1.はじめに
今朝私共は、主イエス・キリストの御降誕を喜び祝い、礼拝を捧げています。昨夜はろうそくを灯して賛美礼拝を捧げました。そこで与えられた御言葉はルカによる福音書からでした。ルカによる福音書には、イエス様の誕生が天使ガブリエルによってマリアに予告されたことが記されています。いわゆる受胎告知の場面です。そこにヨセフは出て来ません。ヨセフはどうしたのだろうと思われる方も心配は要りません。今朝与えられておりますマタイによる福音書においては、ヨセフの夢にも天使が現れて、マリアが身ごもったのは聖霊によるのだと告げたことを記されています。このように、神様の救いの出来事は、聖書の断片だけ見るのではなくて、聖書全体から見ていかなければ分からない、そのことを教えられるわけです。
2.「イエス・キリスト」の誕生
マタイによる福音書のイエス様誕生の記事は、こう始まっています。18節「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」分かりやすいですね。表題のように、ここからイエス様の誕生の話が始まります、と記されているのです。ここで注目すべきは、「イエス・キリストの誕生の次第」と言っていることです。マタイによる福音書は、単に「イエス」とか「キリスト」とは言わないのです。はっきり「イエス・キリストの誕生」と言っています。イエスというのは、マリアから生まれた人間の名前です。そして、キリストというのは、メシア、救い主という意味です。つまり、イエス・キリストという言い方は、あのマリアから生まれた人間イエスは、キリスト、メシア、救い主であると言っているのです。「イエス・キリスト」という言い方の中に、「イエスはキリストである」という信仰が言い表されているということです。更に言えば、イエスという人間として、神の独り子であり神であられるキリストが生まれたということです。父・子・聖霊の三位一体の子なる神の誕生はこうであったと告げているのです。
それは、1章1節において「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」と書き出している所にもはっきり表れています。ここには、あのマリアから生まれ、様々な奇跡を為し、神の言葉を語り、十字架の上で死んで三日目に復活されたイエスは、アブラハムの契約と祝福を受け継ぎ、ダビデの王位を受け継ぐキリストなのだ、と告げているのです。つまり、ここにはアブラハム以来の神様の救いの御計画が、イエス・キリストによって成就したのだという信仰が言い表されているのです。イエス様は、たまたま、偶然に、あの時、あの場所で、マリアとヨセフの子として生まれたのではないのです。神様の長い長い救いの御業の成就として、神様の永遠の御計画の中でお生まれになったということなのです。このことは、私共が今朝ここに集ってクリスマス記念礼拝を捧げている、このこともまた偶然ではなくて、神様の大いなる救いの御計画の中での出来事であるということなのでありましょう。
3.正しい人ヨセフの決断
そのイエス様の誕生はどういうものだったのか。マタイによる福音書はこう続けます。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」これは、マリアのお腹が大きくなってきたので、婚約中のヨセフにも、マリアのお腹に子が宿ったことが明らかになったということではないかと思います。とするならばこの出来事は、ルカによる福音書に記されている、マリアのところに天使ガブリエルが遣わされて聖霊によってお腹に子が宿ることを告げてから、既に何ヶ月か経っていたということになるでしょう。この当時の婚約というのは、今の時代の婚約とは違います。今は婚約する前に肉体関係を持ち、婚約時には既にお腹に子がいるということだって珍しくはない。私は、それは主の御前に良くないことだと常々思っておりますけれど、今はそれには触れません。イエス様が生まれた時代には、婚約中に肉体関係を持つということはありません。ですから、ヨセフには身に覚えがないわけです。でも、婚約中のマリアのお腹に子が宿った。これは厳然たる事実なのです。マリアはここに至るまでに、天使が現れて聖霊によって子を宿すと自分に告げたことを、ヨセフにも話したに違いないと思います。「このお腹の子は聖霊によるのよ。天使がそう告げたの。」と、マリアはヨセフに言ったことでしょう。しかし、それをヨセフが信じたでしょうか。そんなこと信じられるはずがないのです。ヨセフはマリアに裏切られたと思ったでしょう。ですから、19節「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」となるのです。
