様はその御心を実現する為に来られたということなのです。
 このように考えても良いでしょう。律法というのは、神の国へと至るための道を示すガードレールのようなもの。或いは、北陸の道路には、雪がたくさん降って道が分からなくなった時のために、これ以上はみ出すと道路がありませんよということを示すポールが道の傍らに立っている、そのポールのようなものです。ガードレールにしても、ポールにしても、これを無視してしまえば事故になるわけです。ガードレールを越えて行けば、谷底に車ごと落ちて死んでしまいます。律法とはそういうものです。目に見えるガードレールならば、わざわざそれを越えようとする人はいません。ところが、律法となると、平気でそれを乗り越えてしまう。そして、神様の救いに与れない者になってしまう。それは、律法が何を求めているのかよく分からなかったからですし、律法を解釈するその基準も分からないからでしょう。
 それはこう言っても良いかもしれません。神の律法を解釈してそれを実行する時、自分の都合を優先したり、体裁だけを整えて、形の上では見た目では守っているように見えるようにしてしまう。神様の御心に従う以上に、言葉だけ、字面だけに従うようになってしまう。例えば、学校には毎日遅刻せずに行く。皆勤賞だ。しかし、授業中はずっと眠っている。でも皆勤賞。

5.律法は心を問う
 このように、自分は完全に律法を守っていると自負し、自分は救われると確信を持っていた人たち、それが律法学者たちでありファリサイ派の人々でした。彼らは完全に律法を守っていると考えていました。しかし、本当のところはどうだったのでしょうか。イエス様は「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問われて、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書22章37〜40節)とお答えになりました。神を愛すること、隣人を愛すること、律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいていると告げられたのです。つまり、イエス様が神様の御心として示されたのは、愛なのです。何をどうしたという以上に、そこに愛があるかどうか、それが重要なのだと言われたのです。
 神様の律法は愛を問うているのだとイエス様は告げました。愛を問われる。これは本当に厳しいことです。いつでもどこでも何をする時も、神を愛するということですべてを行っているだろうか。そう問われたならば、残念ながら「そうしています。」とは言えないのが私共でしょう。隣人を愛するにしても同じことです。私は母との同居を始めて6年になるのですけれど、この介護の生活で明らかになったことは何かと言えば、私の中には本当に愛がないということです。自分でも驚くような言葉が口から出てしまう、そういうことがしょっちゅうあるのです。何と愛のない罪人かと思わされるのです。

6.神の憐れみによる義、信仰による義
 律法学者やファリサイ派の人たちは、日常の隅々まで律法に従った生活にするために、規則の上に規則を作り、それを何としても守る生活をしていました。そして、自分たちはそれを守っている自負もありました。しかし、イエス様はこう言われるのです。20節「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」ここでイエス様は、律法学者やファリサイ派の人々以上に厳しい規則をもって日々の生活をしなければ、決して天の国に入れないと言われたのでしょうか。そうではありません。律法学者やファリサイ派の人々は、自分の行いの正しさをもって義を立て、天の国に入ろうとした。入れると思っていた。しかし、イエス様は愛を問われたのです。そしてこの厳しい問いの前では、誰も天の国には入れない、そのことを明らかにされたのです。
 イエス様は律法の完成者、神様の御心の完成者、罪人を救うという神様の愛を完全に現されたお方です。それは、イエス様が十字架によって私共の一切の罪を我が身に負うというあり方で、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義、人間の行いによる義ではなく神の憐れみによる義、人間の義ではなく神の義、行いによる義ではなく信仰による義を打ち立ててくださったということです。この信仰による義こそ、何としても罪人を救わんとする神様の御心を完成させるものでした。イエス様は、御自身の十字架と復活によって、罪人をも救うという神様の御心を完成させるために来られたのです。私共は、このイエス様が与えてくださる義、信仰の義をまとって神様の御前に立ちます。神様は、罪に満ちたる私共を直接御覧になるのではなく、私共がまとっているイエス様を見てくださる。そして、私共を我が子よと呼んでくださるのです。罪に満ちたる私共が、神様の子であるはずがないのです。しかし、イエス様の十字架の故に、神様は私共を我が子としてお取り扱いくださるのです。律法をお与えになった神様の御心。それは、罪人である私共に、このガードレールの中を歩みなさい、そしてわたしのもとに来なさい、わたしと共に歩みなさいというものでした。しかし、それに十分応えることの出来ない私共です。神様はそのような私共のために、イエス様を与えてくださったのです。そして、罪人を救うという永遠の神様の御心を完成されたのです。その為に、イエス様は来られたのです。

7.律法の新しい意味
 では、律法は、旧約は、もう要らなくなったのでしょうか。そうではありません。イエス様の尊い血によって罪の縄目から解き放たれサタンの手から贖われた私共は、喜んで神様に仕え、従っていきたいと願うようになりました。神様の子とされ、神様との親しい交わりの中に生きる者とされた私共がどのように歩むのか。その歩むべき道を示しているものとして、律法は新しい意味を持つようになったのです。それを守って神様の御前に正しい者とされるためではなくて、イエス様の御業によって救われた者が、喜んで神様に従うための道を示すためのものとしての律法です。
 私共は、父・子・聖霊なる神様以外のものを神とすることはない、出来ない、したくない、そういう者にされたのです。だから私共は今朝、初詣ではなくこの礼拝へと集って来たのでしょう。ここにイエス様によって新しくされた者の姿があります。十戒の第一の戒めは「あなたがたはわたしの他に何ものをも神としてはならない。」ですけれど、これは直訳すれば「あなたがたはわたしの他に何ものをも神とはしない。」です。何故か?エジプトから数々の奇跡をもって救い出していただいたからです。だから、他の何ものをも神とはしない、出来ない、したくないのです。私共もそうです。イエス様に救われた。神様に愛された。愛されている。だから、他の何ものをも神とはしない、出来ない、したくないのです。
 実に、イエス様こそ、肉となりたる神の言葉です。永遠の神様の救いの御心を現されたお方だからです。神の言葉は決して変わることがありません。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13章8節)と言われているとおりです。律法によって示された神様の御心は、イエス様によって完成されました。そして、このイエス様が私共と一つになってくださり、私共を造り変え続けてくださいます。ここに、新しくされた私共の御国に向かっての歩みがあります。

 今から私共は聖餐に与ります。この聖餐は、聖霊なる神様がここに豊かに臨まれて、このパンと杯を通してイエス様が私共の中に入り、私共の中に宿り、私共と一つになることを明らかにしてくださいます。まことにありがたいことです。変わることなき神の言葉そのものであられるイエス様と共に、この2017年も神様の御前を御国に向かって歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。 

[2017年1月1日]

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