1.はじめに、礼拝について
今日は伝道礼拝ということで、あまり日曜日の礼拝に出席されたことのない方、或いは全く初めてという方もおられるかと思います。そのような方にとっては、讃美歌も初めてで歌えないし、何をやっているのかよく分からない、そんな風に感じておられるかもしれません。40年前に、初めて教会の礼拝に出た時の私もそうでした。この礼拝の流れと申しますか、そこで為される一つ一つのことには意味があります。しかし、初めて来てそれが分かるというわけにはいかないでしょう。でも、何度か集われる内に、すぐに慣れることだろうと思います。その意味でも、是非、引き続きこの礼拝に集っていただきたいと思います。
この礼拝の中で多くの時間を占め、中心的な位置にあるのが、この説教です。「説教」というのは、学校の先生が悪さをした生徒に行う、いわゆる「お説教」ではありません。そんなものなら、誰も聞きたくありません。そうではなくて、聖書の言葉を語り直し、説き明かし、神様の御心を明らかにすることです。神様は、その御心を私共に示すために聖書を与えてくださいました。そこには神様の姿、御心があります。それだけではありません。そこには、私共自身の姿も記されているのです。それは私共自身も気付いていないような、本当の私共の姿です。それを、明らかにして、解き明かす。それが説教です。そして、一緒に神様を拝むのです。礼拝というのは、まさに神様を拝むことです。そのための説教です。今から御一緒に、今朝与えられている聖書の言葉に聞いてまいりたいと思います。
2.イエス様の祈りの中に置かれていた弟子たち
22〜23節「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」とあります。実は、この出来事の直前で、イエス様は大人の男だけでも五千人の人たちに食事を与えられました。たった五つのパンと二匹の魚で皆を満腹にしたという、イエス様の為されたとても有名な奇跡です。今朝はこの出来事について語る時間はありませんけれど、多分この出来事は、ガリラヤ湖という湖の近くで為されたのだと思います。大人の男だけで五千人、女子供を入れれば一万人以上の人たちが、たった五つのパンと二匹の魚で満腹になるという不思議を目の当たりに見て、人々も弟子たちも相当興奮したに違いありません。イエス様はその群衆を解散させてから、弟子たちを舟に乗せてガリラヤ湖の対岸へ行かせました。この舟は、湖の漁に使うためのものだったでしょうから、十二弟子が一度に乗ることは出来なかったと思います。二艘あるいは三艘の舟に分かれて乗り込んだことでしょう。この時、イエス様は「祈るためにひとり山にお登りになった」のです。群衆は解散し、弟子たちは舟に乗り、イエス様はひとり山に登って祈られた。イエス様は何を祈られたのでしょうか。それはすぐ後で分かります。
24節「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」とあります。弟子たちの乗り込んだ舟は、逆風と波によって前に進めない、そういう状況に陥っておりました。1スタディオンは今の長さに換算しますと185mですから、陸から1kmくらいの所で、弟子たちの乗った舟は前にも進めず困り果てていたのです。イエス様の弟子の中の何人かは、このガリラヤ湖の漁師でしたから、舟を操ることはお手の物でした。その彼らをしても、どうにもならないほどの強い逆風、激しい波だったということです。真っ暗な夜の湖上、波は逆巻き、逆風は吹き続ける。ちっとも前に進めない。
この時、イエス様はどうしておられたでしょう。山に登って祈っておられた、と聖書は記します。何を祈っていたのか。色々なことを祈っておられたことでしょう。そのすべてを知ることは私共には出来ません。しかしはっきりしていることがあります。それは、イエス様は御自分の弟子たちのことをもこの時祈っておられたということです。もっとはっきり言えば、イエス様は、祈るというあり方で弟子たちと共におられ、弟子たちの困難な状況を知り、その上で弟子たちを御自分の守りの御手の中に置いておられたということです。
