富山鹿島町教会

礼拝説教

「ただ信仰によって救われる」
ハバクク書 2章1〜4節
ローマの信徒への手紙 1章16〜17節

小堀 康彦牧師

1.宗教改革記念日
 週報にありますように、来年2017年は宗教改革500年の年となります。1517年10月31日にマルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95ヶ条の提題」を張り出したのが、宗教改革の始まりとされています。ルター34歳の時でした。今日は、宗教改革を覚えて御言葉を受けていきたいと思います。
 10月31日と言いますと、若者たちはハロウィンの日だと思っているようですけれど、ハロウィンは秋の収穫を祝い悪霊を追い出すケルト民族の祭りであり、アメリカで民間行事として盛んになったものが最近になって日本にも入ってきたのです。しかし、宗教改革記念日とハロウィンは何のつながりも無いかと言いますと、ちょっとはつながっています。それは、中世においては11月1日が「諸聖人の日」として守られており、先に召された聖人や預言者や殉教者を記念する日で祝日でした。しかし、宗教改革以降、聖人についての理解がプロテスタント教会では変わりまして、洗礼を受けたすべてのキリスト者は聖徒であるということになりましたので、先に召された方々を覚える日となって、私共も先週、召天者記念礼拝を守ったわけです。ハロウィンとは、この諸聖人の日をall saints day とかall hallows と言い、その前日なので hallows eve から halloween になったと言われています。一方ルターは、諸聖人の日には多くの教会員が教会に来ますので、皆が見るようにと、その前日に教会の扉に95ヶ条の提題を張り出したと言われています。両方とも、意味は違っても、「諸聖人の日」と関係しているわけです。今日でもヨーロッパの大陸の方では、若い人は別でしょうが、ハロウィンは行いません。ローマ・カトリックの国では「諸聖人の日」として祝いますし、墓参りにも行くようです。そして、プロテスタントの国々では、10月31日は「宗教改革記念日」と言った方が通ります。
さて、宗教改革ですが、その第一の旗印は今日の説教題にもなっている「ただ信仰によって救われる」、つまり「信仰のみ」です。その他に二つ、「聖書のみ」そして「万人祭司」、この三つが宗教改革の旗印、宗教改革の三代原理と言われています。プロテスタント教会はこの三つの旗印を掲げて、500年の間歩んできたわけです。この三つの中で最も大切なのは何かと言えば「信仰のみ」と言って良いと思います。ただ信仰によって救われるという福音理解です。他の二つ、「聖書のみ」「万人祭司」は、この「信仰のみ」という福音理解から必然的に出てくる結果と考えて良いと思います。今日はこの三つすべてについて申し上げることは出来ません。「信仰のみ」この一点について、宗教改革を覚えてお話ししたいと思います。

