富山鹿島町教会

礼拝説教

「永遠に主と共にある希望」
ミカ書 4章1〜3節
テサロニケの信徒への手紙 一 4章13〜18節

小堀 康彦牧師

1.眠りについた人たち
 私共の人生の中で最も辛い時、悲しい時、それは愛する者が死んだ時でしょう。両親、或いは妻や夫、兄弟、自分の子供という場合もあるでしょう。私共は誰でも、この辛い時をくぐらなければなりません。泣いても泣いても涙があふれてくる、そのような嘆きの時を過ごさなければならない。そういうことが何度もある。信仰を持っていようと、持ってなかろうと、そのような時を過ごさなければならないことに変わりはありません。
 しかし、今朝与えられた御言葉は、こう語り始めます。テサロニケの信徒への手紙一4章13節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」ここで「眠りについた人たち」と言われているのは、死んだ人のことです。パウロは、死んでこの地上での生涯を閉じた人々のことを、「既に眠りについた人たち」と言っているのです。それは目覚めること、つまり復活することを前提としているからです。死んでもうそれっきりということならば、「眠りについた人たち」とは言わないでしょう。パウロは、復活することを前提にして語り出しているのです。
 「希望を持たないほかの人々」というのは、イエス様に対しての信仰を持っていない人々のことです。彼らは、愛する者が死んだらもうそれで終わりだと思っているから、死を超えた希望を持っていないから、ただただ嘆き悲しむしかない。すべての希望を飲み込む死の闇に捕らえられてしまう。しかし、兄弟たち、あなたたちはそうでないように、そのために「次のことを知っておいてほしい」と語り始めるのです。
 ここだけを読みますと、「ちゃんとしたキリスト者ならば、しっかり信仰に立っているならば、愛する者が死んでも嘆き悲しむことがない。嘆き悲しまないはずだ。」そのように読みかねません。しかし、もちろんそんなことはありません。キリスト者であっても、愛する者を失えば本当に悲しく辛い。当たり前のことです。パウロがここで言おうとしているのは、「信仰があるのなら、愛する者が死んでも嘆くな、泣くな。」ということではないのです。「愛する者が死ねば悲しい、辛い。当たり前のことだ。しかし、信仰者ならば、嘆きの中に沈み続けるな。この肉体の死がすべての終わりではないことを知って、目を明日に向けよ。死によってすべてを失ってしまったかのように思って、死の持つ絶望、すべての希望を飲み尽くしてしまう絶望に捕らえられてはならない。」そう言っているのです。そして、死でさえも私共から取り上げることの出来ない希望、それは復活だと告げているのです。

