1.イエス様による宣言 〜あなたがたは地の塩・世の光〜
アドベント第四の主の日を迎えております。次の主の日にはクリスマス記念礼拝を守ります。今週金曜日に子どものクリスマス会とキャロリング、土曜日にキャンドル・サービス、そして日曜日にはクリスマス記念礼拝というように、今年は金・土・日とクリスマスの行事が続くことになります。
そのような私共に今朝与えられております御言葉は、イエス様の「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」という御言葉です。これはイエス様の、私共に対する宣言です。地の塩・世の光になりましょうとか、地の塩・世の光になりなさいと言われているのではありません。イエス様が「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」と宣言された。イエス様がそのように宣言されたのですから、私共は地の塩であり世の光なのです。そう言われても、私共の一体どこが地の塩・世の光なのかと、いささか戸惑うところがあるかもしれません。そんな大それた者ではないという思いを抱く方もおられるでしょう。逆に「私は地の塩です。世の光です。」そう胸を張って言える人の方が稀なのだろうと思います。しかし、そうなのです。私共は地の塩であり世の光なのです。イエス様がそのように宣言されからです。
2.この宣言を受けた者
このイエス様の宣言は、この日本語の翻訳でははっきり表れていないのですが、ギリシャ語の本文では「あなたがたは」という言葉が強調されていいます。ギリシャ語では通常、代名詞の主語などは省略されます。動詞の語尾変化で代名詞を記さなくても分かるからです。ところが、ここでは敢えて「あなたがたは」という言葉が記されているのです。そのことを意識するならば、イエス様はここで「あなたがたこそは地の塩である。」「あなたがたこそは世の光である。」と宣言された。その様に翻訳すことも出来るかと思います。
では、ここで「あなたがた」と呼ばれている人とはどういう人なのでしょうか。イエス様はこの言葉を誰に対してお語りになったのでしょうか。それは、この直前にあります山上の説教の冒頭で告げられたイエス様の祝福の言葉、八つの「幸いである。」との御言葉を受けた人たちです。彼らは、病気であったり、病人を抱えていたり、貧しかったり、様々な問題で困り果てて、イエス様の所に救いを求めて来た人たちです。それとイエス様の弟子たちです。傍から見れば、どう見ても地の塩・世の光と言われるような、特別優れた所がある人たちではなかった。でもイエス様は、あなたがたは地の塩である、世の光であると告げられた。どうしてでしょうか。それは、彼らがイエス様の所に来て、イエス様の祝福を受けた者たちだったからです。このイエス様の祝福こそ、彼らを地の塩・世の光とする根拠であり、イエス様がこのように宣言された理由だったのです。私共も、ずっとイエス様の祝福の言葉を受けて歩んで来ました。ですから、私共もまた、このイエス様の宣言を受けることが出来るのです。
イエス様は御自身の所に救いを求めて来た人々に対して、何の条件も付けずに「幸いである。」と祝福をお与えになりました。そして、御自分の所に来た人と一つになって、全き祝福へと、幸いな道へと導いてくださいます。ですから、イエス様の祝福を受けた者は、もうイエス様抜きで生きるのではありません。いつでもどこでもイエス様と共にあり、イエス様が再び来られる日に向かって歩むのです。その歩みこそが、イエス様と共にあるという存在こそが、地の塩であり世の光であるということなのです。
3.あなたがたは地の塩である
少し丁寧に見ていきましょう。イエス様は「あなたがたは地の塩である。」と言われましたが、「地」というのは「この世」「この世界」と考えて良いでしょう。そして「塩」ですが、塩はただ塩であるというだけでは意味がありません。塩は他の素材と混ぜられて、味を付けたり、腐るのを防いだり、私共の命を保つのに役立つわけです。つまり、私共が地の塩であるということは、この世界に対して腐るのを防いだり、命を保たせたり、美味しくするのに役に立つ存在であるということです。逆に言えば、この世界は放っておけば、私共が居なければ、腐るし、命を失うし、味気の無い、とても食べられるものではなくなってしまうということです。それは神様から見て、イエス様から見て、そうなのだということです。この世界は、自分が腐っていく、滅んでいく、とても食えたものではない存在なのだとは全く思っていないでしょう。しかし、そうなのです。それは、神様に造られた本来の意図から、神様の御心から、遠く離れてしまっているからです。神様はこの世界を良きものとして造られました。人間は神様の似姿に造られました。神様との親しい交わりに生き、神様を愛し、神様の御心に従うものとして造られたのです。しかし、この世界は、人間はそれを忘れ、自分たちを造られたただ独りの神様を拝むどころか、次々に偶像を造り出してはこれを拝んでいます。自分の欲に引きずられ、自分の欲を満たすことがすべてであって、それの何が悪いのかと思っている。神様なんて関係ない。そう思っている。それは子どもから大人から年寄りまで、みんな同じです。それが、放っておけば腐ってしまい滅んでしまう存在だということです。
