富山鹿島町教会

礼拝説教

「祈りによる挨拶」
詩編 122編1〜9節
テサロニケの信徒への手紙 一 5章23〜28節

小堀 康彦牧師

1.祈りに始まり、祈りに終わる
 共々に読み進んでまいりましたテサロニケの信徒への手紙一も今週で終わります。来週は召天者記念礼拝ですが、その次からはマタイによる福音書に戻ります。
 今朝与えられております御言葉は、テサロニケの信徒への手紙一の最後の所です。手紙を終えるにあたっての挨拶と申しますか、新共同訳の小見出しでは「結びの言葉」となっています。パウロの手紙の最後には、必ずこの「結びの言葉」があります。そして、その言葉は「祈りの言葉」になっているのです。この手紙の最初を見ますと、1章1節「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。」とありますように、差出人と宛先を記してすぐに、短い祈りが記されています。「恵みと平和が、あなたがたにあるように。」です。そして、この手紙の一番最後もまた、5章28節「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。」という祈りの言葉で終わっています。パウロの手紙はどれもそうなのですけれど、祈りに始まり、祈りで終わる、そういうスタイルをとっているのです。
 そして、この手紙のスタイルは、キリスト教会における手紙の形となりました。今でも私共が手紙を書く場合には、この形を用いております。牧師は教会間の公式の手紙を書くわけですが、神学校を出て最初に学ばねばならないのが、この手紙の書き方です。神学校では、手紙の書き方まで教えてはくれません。しかし「前略」で始めるわけにはいかないのです。そのような手紙を出せば、常識を疑われます。日本人としての常識ではありません。キリスト者としての常識、牧師としての常識です。教会の手紙、キリスト者の手紙は、祈りをもって始め、祈りをもって閉じる手紙なのです。それは、この手紙に記されていることが神様の御前で告げられることであり、主にある愛の交わりを前提として記されているということであり、祈りの中で記されたということなのです。手紙に記される祈りの挨拶は、教会ではそういうことになっているからといった、単なる習慣によって記されるものではないのです。それは挨拶ではありますが、祈りの挨拶、まさに祈りなのです。この手紙を出す相手との間には、祈りの交わりがあるということなのです。その祈りをもって、この手紙は書かれたということなのです。

2.祈り祈られる交わり
 そのことをはっきり示しておりますのが、25節の言葉です。「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。」とあります。パウロは、「わたしたちのためにも祈ってください。」とテサロニケの教会の人たちに願うのです。ここでの「わたしたち」というのは、この手紙の共同の差出人として1章1節に名前が出ている、パウロ、シルワノ(=シラス)、テモテのことでしょう。彼らはテサロニケ伝道に関わった伝道者たちです。彼らは自分たちが伝道したテサロニケの教会の人々のために祈っています。そして、同時に自分たちのためにも祈って欲しいと願うのです。この「わたしたちのためにも祈ってください。」という言葉は、ローマの信徒への手紙15章30節、エフェソの信徒への手紙6章19節、コロサイの信徒への手紙4章3節、テサロニケの信徒への手紙二3章1節にもあります。
 パウロは大伝道者でありますけれど、自分の力で立っている、自分の能力で伝道している、そんな風には全く考えておりませんでした。自分はキリスト者を迫害していた者であり、本来イエス様の救いの御業に仕えることなど出来るはずもない者だと考えておりました。しかし、召されて、イエス様の御用に用いられている。それはまことに畏れ多く、ありがたいことだと思っておりました。ですから、自分の力や能力で主の御業にお仕えすることなど出来るはずもなく、それ故にパウロは、どうしても祈りによる支援、祈りの助けを必要としていたのです。
 それはすべての伝道者に言えることです。祈りによる支援、助けを必要としない伝道者など一人もおりません。ですから、どうか皆さんも私のために祈ってください。週報にはいつも今週の牧師の予定が記されます。それは、皆さんに祈って欲しいからなのです。日々の祈りの中で、牧師は今日はこの御用に当たっているということを覚えて、祈っていただきたいからなのです。私は伝道者になって30年になりますが、主の日に体の具合が悪くて講壇に立てなかった日は一回もありませんでした。御言葉が与えられずに原稿無しで講壇に上がったこともありません。いつも御言葉が与えられ、講壇に上がり、御用に仕えることが出来る。それは祈られているからだと思っています。ありがたいことです。私共は、自分が祈っていることは分かりますけれど、自分が祈られているということには、あまり気付いていないのではないかと思います。しかし、皆さんも祈られているのです。実に、祈り祈られる交わりこそ、教会の交わり、キリスト者の交わりなのです。

