富山鹿島町教会

礼拝説教

「幸いな者」
イザヤ書 61章1〜4節
マタイによる福音書 5章1〜12節

小堀 康彦牧師

1.山上の説教について
 今日からマタイによる福音書に戻ります。前回マタイによる福音書の4章の終わりの所から御言葉を受けたのは5月1日ですから、もう6ヶ月も前ということになります。イエス様は、4章18節以下の所で、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネという、漁師だった二組の兄弟を弟子にして、いよいよ本格的に宣教を開始されます。そこで記されておりますのが、今日から読み進めることになる5章から7章の、「山上の説教」と呼ばれるイエス様の言葉です。多分、イエス様はこれだけの話を全部一度に話されたのではなくて、様々な時にお話しになったものを、マタイがこのようにまとめたのではないかと考えられます。どうしてマタイはそのような編集をしたのか。それは、イエス様がお話しになった順番に記すよりもこの方が、読む者にイエス様がお語りになった意図が伝わる。イエス様がどのようなお方なのか分かる。そう考えたからだろうと思います。
 マタイによる福音書においては、この個所は「山上の説教」と呼ばれており、新共同訳の小見出しにもそのように記されております。一方、ルカによる福音書6章のここと同じような記事を見ますと、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」とありまして、山上ではなく平地でイエス様がお語りになったと記されています。山の上でも下でもどっちでも良いではないかと思われるかもしれませんが、「山上の説教」という形をマタイが取ったのには理由があると考えられています。それは、旧約におけるシナイ山での契約、あの十戒を与えられた時と、この「山上の説教」を重ね合わせようとしているということです。もちろん、十戒と山上の説教が同じだというわけではありません。違う所もたくさんあります。シナイ山においてはモーセしか山に登ることが出来ませんでしたけれど、この山上の説教では弟子たちも群衆も山に登っています。これはまさに、イエス様というお方と共にあるというあり方で、神と共にある、インマヌエルの恵みが与えられたことを示しているのでしょう。そして何より違うのは、十戒は救いに与るために必要な禁止条項、「○○してはならない」ということが示されたのですけれど、この山上の説教においては、全く新しい、神様と共に歩む者の幸い、喜びが告げられているのです。そのことが最もはっきり示されているのが、この山上の説教の冒頭にあたる、今朝私共に与えられている御言葉であり、「幸いである」という言葉が9回繰り返されています。
 確かに、この山上の説教には、22節「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」とか、28〜29節「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」といった大変厳しい言葉もあります。しかし、山上の説教には、冒頭の「幸いである」という祝福のトーン、喜びのトーンが基調としてあるのです。そのことをしっかり頭に入れて読まないと、この山上の説教を読み間違えてしまう。そういうことだと思います。
 順に見ていきたいと思いますが、今朝はとても12節まですべてを見ることは出来ません。4節まで、最初の二つの幸いを見ることにいたします。

2.山上の説教を聞いた人々
 今、この山上の説教は、山の上(実際は丘ぐらいの所だと思いますけれど)で語られたということを見ましたが、この山上の説教を聞いた人というのはどういう人だったのか。それは、1〜2節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」とあります。ここで、イエス様は弟子たちに語られたということが分かるのです。しかし、それだけではないと思います。イエス様の所には群衆がついて来ていたのです。彼らを無視して、弟子たちだけにお語りになったと考えるのは不自然でしょう。イエス様は近くに来た弟子たちに語ると共に、それを囲むように大勢の群衆がいて、彼らにもイエス様はお語りになった、そう考えて良いでしょう。その群衆とはどんな人たちだったか、4章を見てみましょう。24節b〜25節「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」とあります。つまり、イエス様の所に来ていた群衆というのは、病人であったり、その家族であったり、それを連れてきた人であったり、様々な理由で困窮し、困り果て、弱り果てていた人々であったということなのです。

3.イエス様の言葉の指向性
 ここで、もう一つ確認しておきたいことがあります。それは、イエス様はいつでも、「あなたに言う」或いは「あなたがたに言う」というあり方でお語りになったということです。指向性が強いのです。漠然と一般論を語るなどいう語り方はしていないのです。イエス様がお語りになる時、そこにはいつも、それを聞く具体的な対象がいるのです。話し言葉というのはそういうものでしょう。書き言葉は、手紙などは別ですが、どちらかというと不特定多数の人を想定して書かれる言葉です。しかし、イエス様の言葉はそうではありません。話し言葉なのです。「あなたに言う」或いは「あなたがたに言う」というあり方でお話しになった言葉です。一般論として語ることはありません。このことをよく弁えていなければなりません。それは、今でもそうなのです。聖書におけるイエス様の言葉を読む時、このイエス様は私に向けて語られている、そのように読まないと、聞き取らないとイエス様の言葉は全く意味が分からないものになってしまいますし、意味を取り違えてしまうものなのです。