私は今年、五つの幼稚園・保育園のクリスマス会に行きます。私が呼ばれるのですから、すべてキリスト教の関係施設です。そこでお話しするのは一つのこと、クリスマスはイエス様の誕生を祝う日だということです。もっとはっきり言えば、サンタクロースが来るから嬉しい日なのではないということ、サンタクロースがクリスマスの主人公ではないということです。子どもたちは、腐っていく、滅んでいく、この世界のただ中にいます。そして、神様なんて、イエス様なんて、関係ない。プレゼントをくれるサンタさんがいればそれで十分だと思っている。イエス様抜きのクリスマスが横行している。サンタクロースがイエス様に取って代わっている。それは、子どもだけのことではないでしょう。神様抜きのクリスマス、イエス様抜きのクリスマス。これこそ、塩を必要としているこの世界の姿がはっきり現れ出ているのではないでしょうか。
このような世界のただ中にあって私共は、クリスマスはイエス様が来られた喜びの日なのだと告げていく。それが、私共がイエス様に地の塩だと宣言されていることなのです。どんなに小さく、どんなに弱くても、どんなに無視されても告げていく。私共以外にそれを告げる者はどこにもいないからです。私共は地の塩だからです。
4.あなたがたは世の光である
次に、世の光ですが、イエス様は「あなたがたは世の光である。」と宣言されて、続けて「山の上にある町は、隠れることができない。」と言われました。私共が「世の光である」ということは、隠しようがないことなのです。私共がイエス様の祝福を受け、イエス様と一つにされているということは、隠しておくことが出来ないことなのです。私共は周りの人々に、「私はキリスト者です。」といつも言いふらしているわけではないでしょう。でも、知られている。隠しておくことなど出来ないのです。
更に続けて「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」と告げられました。そもそも、明かりをともすのは暗いからです。そして、闇の中に明かりがともされれば、闇は退くしかないのです。どんなに深く大きな闇であっても、光があれば闇は退きます。光があればそこはもはや闇ではない。光を消すことの出来る闇などないのです。逆に言えば、闇というのは光が無い状態を言うのです。神様を知らない、イエス様を知らない、それ故、自分が何のために生かされ、どこに向かって歩んでいるのか分からない。それが闇に覆われたこの世の姿です。そこに、まことの光であるイエス様が来られた。そして、私共はこのまことの光であるイエス様と一つにしていただき、イエス様の祝福を受け、イエス様の救いに与った。だから、世の光なのです。イエス様を知っている。イエス様の救いに与った。それが、私共が世の光とされているただ一つの理由です。
ここで16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、」とあります。ということは、光を人々の前に輝かすというのは、私共が立派な行いをするということになります。では、この「立派な行い」とは何なのでしょうか。世の人々を照らすほどの立派な行い。そんなことはとても自分には無理なように思われるかもしれません。しかし、イエス様が語られた祝福を思い起こしましょう。イエス様は特別に立派な行いをすることが出来る人々を祝福されたのでしょうか。そうではありません。イエス様が祝福されたのは、弱り果て、困り果て、イエス様の所に救いを求めに来た人たちでした。その人たちを祝福し、世の光とされたのです。この立派な行いというのは、まことの光であるイエス様と一つにされたが故に、イエス様の祝福を受けたが故に為される行いなのです。傍から見れば大したことではない行いであったとしても、イエス様を愛し、イエス様を信頼し、イエス様に従う故に為される歩み、そのすべてが「立派な行い」なのです。