ヨセフの判断、決断。それは当然のことでしょう。マリアが子を産めば、ヨセフには身に覚えがないのですから、マリアが姦淫し、その結果として生まれた子ということになる。姦淫した女は石打ちの刑です。ヨセフは、そうまですることは忍びない。だから、婚約を解消し、誰も知らない所でマリアが子を産み、そこで新しくやり直したら良いと思った。それが、ヨセフの正しさでした。このヨセフの判断、決断を責めることは出来ないでしょう。裏切られたと思っているヨセフにしてみれば、これが精一杯の温情だったと思います。正しい人ヨセフの決断でした。
4.神様の介入 〜神の正しさ〜
ところが、そこに神様が介入してきます。20節「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』」ヨセフの夢の中に天使が現れて、マリアのお腹の子は聖霊によって宿ったのだと告げたのです。マリアが自分に語ったことと同じことを、天使はヨセフに告げたのです。この天使の言葉をヨセフはどう受け止めたでしょうか。「何とつまらない夢を見たものだ。」と言って、天使の言葉を無視する、無かったことにする、そのようなことはしなかったのです。どうしてでしょう。これを心理学的に分析しても意味がありません。事はまことに単純なことだからです。この夢の中での天使のお告げは、本当に神様によって与えられたものだった。だから、ヨセフはこれに従わざるを得なかったのです。この出来事は、ヨセフの召命の出来事と言っても良いでしょう。アブラハムが、モーセが、ダビデが、イザヤが、エレミヤが、ペトロが、パウロが、皆経験したことです。そして、すべての牧師が経験したことでもあります。神様の圧倒的な力、権威の前に、ただ「はい。」と言うしかない。マリアが経験した受胎告知の出来事も同じ事です。マリアもヨセフも、天使に言われていることがどういうことなのか、十分理解することは出来なかったかもしれません。ただヨセフはこの時、たった一つのことははっきり分かった。マリアのお腹の子は聖霊による。だから、マリアを妻として迎える。生まれてくる子を我が子として育てる。そのことが本当に正しいことなのだということが分かった。何故なら、それが神様の御心であることが分かったからです。マリアとの婚約を解消するという正しい決断。その正しい決断がくつがえったのです。いや、くつがえさせられたのです。神様の御心によってです。ヨセフは正しい人であったので、父親のいないマリアのお腹の子が可哀想だ、夫無しではマリアが可哀想だ、そう考えてマリアを受け入れたのではありません。正しい人ヨセフの決断は、マリアと縁を切るというものだったのです。しかし、神様がそのヨセフの決断を翻させたのです。
ここで聖書が告げる本当の正しさとは何かということが明らかにされていることを、私共は知らされます。それは、神様の御心に従うことこそ本当に正しいことだということです。状況を分析し、相手のことを考え、自分のことも考え、世間の目、世間の常識を考慮に入れ、将来のことも見据えて、正しい判断をする。それは良いことです。正しいことです。しかし、その正しいことが通用しない、そういう局面に立たされることがあるのです。ヨセフにとって、マリアと縁を切るという決断は、決して軽いものではありませんでした。よくよく考えた上でのことあったに違いありません。しかし、それでも神様によってくつがえされたのです。そして、それは良いことでした。私共はクリスマスのこの時、神様に従うという最も良い道があり、それは私共の考える正しい道以上に良い道なのだということを、マリアとヨセフの歩みから知らされるのです。そして、私共もまた、この最も良い道を歩んでいきたい。そう心から願うのです。
5.インマヌエル
さて、天使はヨセフに、生まれてくる男の子の名前も指定しました。イエスという名でした。これは「神は救う」という意味の名前です。まさに名は体を表すと言うべき名を付けるように、神様はヨセフに命じられました。
そして、マタイによる福音書は、22節「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」と告げ、23節で「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」とイザヤ書7章14節の言葉を引用します。そして「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」と告げるのです。つまり、イエス様の誕生はイザヤの預言の成就であったと告げ、インマヌエルの出来事がイエス様の誕生によって成就したと告げているのです。インマヌエルというのは、イエス様の別名ではありません。そうではなくて、イエス様の誕生によって与えられた救いの恵みが、インマヌエル=神は我々と共におられる、ということなのです。
おとめが身ごもる。それはあり得ないことです。しかし、そのあり得ない出来事によって、人間の歴史への神様の直接介入が為された。神様が私共と共におられるということが明らかに現れ、示されたのです。神様は目に見えません。ですから、神様が共におられると言われても、何となくぼんやりしていると申しますか、ピンとこない所があるかもしれません。しかし、神様の独り子キリストが、天から降り肉体を取ることによって、私共と同じ所に立ってくださった。それによって、本当に神様が私共と共にいてくださるということが示されたのです。