弟子たちはガリラヤ湖の水の上、そしてイエス様は山の上。弟子たちとイエス様との間には、1キロ以上離れた空間があります。時は夜です。弟子たちにはイエス様は見えません。この時弟子たちは、「自分たちはイエス様と離れている」、そう思っていたことでしょう。どこにも見えないのですから当然です。しかし、それと同じことがイエス様にも言えるでしょうか。イエス様には、遠く離れた弟子たちが今どういう状況に置かれているのか分からなかったのでしょうか。そんなはずはないのです。25節「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。」とあります。イエス様は夜明け頃、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた、と聖書は告げているのです。群衆を解散させられたのは夕方、日没前でした。ですから、弟子たちが舟を漕ぎ出したのは、夜の6時とか7時頃ではなかったかと思います。そして、夜通し舟を漕いだ。漕いでも漕いでも、船は前に進まない。彼らは困り果て、疲れ果てていた。そこにイエス様が湖の上を歩いて来られた。何をしにでしょうか。困り果てた弟子たちを見るためですか。そうではないでしょう。助けるためです。イエス様は弟子たちと遠く離れていても、すべてを御存知なのです。そして、守ってくださっているのです。弟子たちにはそれが分からない。それで困り果て、うろたえ、弱り切ってしまう。そのような弟子たちに、「わたしはあなたと共におり、あなたを守っているのだ。」そのことをはっきりと示すために、イエス様は湖の上を歩いて弟子たちのところに来られたのです。
3.私共の思いを超えて
イエス様はどうやって湖の上を歩くことが出来たのか、そんなことは考えても仕方がありません。イエス様は神の御子、まことの神であられますから、そんなことはどうということもないのです。それより、何故イエス様は湖の上を歩いて弟子たちの所に行かれたのかということです。それはイエス様が、弟子たちに御自身の力を示し、御自身が神の子であることを現し、「わたしがいるのだから大丈夫だ。」その安心、その平安を与えるためではなかったかと思います。
しかし、結果はどうだったでしょうか。26節「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」何と弟子たちは、イエス様を見て幽霊だと思ってしまったのです。そして、恐ろしくなって叫び声をあげたのです。「キャー、お化け!!」と叫んだのかもしれません。弟子たちは、まさかイエス様が湖の上を歩いて来るとは思っていなかった。不意を突かれたと申しますか、自分たちが思ってもいないあり方でイエス様が来られたものですから、イエス様だとは思わなかったということなんですね。
このことは、とても大切なことを私共に教えています。それは、イエス様は私共が思った通りのあり方で、私共が願った通りのあり方で、私共の常識の範囲内で、私共が理解することが出来る想定の範囲内のあり方で、私共に近づき、その御姿を現されるのではないということです。イエス様が神様であられる、神様の子であられるということは、そういうことなのです。私共の理解の範囲を遥かに超えたお方として、私共に近づき、声をかけ、出来事を起こされるお方なのです。
さて、イエス様は御自分のことを幽霊だと思って恐れ、おびえている弟子たちに向かって、こう話しかけられました。27節「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」弟子たちはイエス様を見て幽霊だと思って恐れおびえていたわけですけれど、イエス様はその弟子たちに向かって、「幽霊なんかじゃない。ほら、わたしだよ。イエスだよ。安心しなさい。もう大丈夫。」そう言われたのです。この「安心しなさい」「恐れるな」というのは、「幽霊じゃないから恐れるな」というだけではなくて、弟子たちが湖の上で逆風と波に悩まされている、漕いでも漕いでも前に進めない、そういう状況に対して言われた言葉でもあるでしょう。イエス様は、この逆風と波に悩まされ、にっちもさっちもいかなくなった弟子たちを助けるためにやって来られた。そして「安心しなさい。」と告げられた。弟子たちは、このイエス様の言葉を聞いて、「イエス様が来られたから、もう大丈夫だ。」そう思ったことでしょう。イエス様が来られても、逆風も波も静まったわけではありません。状況は何も変わっていない。しかし、もう大丈夫、そう思ったに違いありません。イエス様が来られたからです。この安心こそ、私共に与えられている安心なのです。
4.大いなる信仰の一歩
