富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「わが国籍は天にあり」
詩編 103編1〜5節
フィリピの信徒への手紙 3章17節〜4章1節

小堀 康彦牧師

1.召天者記念礼拝
 今朝私共は、先に天に召された愛する者たちを覚えて礼拝をささげております。キリストの教会では、中世以来、11月1日を「諸聖人の日」とし、天に召されたすべての聖人を覚える日として守ってまいりました。プロテスタントの教会においては、「聖人」の意味が変わりまして、洗礼を受けたキリスト者はすべて聖徒、聖人という理解となりました。それで、11月の第一の主の日を先に天に召された愛する者たちを覚えてささげる礼拝、召天者記念礼拝として守る教会が多いのです。しかし、私共は11月1日より前の10月の最後の主の日に、このように先に天に召された方々を覚えて礼拝を守っております。
 皆さまのお手元に、今日覚える先に天に召された方々の名簿があるかと思います。昨年の召天者記念礼拝以降、4名の方がこの名簿に加わりました。今日はそのご遺族の方々もお見えになっています。K・H姉、M・Y姉、M・S姉、O・A姉の4名です。いずれも私が葬式を執り行いました。富山の地を離れて、そちらで葬式をされた方もおられます。改めて、天に召された日のことなどを思い起こしております。

2.眼差しを天に向けよ
さて、私共に今朝与えられております御言葉、フィリピの信徒への手紙3章20節は「わたしたちの本国は天にあります。」と告げております。口語訳では、「わたしたちの国籍は天にあります。」でした。この御言葉によって、私共は眼差しを天に向けることを促されます。今朝、神様によって私共に求められておりますことは、まさにこの「眼差しを天に向ける」ということなのです。私共はこの礼拝の後、教会の墓地に行って墓前祈祷会を行いますけれど、そこでも私共の眼差しは天に向けられるのです。納骨堂の中、墓の中に向けられるのではありません。勿論、納骨堂に行くのですから、納骨堂の中にも入ります。しかし、私共はその納骨堂の中にある遺骨に眼差しを向けるために墓に行くのではないのです。この礼拝堂も、教会の墓地も、そこは私共にとって「天を見上げる場所」なのです。何故なら、天こそが私共にとって希望の場所だからです。この地上のすべてが崩れても、変わることなく在り続ける天。そこに私共の希望があります。そこに目を向けよ。その様に今朝、私共は神様に促されているのです。
 天。それは神様がおられる所、イエス・キリストがおられる所です。そして、私共の愛する、先に地上の生涯を閉じた者たちが召されて行った所です。そして、やがて私共も召されて行く所です。今日はとても気持ちの良い青空が広がっておりますけれど、天は青空のことではありません。生身の人間が行ける所、またはこの目で観察し、この手で触れることが出来る所、それはどんなにこの地上から離れていても、そこは地なのです。聖書が告げる天ではありません。月も火星も遠い遠い銀河も宇宙の果ても、天ではありません。天は、この目で見ることが出来ない、しかし確かにすべての地の上に広がっている神様の世界です。私共の営みのすべては地において為されます。いつもその地の上にあるのが天なのです。良い時も悪い時も、どんな状況を歩んでいるときにも、私共の上には天が広がっている。神様の御支配があるのです。