私はこの「あなたがたは世の光である。」という御言葉に触れると、いつも牧師であり、新約学者であった松永希久夫という、東京神学大学の元学長の言葉を思い出すのです。神学生であった私たちに、「牧師は提灯だ。提灯が役に立つのは、中のろうそくに火がついているからだ。大切なのは、その提灯の中にあるろうそくの灯りなのであって、どんなに提灯が立派でも中のろうそくに灯がともっていなければ何の役にも立たない。しかし、ろうそくに灯がともってさえいれば、提灯そのものはボロでも、多少穴が空いていても、提灯としての役目を果たすことが出来る。穴が空いていれば、その穴から中の光が輝いて、かえって良いくらいだ。」そう何度も言われました。こんな欠けの多い者が牧師になれるのかと思ってしまう神学生を励ます言葉でした。立派なキリスト者にならなければ牧師になるのに相応しくないと思っている神学生たちを正す言葉でした。
5.立派な行いの目的 〜御名があがめられますように〜
この立派な行いの目的は何かと言えば、「人々が天の父をあがめるようになる」ということです。ここで決して間違ってはいけないことは、この立派な行いによって人々があがめるのは、その立派な行いをした人ではないということです。私共はすぐに自分の栄光を求めます。人の目、人の口を気にします。しかしこの立派な行いは、そういう所で為されるものではないのです。ただイエス様を見上げて、イエス様に従う。それだけなのです。先週与えられたイエス様の祝福の言葉は、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」でした。イエス様を見上げて歩む時、世の人々が私共を立派だと言ってくれるわけではないのです。しかし、たとえそうであっても、それは立派な行いなのです。その意味では、私共が行うことを立派であるとか立派でないとか判断されるのは、神様だということなのでしょう。神様は私共以上に私共を御存知です。私共が何を求めてそれを為しているのか、神様はよく御存知なのです。そして神様は、神様を愛するが故に為される業を、どんな小さな業であっても喜んで受けてくださるのです。
イエス様の祝福を受けた私共が何よりも願い求めていることは何でしょうか。それは、父なる神様があがめられることでしょう。「主の祈り」において第一の願いとして祈っていること、「願わくは、御名をあがめさせ給え。」御名があがめられますようにということです。この祈りに生きるのが私共なのでしょう。主の祈りはイエス様が与えてくださった祈りであり、私共が信仰の歩みにおいて祈り続けている祈りです。私共の祈りです。この祈りと共に、この祈りの中で為される業、それが立派な行いなのです。
6.私共の本当の姿 〜地の塩・世の光〜
さて皆さん、私共はイエス様によって「あなたがたは地の塩、世の光である。」と宣言されました。イエス様がそのように宣言された以上、私共が自分をどう思っていようと、自分にどんな欠けがあろうと、弱く小さな者であろうと、地の塩・世の光なのです。自分の性格とか、自分の能力とか、そんなことは全く関係ないのです。そんな所から自分を判断し、評価するのはもうやめましょう。それはつまらないことです。そこに生まれるのは、自分を過大に評価して尊大になるか、自分を過小に評価して卑屈になるかでしょう。私共の本当の価値は、このイエス様の宣言の中にあるのです。イエス様が私共を地の塩・世の光だと宣言してくださった以上、誰が何と言おうと、私共は地の塩・世の光なのです。これが私共の本当の姿なのです。だから、地の塩・世の光として生きていくのです。御名があがめられますようにという祈りと共に、私を愛し祝福してくださったイエス様と共に、生きていくのです。イエス様が「わたしに従いなさい。」と言われたのですから、イエス様に従って行くのです。
塩は溶けて、その存在が見えなくなるあり方において周りを生かし、目的を果たします。塩は目立ってはダメなのです。一方、光は周りを照らすことによって、その目的を果たします。光は目立たなければ意味がないのです。塩と光、その有り様は全く違います。それは、私共がイエス様のために生きる、イエス様の御業にお仕えする、その有り様が一人一人違うということでしょう。皆が同じようにはならないし、なる必要もないのです。皆、違うのです。神様によって遣わされている場、神様によって置かれている場が違うのですから、当然なのです。ただ目的は一つ。御名があがめられますようにということです。
クリスマスを迎えるこの時、御名があがめられますようにとの祈りにおいて一つとなって、イエス様の救いの光を世に高く掲げ、この暗い世を照らしてまいりましょう。ここに光がある。ここに来れば新しくなれる。そのことを言葉と行いと存在によって示してまいりましょう。私共は地の塩・世の光なのですから。
[2016年12月18日]
へもどる。