ここでペトロは、とてもおもしろいことをイエス様に申し出るのです。28節「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」こういう発想は私には無いなと思います。私でしたら「主よ、どうぞ舟にお乗りください。」このくらいは言うかもしれません。しかし、ペトロは違います。イエス様のことが大好きなペトロらしい言葉でもあります。今まで逆風と波に悩まされ、真っ暗な湖の上で揺れる小舟で一晩過ごしたペトロ。不安だったでしょう。恐ろしくもあったでしょう。そして、イエス様を見誤って、幽霊が近づいて来たと思うという恐怖の体験をしたばかりです。ところが、本物のイエス様が来たとなると、そんなことは全く忘れたかのように、「水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言い出す。まるで子供のようです。
イエス様は、このペトロの申し出を退けたりなさいませんでした。「何を子供のようなことを言っているのだ。お前には無理だ。やめておきなさい。」そんなこと言わないのです。「来なさい。」と言われたのです。イエス様は、水の上を歩いて自分のところへ来たいと言うペトロの心を、嬉しく受け止められたのです。誰も水の上を歩けるとは思いません。ペトロもそうです。しかし、イエス様がおられる。イエス様の力によれば、自分も水の上を歩ける。ペトロは単純にそう思ったのでしょう。
ペトロ。イエス様の一番弟子。聖書に出てくるペトロは、おっちょこちょいと申しますか、賢いなと私共を唸らせるような所がある人ではないのですけれど、やっぱり一番弟子だなと思わせる、信仰の人でした。この所など、ペトロの信仰が実に良く現れていると思います。イエス様がおられるとはいえ、水の上を歩ける、歩きたい、とはなかなか思えないでしょう。しかし、ペトロはこの時、イエス様の「来なさい。」という一言で、舟の上から水の上に一歩を踏み出したのです。この一歩こそ、大いなる信仰の一歩と言って良いでしょう。信仰の一歩とは、実に、どう考えても無理と思われることでも、イエス様がおられるのだから、イエス様がこう言われたのだからやってみよう、とイエス様を信頼して歩み出す一歩のことなのです。舟から片足を出すところまでは、信仰の一歩ではありません。すぐにその足を引っ込めることが出来るからです。しかし、ペトロは水の上に出した片足に全体重をかけて、舟に残っていたもう一方の足を水の上に置いたのです。これが信仰の一歩です。実に大いなる一歩です。さすがに、イエス様の一番弟子です。
5.愛の言葉・救いの言葉「信仰の薄い者よ」
しかし、結果はどうだったでしょう。29節「イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」ペトロは歩いたのです。水の上を歩いたのです。一歩か、二歩か、三歩くらいだったでしょうか。確かに、ペトロは大いなる信仰の歩みを、一歩一歩、歩んだのです。ところが、ペトロはイエス様の所までたどり着かなかったのです。30節「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」ペトロは、水の上が歩けたことに大喜びしてイエス様に向かって身を投げ出した、とはならず、沈みかけてしまった。溺れそうになってしまったのです。理由ははっきりしています。ペトロはイエス様から目をそらし、「強い風」に気をとられてしまったからです。イエス様だけを見ていた時は歩けた。しかし、自分の周りの状況に目をやると、波は逆巻き、強い風が吹き荒れ、自分は水の上に立っている。「怖い!!」と思った瞬間、ペトロは水の中に沈みかけ、溺れそうになり、「主よ、助けてください。」と叫んだのです。イエス様は、溺れそうになっているペトロを捕まえ、こう言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まりました。
ペトロは、ここでイエス様から「信仰の薄い者よ。」と言われました。確かに、ペトロはイエス様を信じ切ることが出来なかったのです。だから、溺れそうになったのです。しかし、イエス様はここで自分を信じ切ることの出来なかったペトロに対し、「だからお前はダメなんだ。」「こんなことでは救われない。」そう言われたでしょうか。31節をきちんと読んでみましょう。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか』と言われた。」イエス様は、ペトロに対して「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」と言われました。しかし、その前に、手を延ばしてペトロをしっかり捕まえて、もう溺れることのないようにしておられるのです。これがイエス様なのです。これがイエス様の救いに与る、救われるということなのです。
