富山鹿島町教会

礼拝説教

「証しの生活」
申命記 10章12〜22節
テサロニケの信徒への手紙 一 4章9〜12節

小堀 康彦牧師

1.兄弟愛
 キリストの教会が神様によって建てられ、導かれていることの一つの確かな証しは、そこに愛がある、神様の愛によって生かされた者同士の愛の交わりがあるということでありましょう。このキリスト者同士の愛を、聖書では「兄弟愛」と訳しています。フィラデルフィアという言葉です。ここから名前を取ったアメリカの都市がありますが、元々は、同じ親から生まれた兄弟間の愛、肉親同士の愛を指す言葉でした。それを聖書では、教会の中の愛、キリスト者同士の愛を表す言葉として用いたのです。まさに同じ父なる神様によって生まれた兄弟姉妹、信仰による兄弟姉妹、霊における兄弟姉妹、その関係を言い表す言葉としたのです。そこには、同じ信仰に生きる者同士の関係が兄弟愛という言葉によって言い表される、交わりの実態があったからでしょうし、またキリスト者は皆そうあろうとしたからです。理由は簡単です。イエス様がそうしなさいと命じられたからです。ヨハネによる福音書15章12節「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とイエス様は言われました。イエス様は弟子たちに、互いに愛し合うようにと命じられたのです。教会は、このイエス様の言葉を真剣に受け止めたのです。また、使徒ヨハネは、ヨハネの手紙一3章14節において「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」と告げています。実に、キリスト者同士の兄弟愛は、イエス様によって救われ、新しい命に生きる者とされた、このことの確かなしるしなのです。
 キリストの教会において、互いに愛し合う、愛の交わりを形作るということは、イエス様によって救われた者として当然のことです。そこに自分たちが新しい命に生かされた確かなしるしを見てきたのです。それはいつの時代でも、またどの国においても、変わらないことでありました。こう言っても良いでしょう。キリストの教会はこの兄弟愛によって、キリストの福音が伝えられたその国の人間の生き方、価値観、美しいということを変えてきた。人間は神様によって造られました。神様には、人間を造られた目的、意図がある。それが愛です。イエス様によって救われた者は、この本来の、神様の創造の目的に適う者として、新しく生き始める。そこに現れるのが、キリストの教会における兄弟愛です。そしてこの兄弟愛は、まだイエス様を知らない人たちに対しても説得力を持ち、憧れをいだかせ、それを見た人たちを巻き込み、新しい文化を創っていった。民主主義とか、基本的人権といった価値基準は、ここから生まれてきたものなのです。

2.自分の教会を越えて
 このように申しますと、自分たちの中にそれほどの兄弟愛の実態があるかどうか、心配になってしまうかもしれません。9〜10節を見てみましょう。「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。」テサロニケの教会は、この兄弟愛について、書く必要がないとまで言われています。すでに、マケドニアの教会に対して実行していたからです。この手紙が書かれた当時、マケドニアにはまだ、フィリピ、ベレア、テサロニケの、三つの教会しかなかったと考えられています。テサロニケの教会の人々は、フィリピの教会やベレアの教会に対して、兄弟愛を実行していたと言うのです。ここではっきり示されておりますことは、私共の兄弟愛は、自分の教会の人たちだけに向けられているのではないということです。この兄弟愛は、テサロニケの教会の枠を超えて、フィリピの教会やベレアの教会にも向けられていたということであり、そうであることが当然のこととして考えられているということなのです。私共は、兄弟愛と申しますと、自分の教会内での仲の良い関係というイメージを持つだろうと思います。もちろん、それは大事です。目の前の兄弟姉妹を愛することなく、目の前にいない兄弟姉妹を愛することなど出来るはずもありません。しかし、神様が与える兄弟愛は、目に見える、目の前の教会の交わりという枠を超えるのです。
 私共の教会は、能登半島地震において被災した七尾教会、羽咋教会、輪島教会の再建のために、我が身を削って献げました。あのような経験は、私共の教会にとって初めてのことでした。自分の教会以外の教会の為に、教会員が皆で何百万円という金額を献げた。私共は、あの経験を通して兄弟愛を学んだのではないでしょうか。兄弟愛は、聖霊なる神様によって信仰と共に与えられ、注がれるものでありますが、同時に学んでいくものでもあるのです。私共の教会は、東日本大震災のためにも献げました。そして、小松教会の会堂建築のためにも、熊本地震のためにも献げました。それはこの兄弟愛の故なのです。