4.幸いなるかな、心貧しき者
 今朝与えられております御言葉もそうです。3節「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」とあります。これを「一般的に言って、心の貧しい人々は幸いです。」とイエス様が言われたと読むならば、イエス様がここで言われたことを全く理解することは出来ません。それは誤読です。
 「心の貧しい人々は、幸いである。」これは原文では「幸いである、貧しい人々、心において」となっています。「幸いである」これが最初に来ている。この原文のニュアンスを生かそうとして、文語訳では「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。」と訳されておりました。この「幸福なるかな」というのは、祝福の言葉です。12節に「喜びなさい。大いに喜びなさい。」と告げられていますが、この「幸福なるかな」というのも、「喜びなさい。何て素敵なことだ。何て幸せなことだ。」そういう言葉です。つまりイエス様は、目の前の弟子たちに向かって、また群衆に向かって、「あなたは幸いだね。喜びなさい。本当に素敵なことだね。」と告げたということなのです。そして、そう言われた人がどういう人だったかというと、「心の貧しい人」だったのです。ここが大切なポイントです。イエス様はここで、「心が貧しい人というのは幸せなものだ。」というような、心が貧しい人についての一般論を語っているのではないのです。そうではなくて、目の前にいる人に向かって、「あなたは心が貧しいね。でも、本当に幸いだね。」そう言われているのです。
 しかし、イエス様はどうして「心の貧しい人」に向かって「幸いだ」と言われたのか、言うことが出来たのか。そもそも「心が貧しい」とはどういうことなのでしょうか。普通、私共は「心の豊かな人は幸いだ。」と思っているでしょう。「ぼろは着てても心の錦、どんな花よりきれいだぜ。」という歌がありました。実際の生活は貧しくても心は貧しくない、だから大丈夫だ。たとえ貧しくても心が豊かだから誇り高く生きることが出来る、だから幸いだ。そう普通は考えるのでしょう。ところが、イエス様が言われるのはそうではないのです。心が貧しい人に向かって「幸いだ」と言われたのです。何故でしょう。「心が豊か」という言葉でイメージするのは、他人のことに心を遣うことが出来る、人に優しく出来る、色々な趣味や楽しみを持っていて一日一日充実して生きている、そんなイメージでしょうか。一方、「心が貧しい」というのは、自分のことしか考えられないとか、人の悪口を言ったり、人のことをうらやんだり、不平ばっかり言ったり、そんなイメージでしょうか。そう思うと、やっぱり「心の貧しい人が幸いなわけがない。」と思うわけです。
 ちなみに、同様の記事があるルカによる福音書においては、「心の」が抜けています。6章20節、ただ「貧しい人々は、幸いである」となっています。貧しい人、貧困にあえいでいる人、それが幸いなはずがない。私共はそう思うわけです。しかし、イエス様は「幸いだ」と言われる。何故なのでしょう。
 そもそも、この「貧しい」という言葉は、何も無い、乞食をするしかないほどに貧しい、そういう言葉です。ですから、この「心の貧しい人」というのは、自分の中に何も頼るものがなくて、もう自分では立っていくことが出来ないほどに弱り果て、困り果ててしまっている人ということなのです。そんな人が幸いなはずないじゃありませんか。まさに、幸いなはずがないのです。しかし、イエス様は「幸いだ」と言い切られる。その理由はただ一つしかありません。
 自分の中に何も頼るものがない、金もなければ健康もない、今日の楽しみもなければ明日への希望もない、家族ともトラブルを起こしてしまう、いつもイライラしている、そんな心の貧しいあなた。しかし、あなたはわたしの所に来た。わたしの前におり、わたしの言葉を聞いている。だから、あなたは幸いになれるし、もう既に幸いなのだ。わたしの所に来て、わたしと共にいるのだから。天国はあなたのもの。わたしの所に来たということは、わたしの声を聞いているということは、もう神様の御支配の中に生き始めたということ。あなたを襲うすべての貧しさから、わたしが守る。わたしがあなたと共にいる。もう大丈夫。幸いなるかな!
 そうイエス様は告げられたのです。イエス様がそうお告げになったということは、その通りになるということです。イエス様は神の独り子、神様そのものであられるからです。
 この言葉はイエス様にしか言えません。貧しさの中であえいでいる人に向かって、「あなたは幸せだね。」そんなことを言ったら普通は怒られます。「私を馬鹿にしているのか!」そう言って怒られます。しかし、イエス様は怒られなかった。どうしてでしょう。それは、イエス様にそう言われた時、人々は、本当にそうだと思ったからです。イエス様の祝福、喜び、平安に包まれたからです。「あなたは心貧しいね。」と言われても、本当に自分はそうだと思えた。「あなたは心が貧しい。」そんなことを言われたら、人は普通怒ります。「あなたは頼るものが何もないね。金もなければ健康もない、今日の楽しみもなければ明日への希望もない、家族ともトラブルを起こしてしまう、いつもイライラしている、そんな心の貧しいあなた。」そんな風に言われたら、普通怒るでしょう。しかし、イエス様にそう言われると、人々は本当にそうだと思えたのです。自分の中には頼るべきものは何もない、そのことを素直に認めることが出来た。だって彼らは、頼るものが何もないから、イエス様の所に来た人たちだったからです。ただイエス様に救いを求めに来た人たちだったからです。私共もそうでしょう。自分で頑張って何とかやっていける、何とかやっていかなきゃいけない、そう思っている人はここには来ない。イエス様の前には来ないのでしょう。私には何もありません。助けてください。そう言ってイエス様の所に来た人を、イエス様はしっかり受け止めて、神様の御支配の中に生きる者としてくださり、幸いな者としてくださるのです。