3.本国は天
 私共の本国はその天だと聖書は告げるのです。口語訳によれば、私共はその天に国籍を持つ者だということです。私共は、日常生活の中で自分の国籍を思うことはまずありません。ですから、蓮舫さんのように、気付いたら二重国籍だったということも起きるわけです。私共が国籍というものをはっきり意識させられるのは、外国に行く時、パスポートを持ち歩く時でしょう。外国に行って初めて、自分が日本人だったということを思わされるということでしょう。本国があるということは、今はここに一時滞在しているけれども、やがては帰るべき国があるということです。とするならば、私共が天に国籍を持つ者である、私共の本国は天であるということは、この地上における生活においてはどこか違和感がある、或いはこの地上の生活がすべてではない、やがて帰るべき本国がある、ここは仮の宿なのだという感覚を持っているということでありましょう。
 私は、このことはとても大切な感覚だと思っています。この地上の生活、この地上の生涯がすべてならば、やがて迎えねばならない死によって、私共のすべては無に帰してしまうということになるでしょう。良く正しく生きようとも、好き勝手に生きようとも、死んでしまえば皆同じということになるでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。それで良いのでしょうか。  聖書は私共に、あなたたちは天国のパスポートを持つ者なのだ、この地上の生涯が終わったならばそのパスポートを持って本国である天に帰る者なのだ、と告げるのです。天に帰るのです。天に行くのではありません。帰るのです。帰るということは、初めて行く所、全く知らない所に行くのではないということです。良く知っている所、本来自分がそこに居るべき場所に戻るということでしょう。私共は天を知っているのです。神様がおられ、イエス様がおられ、愛する者たちがいる所です。神様の御心が完全に支配している所、神様の愛が充ち満ちている所です。洗礼を受けるということ、キリスト者になるということは、この天に国籍を与えられるということなのです。やがて帰るべき所を持つ者となる、この地上の生涯がすべてではない者となるということなのです。

4.この世のことしか考えない者
 一方、この世がすべてだと考える人、そういう人に対して、19節で「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」と告げています。「彼らは腹を神とし」というのは、自分の欲に引き回されている状態のことです。自分の腹を満たすことが生きることのすべてになってしまっている状態のことです。「恥ずべきものを誇りとし」とは、本当は誇りになんてなるはずもないことを誇りとしている状態のことです。神様の御前に立って、私共は何か誇るべきものがあるでしょうか。何も無いのです。私共は自分のことを、時々失敗するけれどなかなかいい奴だと思っているでしょう。それはそのとおりなのだと思います。なかなかいい奴なのです。しかし、聖なる神様の御前に出た時にそれを誇れるかと言えば、そんなこと出来るはずもないのです。でも、そんなしょうもないものを誇りとしてしまっているところが、私共にはあるでしょう。それは、この世のことしか考えていないから、神様の御前にきちんと立つということが分からないからなのです。だから、目に見えるものを誇りとし、それを手に入れることに自分の人生のすべてを注いでしまうという、まことに残念な、愚かな歩みをしてしまうのでしょう。
 そして、この様にこの世のことしか考えられない、その行き着く先は「滅び」でしかない、と聖書は明言します。それは、死によってすべてが終わってしまう、滅んでしまう人生だということです。この世のことしか考えられなければそういうことになってしまうでしょう。この世がすべてなのですから。それは、死と共に滅びるしかない。

5.天に眼差しを向ける人生
 しかし、私共はそのような歩みから、天に眼差しを向ける人生へと召し出されました。この世がすべてではない人生です。それは、主イエス・キリストの御復活によって拓かれた新しい世界です。イエス様は十字架に架かり三日目に復活して、死では終わらない命があることを明らかに示し、そこに私共を招いてくださったのです。イエス様は、「わたしは死から復活した。だから、わたしを信じ、わたしとひとつになるならば、あなたもこの復活の命に与る者となる。死によって終わることのない命に生きることになる。」そう言って私共を招いてくださったのです。私共が今朝覚えている、先にこの地上の生涯を閉じた愛する者たちもまた、このイエス様の招きに応えて、眼差しを天に向けて、この地上の歩みを為していったのです。ですから私共は、今その人たちが天の父なる神様の御許で憩うていることを信じるのです。そして、愛する者たちを思い起こすということは、父なる神様とイエス様がおられ、愛する者たちも召されていった天に、私共の眼差しを向けるということなのです。
 この「眼差しを天に向ける」ということは、同時に、眼差しを将来に向けるということでもあります。その将来とは、自分の子や孫が大きくなった将来とか、年金生活をするようになった将来とかではありません。そうではなくて、私共が見上げる天からイエス様が再び来られる、救い主として来られる時のことです。この時、何が起きるのかと申しますと、20節b〜21節「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」とあります。私共のこの体、タンパク質から出来ていて、やがて必ず死を迎える、朽ちていく体、これを聖書は「卑しい体」と言っています。何と、その私共の体がイエス様の体、つまり復活された体、天に昇られた体、栄光の体に変えられるというのです。それが具体的にどんな体なのか、私共にはよく分かりません。私共の科学的な知識の外にあることであることは間違いありません。それは、神様のおられる天を地上から何千メートルというあり方では決して把握出来ないのと同じです。はっきりしていることは、復活されたイエス様の体、天に昇られたイエス様の体と同じ体にされるということです。もちろんその体は、最早死ぬことのない体です。永遠の命の体です。
 ここで大切なことは、この私共が変えられるのは、ただ体だけのことではないということです。ここには体のことしか記されておりませんけれど、いくら体が栄光の体、復活の体、永遠の命の体に変えられたとしても、私共自身の中身と申しますか、人間性と申しますか、性格と申しますか、それが今と同じならば、それは決して待ち遠しいことではないでしょう。このままの自分が永遠に生きる。自分の欲に引きずり回され、争い、ねたむ。それが永遠に続く。それは地獄でしょう。ここで私共の体がイエス様の体と同じ体に変えられるということは、その中身も人間性もまた、イエス様に似た者へと造り変えられるということなのです。これがつまり、救いの完成ということです。私共の眼差しは、そこに向けられるのです。私共の眼差しは、空間的には天に、そして時間的にはイエス様が再び来られる時に向けられるということなのです。

