1.見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び。
今、詩編133編をお読みしました。この詩編には「都に上る歌」というト書きがあります。つまりこの詩編は、イスラエルの人々がエルサレム神殿に詣でる旅の途中、歌いながら歩いた歌なのです。とても短い歌ですから、繰り返し繰り返し歌ったに違いありません。もう35年程前になるでしょうか。イスラエルへ聖地旅行に行った牧師が、この詩編にメロディーが付いた歌がイスラエルでとても流行していて、どこに行っても歌っていた、自分も覚えてきたと言って、へブル語の歌を口移しで教えてくれました。それが、讃美歌21の161番として収められています。その楽譜を見ると分かりますように、この歌はエンドレスなのです。それこそ何回も何十回も繰り返し歌うのです。「見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び。」とひたすら歌うのです。
この兄弟とは、言うまでもなく、信仰による兄弟姉妹のことです。私共は主の日の度毎にここに集い、共に祈りを合わせ、賛美をし、主なる神様を礼拝しております。これは実に、「何という恵み、何という喜び。」と歌わねばならないほどの出来事なのです。それは、ここに終末における救いの完成の先取りがあるからです。もちろん、この礼拝そのものが終末において為されるわけではありません。終末においては、私共は、イエス様に似た者に変えられて、顔と顔とを合わせるように、父なる神様・イエス様と親しく交わり、礼拝する。代々の聖徒たちも共に礼拝する。万軍の天使たちも共に礼拝する。その賛美はどれほど大きな響きでありましょうか。想像するだけで、身震いするほどです。その天上における礼拝を先取りするものとして、それを指し示すものとして、この主の日の礼拝があるのです。
2.変わっていく教会
教会とは、何よりも主が再び来たり給うを待ち望みつつ、それを先取りする礼拝を捧げる共同体です。礼拝共同体です。また、信仰を同じくする者たちによる、信仰共同体です。代々の聖徒たちは、礼拝共同体として、信仰共同体として、教会がきちんと建っていくことが出来るように様々な工夫をし、知恵を出し、そして何よりも聖霊なる神様の導きの中で、その姿を整えてまいりました。その意味では、現在の教会の姿と千年前、千五百年前、或いは新約聖書が記された二千年前の教会の姿は、違っていることでしょう。しかし、願っていること、目指していること、それは少しも変わっていないと思います。礼拝共同体・信仰共同体としてしっかり建つ、キリストの御支配が明らかになるような共同体を建て上げていく、その思いは少しも変わらない。これは、現在の私共の教会の言葉で言えば、「教会形成」ということになるでしょう。教会をキリストの体にふさわしいものに整えていく。人間の思いや力が支配するのではなく、ただキリストの御支配が現れる教会として建てていく。御言葉が御言葉として語られ、聞き取られ、それに従う群れとしての教会です。私共はそれを目指して歩んでいるわけです。しかし、地上にある教会は、決して完成されることはありませんので、いつもそこを目指して前進中、形成途上ということになります。
このことは、とても大切なことを私共に教えます。それは、私共が求めている教会の姿は、宗教改革の時代にあった教会でもないし、使徒たちの時代にあった教会でもないということです。私共は、宗教改革によって生まれた改革派、長老派の教会の伝統を大切にします。しかし、カルヴァンが宗教改革をした十六世紀のジュネーヴの教会を目指しているのではないのです。それは、使徒時代の教会に対してもそうです。そうではなくて、使徒の時代の教会も宗教改革時代の教会も、目指していたのは天上の教会でした。終末において完成される教会を目指していた。そこを目指すが故に、自らの欠けを知らされ、新しい形を求めて工夫もし、整え続けてきたということなのです。そしてその営みは継続中ですから、私共もまた変わっていくのです。変わることが目的ではありません。しかし、終末において完成される教会を目指す以上、教会は変わって行かざるを得ないのです。
3.具体的な勧め
今朝与えられております御言葉は、パウロがテサロニケの教会に具体的なアドバイスをし、勧めをしている所です。
パウロの手紙の多くは、具体的な教会に宛てて書かれたものです。パウロはその教会の状況を知っています。その上で、手紙を書いている。今、聖書を学び祈る会で学んでおりますローマの信徒への手紙は、例外的に、自分が行ったことのない教会に宛てて書かれています。ですから、ローマの信徒への手紙は、体系的に論理的に整った形で記されておりますし、12章以下の倫理的な勧めにいたしましても、一般的な記述になっていると思います。しかし、それ以外の手紙は、具体的な状況があって、それをパウロは心配して、このことを気を付けなさい、そのような思いで具体的な勧めが記されているのだと思います。ですからパウロは、こういうことに気を付けていかないと、テサロニケの教会がキリストの体なる教会としてきちんと建っていかない。キリストの御支配が現れない。礼拝共同体・信仰共同体として建っていかない。そう考えたことをここに記したと考えて良いと思います。