2.イエス様の復活とわたしたちの復活
 14節「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」とあります。イエス様が復活されたことをわたしたちは信じている。このイエス様の復活という出来事は、ただイエス様が復活されたということだけではなくて、イエス様が神様によって復活させられたように、イエス様を信じる者はイエス様と信仰によって一つとされたのだから、イエス様と同じように復活させていただくことになっている。そのことをちゃんと知っていて欲しい、とパウロは告げているのです。イエス様の復活の出来事が、イエス様の上に起きたこと、ただそれだけで終わってしまうのならば、正直な所、私共にとってはどうでもよいことでしょう。私共にはあまり関係ない、昔々に遠い国で起きた不思議な出来事というだけのことでしょう。しかし、そうではないのです。イエス様の復活は、私共の復活の最初であり、私共の救いの完成としての復活を指し示すものだったのです。コリントの信徒への手紙一15章20節「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と言われている通りです。「初穂」というのは、その後で収穫される穂があるということです。そして、イエス様の復活という初穂に続く穂、イエス様のように復活させていただく者こそ、イエス様を我が主、我が神と信じる信仰を与えられた私共なのです。
 しかし、テサロニケの教会の人々は、復活について知らなかったのでしょうか。パウロにとってイエス様の十字架と復活は一つながりのことであり、パウロはこの十字架と復活を抜きにして、イエス様によって与えられた救いの恵み、福音というものを語りようがなかったはずです。ですから、パウロが伝道したテサロニケの教会の人々が、イエス様の復活とそれに続く自分たちの永遠の命ということについて、知らなかったということはなかったと思います。だったら、パウロはどうしてここで、「既に眠りについた人たちについて、嘆き悲しまないために、次のことを知っておいてほしい。」と言って、復活のことを語ったのでしょうか。
 それは、こういうことだと思います。テサロニケの教会の人々も、永遠の命が与えられることは教えられておりましたし、信じておりました。そしてそれは、イエス様が再び来られる時であることも教えられておりました。しかし同時に、それはイエス様が再び来られる時、すべてが新しくされる時、その時に生きている信仰者に与えられるものだと考えていたのです。イエス様が再び来られる前に死んだ人は含まれない、そう思っていたのではないかと考えられます。それは、パウロにしてもテサロニケの教会の人々にしても、イエス様が来られるのは自分の目が黒いうちだと思っていたからなのです。パウロの時代から二千年経ちますが、再臨のイエス様はまだ来ておられません。しかし、この手紙が書かれた頃、パウロにしてもテサロニケの教会の人々にしても、イエス様の再臨がそんな先のことだとは全く考えていなかったのです。15節に「主が来られる日まで生き残るわたしたち」と言っている通りです。イエス様はもうすぐ来られる。その時、自分たちは永遠の命に与る。そう信じておりましたので、イエス様が来られる前に死んでしまう人たちのことなど、テサロニケの教会の人々は考えていなかったし、パウロも、そのことについてはあまりきちんと教えていなかったということではないかと思います。それで、イエス様を信じてこの地上の生涯を閉じた人がどうなるのか、そのことをきちんと教え、死に打ち勝つ希望をテサロニケの教会の人々に教えなければならない。そうパウロは考えたということなのでしょう。
 それにしても、「イエス様は、もうすぐ来られる。」という終末感。これを私共は共有しているかと改めて思わされます。イエス様が再び来られることは信じている。しかし、それはずっと遠い先の話で、私が生きている間のことではない。そう思っていないでしょうか。でも、それでは終末信仰というものが、私共が生きていく上での本当の力にはならないのではないでしょうか。

3.終末についての教え
 さて、16〜17節で、パウロは終末について教えていますけれど、パウロがここで教えていることは四つです。
 第一に、イエス様は天から再び降って来られるということです。イエス様は十字架に架かり、三日目に復活され、その後四十日たって天に昇り、天の父なる神様の右におられますが、そこから再び地上に降りて来られるのです。この時、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえ、神のラッパが鳴り響くというのです。これは要するに、クリスマスにイエス様が来られた時、地上では何人かの羊飼いとヨセフとマリア、それに東方の博士くらいしかこの出来事が分からなかったのですけれど、再びイエス様が来られる時にはそうではない。誰にも明らかなあり方で、イエス様は来られるということです。イエス様が再び来られることを「再び臨む」と書いて「再臨」と言います。このイエス様の再臨と共に、終末が来るということです。
 第二に、イエス様を信じて、イエス様に結ばれて死んだ人が、まず復活するということです。死んで終わりじゃない。イエス様の復活と同じ、復活の体をいただいて復活する。この時私共は、先に死んだ者たちと再会することになります。これはこれで、まことに幸いなことでしょう。この時には、お互いに一切の罪を拭われた者として会うことになる。そうでなければ、救いにはなりません。
 第三に、その時まだ生きているキリスト者が、空中でイエス様に出会うために引き上げられるというのです。これは、イエス様が天に昇られた時の様子を思い浮かべ、これに重なるような出来事と考えて良いのではないかと思います。これが終末において起きることであり、私共に約束されていることなのです。復活と言い、そのまま天に引き上げられることと言い、どういうことなのかイメージしづらいことではあるかもしれません。しかし、これが私共に与えられる、終末における救いの完成というものなのです。終末が来るまで、イエス様が再び来られるまで、私共の救いは完成されません。イエス様のように考え、イエス様のように愛し、イエス様のように仕える。それは、この地上の生涯にあっては完成されることはありません。しかし、イエス様が再び来られる時、私共は変えられる。天の国、神の国の住人にふさわしく変えられるのです。私共は、地上の生涯にあってその日を待ち望みつつ、為すべきことを為しつつ歩んでいるのです。
 第四に、復活させられた者、空中に引き上げられた者、それらの者は「いつまでもイエス様と共にいることになる」ということです。これが救いの完成、私共のまことの希望です。先程、この時に、先に死んだ者たちと再び会うことになると申しました。そして、それはまことに幸いなことだとも申しました。しかし、本当の幸いはここにあるのです。イエス様といつまでも共にいることになる。これが救いの完成、完全な救いの祝福ということなのです。