ここではっきりさせておかなければならないことは、イエス様は様々な奇跡を行ったから神の子となった、神様となった、のではないということです。日本では、何か大きな事を成した人は、死ぬと神様として祀られます。乃木神社とか、東郷神社とか、たくさんあります。しかし、聖書の神様は、天地を造られ、歴史のすべてを支配しておられるただ独りのお方ですから、人間が神になるなどということはないのです。イエス様は神の独り子であり、まことの神であり、天地が造られた時から父なる神様と共におられた方です。その方が幼子イエスとして、マリアから人間としてお生まれになったということなのです。そして、それにより神様が本当に私共と共にいてくださるということが明らかにされたということなのです。
しかし、イエス様は人間として生まれたけれど、今は見えないのだから、結局同じではないか。そう思われる方もおられるかもしれません。もし神の子が人間イエスとして生まれたというだけならば、そうなのかもしれません。イエス様は、何のために人間としてお生まれになったのでしょうか。それは、私共のために、私共に代わって、十字架にお架かりになるためでした。十字架に架かって、私共の一切の罪を担い、私共の身代わりとなって裁きをお受けになるためでした。神様は御自分の独り子を十字架に架けてまで、私共を罪から救おうとしてくださった。私共を神様との親しい交わりの中に生きる者に造り変えようとしてくださった。ここに愛があります。この神様の愛、私共への徹底した激しい愛。これこそが、「神は我々と共におられる」ということの意味です。どうして神様は、私共をそれほどまでに愛してくださるのか。私には分かりません。私の中にそんな良きものなどどこにも見当たらないからです。でも愛してくださった。
人を愛するということは、その人に目を注ぎ、その人のために自分の全力を注ぐということでしょう。神様が私共と共におられるというのは、共にいるだけで何もしない、そんなことはあり得ないのです。御自分の独り子さえも人間としてマリアから生まれさせ、十字架にお架けになる。私共の想像をはるかに超えた、圧倒的な愛。それがクリスマスの出来事において示されたことです。神様が私共と共にいてくださる。私共は神様の愛のただ中に生かされている。その事実を、私共は、主の日の度毎にここに集い、御言葉を受けるというあり方で、聖餐に与るというあり方で、教えられ続け、確認し続けているのでしょう。
6.我、神と共にあり
ヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもるという出来事に直面し、夢の中で天使のお告げを受け、自分の判断、決断とは全く違う、正反対の決断をしました。神様の召命としてこの出来事を受け止め、御心に従う決断をしたからです。これは先程も申しましたように、神様の圧倒的な力、権威の前に、それ以外の選択肢は無いというあり方で示されたことではありましたけれど、ヨセフは嫌々、仕方なく従うことにしたのではないと思います。マリアを受け入れるということは、確かに苦しい決断であったかもしれません。しかしヨセフは、神様がただ力と権威で自分を従わせようとしたという以上に、この神様の圧倒的な力と権威にはとてつもない愛があることも知らされたに違いないのです。この神様の愛に触れた者は、神様を愛せずにおられません。こう言っても良いでしょう。「神は我々と共におられる」ということを知らされた者は、「我、神と共にあり」という歩みをする者に変えられるということです。私は神様と共にいる。神様と共に歩む。神様の御心に従って、神様の御業にお仕えする者として生きる。そういう者に変えられるということです。それが、自分の正しさを超えて神の正しさに生きる者とされたということなのでしょう。マリアもヨセフもそのように変えられて、イエス様のお父さん、お母さんとなったのです。
私共もそうです。夢の中で天使に語りかけられたわけではないかもしれませんけれど、神様の圧倒的な愛と力と権威に触れ、神様が私と共にいてくださり、生きて働いてくださっていることを知らされた。だから、この方と共に生きていこう、この方に従っていこう、そう願って洗礼を受けた。ここに集っている方の中には洗礼を受けて60年、70年という方もいれば、まだ1年、2年しか経っていない人もいる。しかし、その思いは同じです。「我、神と共にあり。」その志をもって歩んでいきたいということでしょう。
今から聖餐に与ります。イエス様は、弱く不信仰な私共のために、御自身が私共と共にいてくださることをはっきり示すために、この聖餐を制定してくださいました。キリストの体、キリストの血潮に与って、「神、我らと共にいます」ということを新しく心に刻み、いよいよ「我、神と共にあり」との歩みを確かにされてまいりたいと願うのであります。
[2016年12月25日]
へもどる。