そう思って12節以下を読んでみますと、テサロニケの教会も、地上にある教会として決して理想的な教会というようなものではなかった、欠けや問題・課題を持つ教会だったということが少し見えてくるのではないかと思います。
4.教会の秩序
12〜13節「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。」とあります。ここで「兄弟たち」と呼びかけられているのは、テサロニケの教会の人々です。パウロは、テサロニケの教会の人々に「お願い」するのです。どうか、こうして欲しい。そうお願いしているのです。それは逆に申しますと、パウロから見ると、この点においてテサロニケの教会は少し危ういと見えたからでありましょう。何が危ういのかと申しますと、「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじる」、その点において危ういと思った。また、そのような人を「愛をもって心から尊敬する」という点において危ういと思った、ということなのです。「あなたがたの間で労苦」している人々、「導き戒めている人々」とは、今で言えば牧師や長老・執事という人々を考えて良いでしょう。もちろんこの時代には、制度として確立したようなあり方で牧師や長老や執事がいたわけではないでしょう。ここで言われているような務めに立てられる人が、後に牧師や長老や執事という制度になっていったと考えて良いと思います。ですから、これはつまり、テサロニケの教会の長老や執事といった人々を教会員が重んじ、心から尊敬する。この点において、テサロニケの教会に対してパウロは危うさを感じていたということなのではないかと思うのです。
これは教会の秩序の問題と言っても良いでしょう。牧師や長老・執事といった人々が教会で重んじられることがないと、教会は混乱するでしょう。また、そのような人々を教会員が愛をもって心から尊敬するということがなければ、教会の中に対立や分裂ということが起きてしまいます。だから、「互いに平和に過ごしなさい。」とパウロは言っているのです。
牧師や長老・執事が重んじられ、愛をもって心から尊敬される。それは当然のことだと思いますけれども、しかし、これを牧師や長老・執事の方から「このように聖書に書いてある。わたしたちを重んじなさい。愛をもって心から尊敬しなさい。」と言い始めたら、それもまた、おかしなことでしょう。何故なら、教会の秩序というものは愛の秩序であり、イエス様に従うところの秩序だからです。イエス様御自身、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た。」(マタイによる福音書20章28節)と言われ、御自分の命を十字架の上で献げられました。このイエス様の愛によって立てられ、これに倣うことによって立てられる秩序が、教会の秩序なのです。上に立つ者が仕えるのです。それがイエス様によって与えられた教会の秩序なのです。
このことを最もはっきり表しているのが、聖餐式の有り様です。私共の教会聖餐式は、長老が教会員のもとにパンと杯を配ります。これは長老が信徒の方々に給仕をするということです。教会員に仕える者としての長老の姿がそこにはあります。そして、牧師はその長老たちにパンと杯を配る。つまり牧師が長老たちに給仕をして、長老たちに仕えるのです。これが私共の教会の秩序なのです。誰よりも労苦し、働いている者、仕えている者、それが重んじられ、尊敬される秩序なのです。その先頭に、あの十字架のイエス様、弟子たちの足を洗われたイエス様がおられるのです。
5.戒め、励まし、助け、忍耐強く接しなさい
次に14節を見てみましょう。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」ここでもパウロは「兄弟たち」と呼びかけています。この「兄弟たち」とは多分、12〜13節で言われていた教会の牧師、長老・執事のような人々のことではないかと思われます。しかし、それだけに限定する必要はなく、教会員全員がこのような務めを負っていると考えて良いのだと思います。
第一に言われているのは、「怠けている者たちを戒めなさい。」です。誤解を与えかねませんので丁寧に説明しますが、これはいわゆる教会の奉仕をしない人に向けて言われている言葉ではありません。教会で奉仕をしない人に対して「あなたは怠けている。もっと奉仕しなさい。」そんなことを言われたら嫌でしょう。そんな教会には行きたくないですよね。そうではなくて、これはテサロニケの信徒への手紙二3章11〜12節に「ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」とありますように、教会の援助に依存して生活しようとする怠惰な人がテサロニケの教会に現れたのです。困ったことです。そういう人に向けての言葉です。勿論、心や体に課題があって働けない人、そういう人を指してはいません。共に御国に向かって歩む足並みを、自分の勝手気ままで乱してしまう人のことを指しているのです。