2.神の義の再発見
 1517年10月31日にルターは95ヶ条の提題を張り出したわけですが、この95ヶ条の提題を張り出すということは、当時の学問をする人の間ではそれほど珍しいことではありませんでした。これは言うなれば、学問的な公開質問状とでも言うべきもので、書かれていたのもラテン語でした。ルターは修道僧でありましたが、同時に学者でした。聖書学者です。ヴィッテンベルク大学の聖書学の教授でした。彼が宗教改革に至ったのには、大学における詩編の講義とローマの信徒への手紙の講義が背景にあったと考えられています。それは、ルターが為したこれらの講義録が残っておりまして、それを読みますと、この「信仰のみ」に至ったルターの思索の後をたどることが出来るのです。詩編の講義が終わると、次にルターはローマの信徒への手紙の講義をしました。そして、多くのルター学者たちは、この詩編の講義の最中に、ルターは「神の義の再発見」をしたと考えています。
 例えば、詩編31編2節に「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によってわたしを助けてください。」とあります。新共同訳で「恵みの御業」と訳されております言葉は、原文では「あなたの義」つまり「神の義」なのです。どうして詩編の詩人は「あなたの義によってわたしを助けてください。」と祈ることが出来たのか。これがルターにとって大問題でした。何故なら、神の義、神の義しさとは、罪人である自分を裁き、滅ぼすものでしかなかったからです。
 当時のカトリック教会の教えは、洗礼を受けた者はカトリック教会の与える救いの手段としてのサクラメント(秘跡)に与ることによって救われるというものでした。つまり、罪を犯した者は「告解」というサクラメントに与ります。「わたしはこれこれの罪を犯しました。」と司祭に告げ、司祭は「ではこれこれをしなさい。そうすれば赦されます。」と命じ、これに従いますと罪が赦されるというシステムです。司祭が赦しの宣言をするために「これこれをしなさい。」というのも、「とてもそんなこと出来ません。」という高いレベルのものではなくて、例えば「主の祈りを10回唱えなさい。」というようなものでした。逆に「そんなのでいいの?」と思うかもしれませんが、大切なことは自覚的に罪を告白するということでした。ルターは修道僧として生きる中で、告解しても告解しても告解しきれない、自分の内から湧き上がってくる罪を知ります。普通ですと、「自分は修道僧だし、正しい歩みをしているのだから救われる。」と思うところなのでしょう。しかし、ルターはそうではありませんでした。告解をする。自分が犯したありとあらゆる罪、口と心と行いで犯した罪を洗いざらい告解する。すると、告解した場所から自分の部屋に帰る間に既に、悪しき思いが湧いてくる。この罪をどうしたら良いのか。告解せずに残される罪、即ち赦されることなく、残されてしまう罪はどうなるのか。その罪の故に神の義しさが自分を裁き、自分は滅びるしかない。ルターはそう考えていたのです。
 ところが、この詩編の詩人は、「あなたの義によってわたしを助けてください。」と祈っている。そんなことがあり得るのか。ルターは悩みます。聖書博士であったルターでありますが、聖書が分からない。この詩人の祈りが分からない。そして、詩編31編2節のような御言葉は、詩編の中に次々と出てくるのです。例えば詩編71編1〜2節、「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。」、この「恵みの御業」も原文では「あなたの義」です。また15節「わたしの口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り、なお、決して語り尽くすことはできません。」、の「恵みの御業」も「あなたの義」です。16節「しかし主よ、わたしの主よ、わたしは力を奮い起こして進みいで、ひたすら恵みの御業を唱えましょう。」、の「恵みの御業」も「あなたの義」です。19節「神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。」、の「恵みの御業」も「あなたの義」です。24節「わたしの舌は絶えることなく恵みの御業を歌います。わたしが災いに遭うことを望む者が、どうか、恥と辱めに落とされますように。」の「恵みの御業」も「あなたの義」です。ここで詩人は「神の義」を、感謝と喜びをもって歌っているのです。何故なのか。
 思い悩むルターに、ある時、まさに聖霊の導きと言うべき出来事が起きます。それは、この「神の義」というのは、「罪人である人間を裁き滅ぼす」義ではなくて「罪人を赦し、義としてくださる」義なのだ、そしてそのためにイエス様は十字架にお架かりになったのだということを再発見したのです。これを「神の義の再発見」と言います。私共にとっては当たり前のことですけれど、罪人を裁く義しか分からなくなっていたのが中世のキリスト教会でした。しかし、ルターは気付きました。そして、そのことに気付くと、教会が教えていることもやっていることも間違いだらけであることに気付いてしまったのです。そして彼は、聖書学者の良心に従って、公開質問状として95ヶ条の提題をヴィッテンベルク城の教会の扉に張り出したのです。この95ヶ条の提題は、当時発見されたグーテンベルクの印刷術によってあっという間に全ヨーロッパに広まります。そして、大論争が始まったのです。

3.わたしは福音を恥としない
そして、この「神の義の再発見」が決定付けられたのが、このローマの信徒への手紙1章16〜17節の御言葉だったのです。ルターは詩編の講義に続いて、ローマの信徒への手紙の講義を行いました。そこで彼は、いよいよはっきりと、明確に「罪人を赦す神の義」を語ったのです。
 16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」とあります。「わたしは福音を恥としない。」というこのパウロの言葉に、ルターは心を震わせたに違いありません。自分はどうなのか。福音を恥としていないか。福音を恥としないのなら、聖書が告げている、罪人を義としてくださる神の義、ここにこそ福音があることを、自分ははっきりと告げなければならないのではないか。ローマ・カトリック教会の教えが間違っていることを、はっきりと告げなければならないのではないか。私は、このパウロの「わたしは福音を恥としない」という言葉に促されて、押し出されて、ルターは宗教改革の道を進んだのではないかと思っています。
 当時、ローマ・カトリック教会の教えに反することを公にするということは、文字通り、生きていけないことを意味しました。ローマ・カトリック教会が破門の宣告をする。そうすると、王様や諸侯はこの破門された人を捕らえ、処罰する、場合によっては処刑する。そういうことになっていたのです。教会や教皇の権威、これを教権と言い、王様や諸侯の権威・権力を俗権と言いますが、この教権と俗権が相互補完的に機能していたのが中世という時代であり、ルターはそういう時代に生きていたのです。ルターはヴォルムスの国会に呼び出され、「信仰によってのみ義とされる」ことから始まり、彼が記した書物について、ローマ・カトリック教会の教えに反することをすべて否定するように求められます。しかし、ルターは「我、ここに立つ。」「この福音に立つ。」と告げ、否定することを拒否しました。そして、彼は追われる身となってしまったのです。1521年のことです。この時、ルターはヴィッテンベルク大学を創立したザクセン選帝侯フリードリヒ3世に匿われます。フリードリヒ3世にしてみれば、ルターは自分の庇護のもとにある者だったからです。ルターは匿われたヴァルトブルク城の中で、新約聖書を原文からドイツ語に翻訳します。これが現代のドイツ語の元になっていると言われています。