実は、私は40年前、この聖書の個所の説教を聞いて、洗礼を受けることを決めたのです。私にとって忘れることが出来ない聖書の個所です。信仰によって救われる。良い行いによってではない。それは説教の中で何度も聞いていました。しかし、私の中には、イエス様を、神様を信じ切ることなど自分に出来るだろうか、出来そうにないな、そんな思いがありました。ここで、ペトロがイエス様に言われた「信仰の薄い者」、これが私自身でした。神様は見えないし、祈ったって叶えられるとは限らないし、礼拝だって休まないなんて言い切れないし。自分には信仰と言えるようなものは無いと思っていたのです。キリスト教は信仰によって救われるっていう。だったら、信仰の無い私は救われないな。しょうがないや。だって、イエス様だけを見て、イエス様だけを信じて、水の上を歩くなんて、私には到底出来ません。そう思っていたのです。
ところが、31節「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか』と言われた。」とあるではありませんか。自分は信仰の薄い者だ、イエス様を信じ切ることが出来ない者だ、そのようにイエス様に言われていると思っている人は、既にイエス様が手を伸ばしてしっかり捕らえてくださっている。もう溺れることのないようにしてくださっている。私は既に救われているのだ。そのことを教えられたのです。「信仰の薄い者よ。」とのイエス様のみ声を聞いた人は喜べ。あなたは既にイエス様に捕らえられ、救われている。そう言われたのです。
6.主よ、助けてください
ペトロはイエス様の一番弟子です。つまり、キリスト者というのは、キリストの救いに与る者というのは、実に、イエス様を信じ切ることが出来ない、「信仰の薄い者よ。」と言われる者なのだということなのです。ペトロだけが特別信仰が薄いわけじゃありません。人間はみんな信仰の薄い者なのです。その不信仰な者を救うために、イエス様は来られたのです。「信じ切れません。」「神様の御心が分かりません。」「もう辛くて、しんどくて、沈みそうです。」それが私共のこの地上における歩みでありましょう。ペトロはこの時、沈みかけ溺れそうになった時、どうしたでしょうか。「主よ、助けてください。」と叫んだのです。私共もそう叫べば良い。そう祈れば良いのです。
初めに申しましたように、弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に向けて舟を漕いでいた。しかし、逆風と波に悩まされ、一晩中舟を漕いでもちっとも前に進まない。疲れ果て、空しくなり、徒労感に襲われたことでしょう。この時イエス様はどこにおられたでしょう。舟の中にはおられませんでした。弟子たちは自分たちだけで何とかしよう、この状況を打破しようとして頑張った。でも、出来なかった。この時、イエス様は山の上で祈っておられた。誰のために。弟子たちのためにです。イエス様は知っておられたのです。自分の愛する弟子たちが困り果てているのを知っておられた。だから、湖の上を歩いて、弟子たちのところに行かれたのです。
良いですか、皆さん。イエス様は知っておられる。私共がどんな思いで一日一日を過ごしているかを知っておられる。そして、その御手で私共を守り、支えてくださっているのです。しかし、私共は気付かない。イエス様が来てくださっても、幽霊だと言って恐れてしまう。自分の思い通り、願い通りじゃないと、神様・イエス様の助けさえも分からない。それが私共です。まことに不信仰なのです。信仰の薄い者なのです。しかし、「主よ、助けてください。」そう叫べば良い。その叫びは、その祈りは、必ずイエス様に届く。そして、イエス様は具体的に手を伸ばして、私共をしっかり捕らえてくださり、溺れないようにしてくださるのです。「信仰の薄い者よ。」との御声が自分の心の中に響いたのなら、その御声を聞いたのなら、喜び喜びましょう。安心してください。あなたは既にイエス様の守りの御手の中に捕らえられ、支えられ、守られています。それは確かなことなのです。
[2016年9月25日]
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