6.主によってしっかりと立ちなさい
 パウロは、このことを告げるとすぐに、4章1節「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」と言うのです。「主によってしっかりと立ちなさい。」それは17節で言われていることと同じです。17節「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」とあります。パウロは、自分をモデルとして提示します。そして、自分のように歩むことが「主によってしっかりと立つ」ということだと言うのです。では、一体パウロは自分の何をモデルにせよと言うのでしょうか。それは、パウロの性格といったものではありません。人間はどんなに偉い人でも欠けを持っているものです。神様の御前に誇れるところなど少しもないのが私共です。そのことをよくよく知っていたパウロです。だったら、パウロは自分の何をモデルとして提示しているのでしょうか。それは、端的に言えば、信仰ということになるでしょう。また、今までお話ししてきたことで言えば、私共の眼差しということでしょう。天を見上げ、主が再び来られる時に眼差しを向けて生きるということです。この世のことしか考えない、自分の損得しか考えられない、そのような自分と決別するということです。
 しかし、その様なことが私共に出来るでしょうか。パウロはここで「しっかりと立ちなさい」と言うのですが、その前に「主によって」という言葉を付けているのです。これが大切です。私共の信仰の歩みは、自分で頑張って、歯を食いしばって歩み通すということではありません。私共の歩みのすべてを支配し、導いてくださるのは「主イエス・キリスト」です。イエス様が道を拓き、招き、共にいて導いてくださるのです。私共は、このイエス様の御手にあることを信頼して、安んじて祈りつつ、御国に向かって歩んでいけば良いのです。
 確かに、私共の眼差しは天に向いている。それは、そうさせようとする力が、天から私共にいつも働きかけてくださっているからです。それに対して、この世のことしか考えさせないようにする誘惑がある。「天じゃなくて、この地上の現実が大切なんだ。」「イエス様が来られる将来なんかではなくて、今日のこと、明日のことを考えろ。火の車じゃないか。」目の前の現実は大切です。その目の前のことにしっかり対応していかなければなりません。しかし、それがすべてではないのです。それなのに、それがすべてであるかのようにそそのかすのは、罪の誘惑であり、サタンの誘惑です。残念ながら、私共はこの誘惑に勝つことは出来ません。しかし、イエス様は勝たれます。神の独り子ですから、負けるはずがありません。ですから、パウロは「主によってしっかりと立ちなさい。」と言ったのです。主に依り頼んで、主の守りと支えを求めて、主と共に歩んでいくなら、全く心配はいりません。私共の信仰は、どこまでも「主によって」なのです。主によってしっかり立たせていただき、天に眼差しを向けつつ、この週もそれぞれ遣わされた場所において歩んで参りましょう。

[2016年11月30日]

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