4.イエス様と永遠に共にいる
 イエス様を愛さない者にとって、信仰を持たない人にとって、このイエス様と永遠に共にいるようになるという幸いは、よく分からないでしょう。しかし、イエス様を愛する者にとって、これ以上大きな幸いはありません。愛するイエス様と、永遠の交わり、完全な交わりに生きることとなる。これが救いの完成です。しかしそうは言っても、この地上にあっては、私共はしばしば、イエス様と共にあるということがよく分からないという状態に陥ります。そういうことが、しょっちゅうあります。イエス様と共にあるという祝福の中に既に生かされているのだけれど、そのことがよく分からない、ボヤーッとしてしまう。それはイエス様が見えないからです。イエス様の声が直接聞こえるわけではないからでしょう。しかし、イエス様の再臨によって与えられる所の終末、救いの完成において、このボヤーッとしていることがはっきりするのです。私共はこの地上にあっては、おぼろに見ていますが、その時には、「顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリントの信徒への手紙一13章12節)からです。神様と、イエス様と、顔と顔とを合わせて見るのです。曖昧なところが全く無いあり方で、イエス様と共にいるということがはっきり分かるのです。  もっと言えば、私共は、地上の歩みにおいては、よく分からないことがたくさんあるのです。どうしてこんなことがあるのか。愛する者の死は、しばしば私共にそのような思いを懐かせるものです。地上の生涯においては、私共には知ることが出来ないこと、知ることが許されていないことがたくさんある。神様の領域だからです。しかし、終末においてイエス様との永遠の交わりに生きるようになる時、私共は分からなかったそのすべてを、神様の御心を知ることになります。

5.終末の希望によって励まし合う交わり
 そしてパウロは、この終末において起きることを告げるとすぐ、18節「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」と言うのです。終末において起きる出来事を知ることによって、互いに励まし合う。それこそ、終末において与えられる救いの完成を知ることによって、私共の中で為されることなのです。愛する者を失って嘆き悲しむのは当たり前のことです。しかし、その嘆き悲しみに支配されず、信仰にしっかり立ち続けることが出来るように、互いに励まし合う。そのためにこそ、福音の真理を知り、私共に備えられている救いの完成によってもたらされる祝福を知り、そこに目を向けていかなければならないのでしょう。
 私共は深い嘆き悲しみに出会うと、「神も仏もあるものか。」と神様の前から離れてしまう、信仰から離れてしまう、そういうことが起きかねない。しかし、「そういう中でこそ、互いに励まし合うのだ。」と聖書は告げるのです。そして、そういう時にこそ神の国に、終末に、救いの完成に目を向けて、互いに励まし合いなさいと告げているのです。
 今朝与えられております御言葉は、愛する者を失った嘆きの中にある人を慰め、励ますという文脈で記されております。しかし、この終末の希望というものは、どのような苦しみ、どのような困難のただ中にある人に対しても、励まし、慰める力がある。この終末の希望こそが、すべての信仰の友を励ますために力があるのです。
 体のあちこちが痛い。思うように体が動かない。記憶力も弱くなってきて、忘れることが多くなった。そういう中で、私共の目をどこに向けるのかということです。それは終末なのだ、救いの完成の時なのだ。そう聖書は告げるのです。そこから、私共を生かす希望、力ある希望の光が注がれて来るのです。私共が、このように教会に集い、主を礼拝している。それは、同じ終末の希望に生かされている者として、互いに励まし合う交わりを形作っているということです。目に見える頼りとするものをすべて失ったとしても、それでも失うことのない希望、復活の命、永遠の命、終末における救いの完成の希望が私共にはあるのです。
 イエス様は明日来られるかもしれません。主が再び来たり給うを待ち望みつつ、今週もまた、この終末の希望の中、歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2016年9月11日]

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