第二に、「気落ちしている者たちを励ましなさい。」とあります。この「励ます」という言葉には、「慰める」という意味もあります。キリスト者はこの地上の歩みにおいて、様々な誘惑にも遭うのです。霊的にいつも元気でいるとは限らない。しばしば、心がうなだれてしまうこともある。そういう時、私共はこの教会の交わりの中で慰められ、励まされ、再び立ち上がっていく。主に結ばれた者の交わりとは、そういうものでしょう。ここに教会の必要性があるのです。私共は、独りでは本当に弱いのです。慰めを、励ましを必要としているのです。
第三に、「弱い者たちを助けなさい。」この「弱い者」というのは、「信仰が弱い者」ということでしょう。信仰が弱く、キリスト者としての生活を確立することが出来ない人。或いは、すぐにつまずいてしまうような人。そういう人を教会は助けるのです。そういう人に寄り添って歩みなさいと言われているのです。こんなことも出来なくてどうする、そんな風に接するのではないのです。寄り添って、同じ歩調で歩んでいくのです。
第四に、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」と言われています。「忍耐強く接しなさい」という言葉は、口語訳では「寛容でありなさい」と訳されていました。怠けている人、気落ちしている人、弱い人、教会には色々な人がいるのです。そういう人たちを愛し、受け入れ、忍耐強く接する。これがどうしても必要なことだとパウロは言うのです。
6.イエス様に従う群れとして
この「怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」という言葉には、牧会者パウロの姿が良く現れていると思います。私は牧会者として、これらの言葉を自分に向けられた言葉として聞かざるを得ないのです。確かに、牧会者としてこの様に教会員一人一人と接していかなければいけないのだなと思う。でも、現実はそれとはほど遠い自分の姿があるわけです。牧会者として自分はダメだな、向いていないな、そんな風に思ってしまうのです。この言葉を読んで、自分はちゃんとやれていると思う牧師は、多分いないと思います。
きっとテサロニケの教会の長老・役員の人たちも、このように言われると、自分は向いていないのではないか、自分にはとても出来ない、そんな風に思ったことでしょう。しかし、パウロはこのように告げているわけですけれど、彼自身がこのようなことを完璧に出来た牧会者だったのだろうかと思いますと、そうでもなかったのではないかと思うのです。他の手紙などを読んでも、パウロという人はとても激しい人です。ということは、パウロはここで、単に自分の経験に基づいて、いわゆる牧会者・伝道者の先輩として、先輩面をしてテサロニケの教会の責任ある人々に向かってこのように言っているのではないだろうと思うのです。そうではなくて、パウロはここでイエス様を見ているのです。イエス様の御支配が現れる所が教会なのだから、イエス様に従う群れとして整えるために、群れの頭であるイエス様がこの群れの一人一人を愛されるように愛していくなら、当然このようなことに注意を払っていかなければならないということなのです。
7.悪をもって悪に報いず
そして、このことは15節において、いよいよはっきりしてきます。「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」悪をもって悪に報いず、いつも善を行うように努める。これは「お互いの間でも、すべての人に対しても」とありますように、教会の中でも外でも、ということです。
実にイエス様は十字架の上で、自分を十字架に架けた人たちのために父なる神様に向かって、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)と祈られました。このキリストの体としての教会でありますから、この教会において私共は悪をもって悪に報いることから決別しなければならない。復讐はしないし、考えないのです。そういう新しい命に生きる者とされたのです。これが、イエス様の新しい命に生きる者とされた私共の、新しい生き方なのです。イエス様の御支配を現す者として召された私共なのです。
そうは言っても、思い出すだけで腹が立って眠れない、そういう時だってあるかもしれません。人生の中で、そう多くはないでしょうが、そういう時もあるかもしれません。そんな時はどうするのか。なかなか難しい問題です。しかし、こういう時はどうするのかと問う人も、本当はどうすれば良いのか知っているのだと思います。ただ、そうしたくない、そんな思いがあるのでしょう。こんな時はどうしたら良いか。祈るしかないでしょう。「神様、腹が立ちます。許せません。仕返しがしたいです。ギャフンと言わせたいです。」そう祈ったら良いのです。正直に、激しい心のままに、その思いをイエス様に告げたら良いのです。神様の御前に心を注ぎだしたら良いのです。そうすれば、イエス様は必ず応えてくださるでしょう。「わたしはあなたのために十字架についた。わたしに従って来なさい。」この御声を共に聞き、この御声に従う者の群れ。それがキリストの教会です。だから、地の塩、世の光なのです。そういう者として私共は召されたのです。
[2016年10月9日]
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