3.全く聖なる者としてください
 さて、パウロはどんな祈りの中で、つまりテサロニケの教会の人々がどうあることを願い求めて、この手紙を書いたのでしょうか。それは、5章12節以下の所にずっと記されていることでありますけれど、それを23節aで簡潔に記しております。それは「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。」ということです。
 ここでパウロは、神様を「平和の神」と呼んでおります。私共の神様は、私共に平和を与えるお方です。そして、このお方の中にまことの平和があり、このお方と共にあることによって私共も世界も平和になるのでしょう。そして、次に「聖なる者」というの言葉ですけれど、聖書において「聖なる者」とは、神様しかおりません。私共が「聖なる者」になどなれるはずもありません。ですから、この「聖なる者」というのは、ただ独りの聖なる神様のものとされた者ということであり、同時に、聖なる神様の聖さに与る者ということです。つまり、平和の神のものとされた者たちの集まりが教会なのですから、教会の中にはこの神様の平和が満ちていなければなりません。しかし、そうは言っても、教会の中でこの平和が破られることがある。地上にあるということは、そういうことです。私共の教会は天国じゃないのです。しかし、そうであるが故に、私共はこう祈らなければならないのでしょう。「平和の神が、わたしたちを、全く聖なる者としてくださいますように。」これが今朝、私共に与えられた祈りの言葉です。この祈りと共に、教会はこの地上の歩みを為していくのです。
 この「全く聖なる者にしていただく」ということは、その次に続いて記されている「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいます」ということです。「霊も魂も体も」というのは、要するに、私共の「存在のすべて」がということでしょう。心も体も生活のすべてがということです。それが「欠けた所が何一つない」、「非のうちどころのないもの」にしてくださると告げるのです。本当に私共はそのような者に成れるでしょうか。とても無理。そう思う人がいたら、その人の感覚は正しいです。私共は、頑張って、努力してその様な人になることは出来ません。しかし、ここでパウロが言っているのは、そのようになるのは「主イエス・キリストの来られるとき」なのです。しかも、そのようにしてくださるのは神様御自身なのです。私共が頑張ってそういう人になりましょう、という話ではないのです。24節「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」私共を招き、私共をイエス様の救いに与らせてくださった方は、真実な方です。ですから、私共を必ずそのようにしてくださるのです。神様が真実な方である。それが私共の信仰の最も大切な根拠です。神様が真実でなければ、私共の信仰は成立しません。聖書が書かれたときには神様はその様に考えていたが、今はその様には考えていないということであるならば、私共の信仰は成立しないでしょう。神様は真実な方なのです。約束されたことは、必ず実現してくださるのです。私共はそのことを信じて、安んじてイエス様が再び来られるのを待てば良いのです。この地上にあっては私共は、全く聖なる者になることは出来ません。しかし、イエス様が再び来られる時、神様は私共をそのように造り変えてくださるのです。私共はそのことを信じて良いのです。

4.イエス様の再臨の待ち方
 私共はイエス様が来られるのを待つのです。しかし、この「待つ」というのは全く受け身です。自分でその時を来たらせることは出来ないからです。しかし、だからといって、ただボーッとしていれば良いのか。そうではないでしょう。イエス様が来られるのを待つ私共は、ただボーッとしていれば良いのではなくて、まさに「全く聖なる者」とされる日を待ち望む者として待つ、つまり「待ち方」があるということでしょう。その「待ち方」について、どのようにしてイエス様を待つのか、そのことをパウロはこの手紙に記したのです。それが、5章6節にある「目を覚まし、身を慎んでいましょう。」であり、5章8節「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」であり、13節「互いに平和に過ごしなさい。」であり、16節以下の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というようなことなのでしょう。
 @待つ=父なる神様の期待に応えて
 このイエス様が来られるのを待つには待ち方があるということは、このように言っても良いと思います。私共は既に「全く聖なる者」として、神様に認めていただいています。それは、イエス様の十字架によってです。イエス様を着た者としてです。イエス様が私共の一切の罪を被ってくださったからです。ですから、神様は既に私共を「全く聖なる者」として見てくださっているのです。これが信仰義認ということです。しかし、私共の実際の姿、現実の姿はとても「全く聖なる者」と言えるようなものではないわけです。だったら、どうするのか。「全く聖なる者」と見なしてくださる方の心に適うように歩みたいと思うでしょう。それが、私共と神様との間に愛の交わりがあるというしるしなのです。それはちょうど、幼子が親の期待に応えようとするのと同じです。親の期待なんて関係ないという子供はいません。1歳になった子どもが、一歩二歩と歩くようになる。父も母も手を叩きながら、こっち、こっちと言って歩かせようとする。2歩、3歩と歩くと大喜びする。その声援に応えようとして、幼子はまた歩こうとするわけです。
 A待つ=備える
 あるいは、こう言っても良いでしょう。今年も秋になってきたと思う日々ですが、秋になったということは冬が来るということ。そのことを私共は知っておりますから、秋が深くなれば冬支度をするわけです。富山ですと、最近は昔ほど雪も降りませんし、大げさな冬支度はあまり必要ないのかもしれませんけれど、冬用の車のタイヤを用意したり、暖房器を用意したり、庭の木の雪吊りをしたりするわけです。昔はもっともっと大変だったと思います。一番大変だったのは食料と燃料の確保だったでしょう。冬の間の保存食を作っておかなければなりませんでし、冬の間中の燃料を貯めておかなければなりませんでした。冬を待つ。それは冬に備えるということでした。それと同じように、イエス様が来られるのを待つというのは、その日に備えるということです。それが、私共の待ち方なのです。冬支度も冬が来てからでは遅いように、イエス様が来られる日に備えるのも、イエス様が来られてからでは遅いのです。その日に備えて、御心に適う者としての歩みを御前に整えていくのです。
 もちろん、地上にあっては私共は欠けがあります。しかしそれでも、備える者として歩むのと、備えることを知らない者として歩むのとでは大きく違っていくことでしょう。 この違いこそが、私共を「世の光、地の塩」として立てていくことになるのです。世の人々と全く同じならば、世の光にも地の塩にもなり得ないでしょう。しかし、その上でなお確認しておかなければならないことは、私共を全く聖なる者にしてくださるのは神様だということです。この神様の御業を信頼して、「平和の神御自身が、私共を全く聖なる者としてくださいますように。」と祈りつつ、為すべきことを為していくということなのです。
 では為すべきこととは何なのか。ここで二つのことが記されています。