4.福音は神の力
 テキストに戻ります。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」とあります。「ユダヤ人にもギリシア人にも」ということですが、これはユダヤ人は旧約以来の神の民ですが、ギリシャ人は聖書の言葉で言えば「異邦人」です。旧約においては決して救われることのない人々です。しかし、福音はユダヤ人もギリシャ人も区別しない。その人が信じるなら、信じる者すべてを救う神の力なのです。福音は神の力です。思想や哲学や教えといったものではない。神の力なのです。
 神の力とは、実際にそのようにすることが出来るし、そうするということです。ユダヤ人もギリシャ人も関係ない。律法を知っているかどうか、律法を守っているかどうか、そんなことも関係ない。つまり、良い行いを為しているかどうかは、自分が救われるということには何の関係もないのだ。ただ信じることによって、ただ信仰によって救われるのだ。ルターは、自分が神様の力によって、天と地のすべてを造られた全能の神様の力によって、救われることになっている。救われている。そのことを歓喜をもって受け取ることが出来たのです。罪人さえも救う神の力。それこそが、愛する独り子を十字架に架けてまで罪人を救おうとされた絶対的救いの力、絶対の愛なのです。この神様の、絶対的救いの力、絶対の救いの意志、絶対的な愛の前には、その人間がどんな者であるかなどということは五十歩百歩の違いであって、全く意味がないのです。大切なのは、神様の愛を、力を、受け取る信仰だけです。

5.福音に神の義が啓示されている
 17節を見ますと、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」とあります。「福音には、神の義が啓示されてい」るのです。ここで、「再発見された神の義」が決定的な意味を持つのです。福音とは、ただ信仰によって罪人を赦し給う、神の力です。16節でそう言っているわけです。そして、その福音には、神の義が啓示されていると言う。この神の義が、罪人を裁く義しさであったならば、ただ信仰によって罪人を赦し給う神の力である「福音」と「神の義」とは結び付かないのです。しかし、「福音には、神の義が啓示されてい」るのです。ここで告げられる「神の義」が「再発見された神の義」であるならば、全くその通りとなるのです。

6.ただ信仰によって
 そして、罪人をイエス・キリストの十字架の故に義とされる、神様の救いの御業としての福音は、「初めから終わりまで信仰を通して実現される」ということになるのです。「初めから終わりまで」です。初めは信仰によるけれど、その後は人間の努力と良き業によって救いに与るということではないのです。福音によって救いに与るのは、初めから終わりまで、信仰によるのです。この「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」という言葉は、かなり言葉を補って訳されていますが、原文では「信仰から信仰へ」です。私共の信仰者としての歩みは、信仰に始まって信仰に終わる。どこまで行っても、ただ信仰なのです。
 「『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」とハバクク書から引用されていますが、この「正しい人」というのも、「義の人」という言葉です。「義の人」、それは神様によって義としていただいた人のことです。その人は信仰によって生きる、信仰によって救われ、信仰によって神様の御前に生き、信仰によって永遠の命に生きる者となるということなのです。
 ルターは「神の義」を再発見しました。そのことにより、「ただ信仰によって救われる」という、信仰義認の教理へと導かれました。それは、新しいルターの誕生でした。ルターの言葉で言えば、それは「天国の門が開かれた」という体験でした。神はわたしを救おうとの意志を持ち、そのためにイエス様を与え、わたしに信仰を与えてくださった。わたしがどうしたいとか、何をしたという話ではない。神様がそのようにしたいと思い、全能の力をそこに注いだ。注いでいる。イエス様はその為に十字架にお架かりになられた。だから、わたしは救われる。告解するのを忘れて残された罪はどうなるのかとか、そんなつまらないことで悩む必要など全くない。神様がわたしを救うことをお決めになった。わたしはただ感謝をもって、喜びをもって、それを受け取るだけ。信仰さえもわたしのものではない。信仰もまた、神様が与えてくださったもの。すべては神様の御業。何も心配することはない。大いなる大安心が、揺らぐことのない救いの確かさが与えられたのです。この揺るがぬ救いの確かさに支えられて、彼は宗教改革へと進んでいったのです。
 ルターは、ただ信仰から信仰へと歩んで行きました。ルターが見ていたのはただ御国でした。ルターは神の国を見上げて、激しい宗教改革の歩みを、神様の救いの御心を知らされた者として歩み通した。それは、「わたしは福音を恥としない。」と告げたパウロも同じでした。イエス様の十字架と復活による神様の救いの御意志を知らされた者として、福音を伝えることにすべてを捧げたのです。福音を恥としなかったからです。自分の前に開かれた天国の門、これを閉じることなど出来なかったからです。私共もまた、神様の救いの御意志によって、信仰を与えられ、救いに与ることが出来ました。私共の前にも天国の門は開かれています。私共も福音を恥としないのです。福音こそ、私共の誇りであり、喜びであり、希望なのです。この福音の恵みに与る者として、信仰から信仰へと歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2016年11月6日]

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