5.幸いなるかな、悲しむ者
 4節「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」これも同じでしょう。悲しんでいる人が幸いなはずがない。幸いじゃないから悲しんでいる。しかし、その悲しみを携えてイエス様の所に来た。助けてくださいとイエス様に救いを求めて来た。だから幸いなのです。何故なら、イエス様が慰めてくださるからです。私共の味わう悲しみ。イエス様はそのすべてを御存知であり、そのすべてを慰めることがお出来になる。イエス様は全能の神の独り子だからです。イエス様が慰めることの出来ない人など、この世には存在しません。
 残念なことですが、この世界には、私共の人生には、必ず悲しみがあります。その最も大きなものは、愛する者の死という悲しみでありましょう。これに対して、イエス様は復活の希望をもって私共を慰めてくださいます。或いは、人間関係における愛の破れによる悲しみ、これも本当に生きる気力さえ失わせるような力を持ちます。しかし、イエス様はこれにも慰めを与えてくださいます。愛の交わりを回復する道を開いてくださいますし、その一歩を踏み出す勇気を与えてくだいます。或いは、別の交わりを与えてくださるということもあるでしょう。イエス様は、私共の思いを超えたあり方で、必ず道を開き、慰めてくださいます。そして、「生きよ。」と励ましてくださいます。だからもう大丈夫なのです。だから幸いなのです。どんなに悲しんでいても、イエス様の所に来るならば、必ず慰められるのです。他のどこに行っても慰められない人でも、イエス様の所に来るならば大丈夫なのです。
 ここでイエス様の言葉が「天の国は彼らのものである。」とか「その人たちは慰められる。」と記されていますけれど、ここにはイエス様の意思というべきものが表れているのであって、放っておいても自然にそうなるというようなことではないのです。わたしの所に救いを求めてやって来た心の貧しいあなたがたを、わたしが天の国に迎える。だから幸いだ。今悲しんでいるあなたがたを、わたしが慰める。だから幸いだ。そうイエス様は言われたのです。

6.神の乞食・ルター
 先週、私共は宗教改革を覚えて礼拝を守りました。宗教改革者マルティン・ルターは62歳で地上の生涯を閉じたのですが、その直前に書き残したメモ、そこには「わたしは乞食だ。これは本当のことだ。」と記されていたと言われています。これは、自分の生涯は乞食のようにみじめなものであったと振り返って、地上の生涯を閉じたというのではないのです。そうではなくて、ルターは、自分が神様の御前にあって何一つ誇るべきものを持たず、ただ神様に憐れみと救いを求めるしかない者であることをよく知っていました。そして、生涯を振り返って、自分は神様の御前で憐れみを求め続けた、乞食のように憐れみを救いを求め続けた、そう述懐したのです。そして、その様な自分をイエス様は、「幸いなるかな、心貧しき者は。」と約束されたように、まことに幸いの中に生かしてくださった。そのように感謝したのであり、これから自分は天の国に招かれていくのだという救いの確信のもとでの一言だったに違いありません。
 私共は、良い人になって、心豊かな人になって、幸いになっていくのではないのです。それは、自分で手に入れていく幸いでしょう。そのような幸いがどんなにもろいものであるか、私共は知っています。それは、家族の病気一つで崩れてしまう幸いです。しかし、イエス様は、そのようなもろい幸いではなくて、死でさえも打ち破ることの出来ない幸いを私共に与えてくださると約束してくださったのです。それは、イエス様と共にある幸いであり、神の国・天の国に生きる幸いであり、神様との親しい交わりの中に生かされる幸いです。この幸いを壊すことが出来るものなど、どこにもありません。この幸いに生きるようにと招かれ、召されていることを心から感謝し、この幸いに与る者として、この一週も主と共に歩んで参りたいと心から願うのであります。

[2016年11月13日]

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