5.互いに愛し合う、平和な交わりを形作る
 第一に、26節「すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。」とあります。「聖なる口づけ」とは多分、礼拝の中で為されていたものではないかと思われます。ローマ・カトリック教会などには、今も礼拝の中で、「平和の挨拶」と呼ばれるものがあります。礼拝の中で、「平和の挨拶をいたしましょう。」と司式者が言いますと、会衆が前後左右の人と「主の平和。」と言って挨拶を交わすのです。日本では、目くばせ、お辞儀、握手までですが、欧米では抱き合って為されることも多いのです。多分、その元になったものが「聖なる口づけ」だろうと思います。礼拝の中で、神様に愛され、兄弟とされた、姉妹とされた人同士が口づけしてお互いの間の愛と平和を表した。その「聖なる口づけ」で互いに挨拶しなさいとは、礼拝の心をもって、互いに愛し合い、互いに平和な交わりを形作りなさいということです。それが、イエス様が来られるのを待つ者としてのキリスト者の、キリストの教会のあり方なのです。

6.御言葉に聞く
 そして、もう一つは27節に記されています。「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。」これは御言葉に聞いていきなさいということです。
 このテサロニケの信徒への手紙一は、ここに記されていることから分かりますように、礼拝の中で読まれたと考えられます。この手紙は、新約聖書の中で最も早く記されたものです。それが礼拝の中で読まれた。この手紙を読み聞かせられたテサロニケの教会の人々は、神様の御前に歩む自らの姿を省み、正されていったことでしょう。また、パウロを通して告げられた福音の恵みを、改めて心に刻んだに違いありません。皆さんは、この手紙は何回ぐらい読まれたと思いますか。一度読まれたらそれで終わり、ということではなかったはずです。何度も何度も読まれたに違いない。そうして、この手紙には力があることが明らかにされていったのです。そして、やがて新約聖書というものになっていった。そう考えて良いと思います。そして、この手紙はテサロニケの教会だけではなくて、書き写されて、色々な教会で読まれていったのでしょう。
 この手紙が書かれた当時、まだ新約聖書はありませんでした。そのような中、パウロはこの手紙を読み聞かせるように強く命じたのです。多分、文字を読める人も多くはなかったのでしょう。ですから、読んで聞かせる必要があった。そして、それは礼拝の場であったと考えるのが自然です。御言葉が礼拝で告げられ、それに聞く。それが私共の待つ姿勢なのです。

7.この手紙の目的
 パウロはこの手紙を終えるに当たって、御言葉に聞いて、互いに祈り合って、愛と平和の交わりを形作りつつ、イエス様が来られるのを待つこと、それがイエス様に救われた者の姿であるとテサロニケの教会の人々に告げました。ここに、この手紙が書かれた目的、この手紙がどうしても伝えたかったことがあると思います。
 パウロによって伝道されたテサロニケの教会でした。パウロは、このイエス様の救いに与った人々が、その恵みの中にとどまり続けるように、信仰を保持し、御国に向かって歩んで欲しい、そう願ってこの手紙を書いたのです。そして、そのためには、御言葉に聞いて、互いに祈り合って、愛と平和の交わりを形作って、イエス様が来られるのを待つのだ。それがパウロの、テサロニケの教会の人々に言いたかったことでした。そしてこのことを、キリストの教会はパウロ以来、ずっと大切なこととして受け継いできたのです。私共も、そのような群れとして歩んでまいりたいと思うのです。そして、ここに立ち続けるために必要なこと、それは「主イエス・キリストの恵みが私共と共にある」ということです。主イエス・キリストの恵みとは、即ち、信仰・希望・愛であり、罪の赦しであり、何よりもイエス様御自身がこの群れのただ中にいてくださるということでありましょう。この主イエス・キリストの恵みの中で、私共もまた、代々の聖徒たちと共に、イエス様が再び来られるのを待ち望んでまいりたいと願うのです。

[2016年10月23日]

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