3.兄弟愛に基づく祈り
 さて、この手紙が書かれた当時のテサロニケの教会は、現在の私共の教会とあまり変わらないくらいの大きさではなかったかと思います。ですから、顔と名前が一致するのは当然のことだったでしょう。しかし、顔と名前が一致すればそこに愛があるということではないでしょう。愛というものは、具体的な目の前のその人のために労苦するということが不可欠です。愛は、言葉だけで終わることは出来ません。行動が伴うのです。ヨハネの手紙一3章17〜18節「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」と言われている通りです。
 しかし、「私はもう年老いました。何もしてあげることが出来ません。」「私は忙しいのです。礼拝を守るのが精一杯です。」「あの人のこと、この人のこと、気には掛かっているのです。でも、どうしてあげたら良いのか分かりません。」そういう思いが私共の中にはあるのだろうと思います。本当にそうなのです。だったら私共の交わりに愛が無いということになるのでしょうか。そうではありません。私共には、なお出来ることがあります。しなければならない、最も大切な愛の業が残されています。それは祈ることです。私は、牧師として皆さんに一つのお願いをしたい。どうか祈っていただきたい。気になるあの人この人のために祈っていただきたい。兄弟愛は、この祈りに極まるのです。私共の愛は、祈りへと導かれ、祈りから業へと促されるものなのでしょう。私は、もう何もしてあげられない。しかし、全能の神様が働いてくださいます。そのことを信じて、あの人この人の為に祈る。それが私共の兄弟愛なです。
今日は礼拝後に愛餐会が行われます。元々は敬老のための会であったようですが、敬老される人ばかりなったからでしょうか、私が赴任してきた時にはもう、愛餐会になっておりました。どうか皆さんお残りくださって、食卓を共にし、互いに交わりの時を持っていただきたいと思います。この教会に来るようになったばかりであまり知り合いもいないという方こそ、是非残っていただきたいと思います。顔と名前が一致すれば愛があるというわけではないけれど、やっぱり名前を知り合うということは、交わりが形成されていく上で大切なことでしょう。もっとも、名前を何度聞いても覚えられないという人もいるでしょう。私もそれに近いですけれど、そういう方も是非お残りください。そして、具体的にこの人のためにこのことを祈ろう、そんな出会いが与えられれば幸いなことだと思っています。

4.御国に向かっての歩みとしての兄弟愛
 さて、テサロニケの教会の人々の兄弟愛は、マケドニアの諸教会にも向けられるほどのものでありましたけれど、パウロはここで「なおいっそう励むように勧めます。」と告げています。「あなたたちの兄弟愛はもう十分です。」とは言わないのです。どうしてでしょうか。それは、この兄弟愛というものは、イエス様の愛に触れて、イエス様の愛を注がれて生じるものでありますから、「もうこれでいいですよ。」ということにはならないものなのです。それは、イエス様に倣って生きる人が、「もうこれで十分。私はもう完全にイエス様に似ることが出来た。」と言えるようには決してならないのと同じです。この兄弟愛は、御国おいて完成される愛でありますから、この地上において完成されることは無いのです。ですからパウロは「なおいっそう励むように勧める」のです。私共の兄弟愛の歩みは、御国に向かっての歩みそのものだからです。
 しかし、それでも教会において仲が悪かったり、気が合わなかったり、そういうことがあるではないか。そう思われる方がおられるかもしれません。確かに、教会というところは天国ではありませんから、ややこしい人間関係というものは教会の中にもあるのです。それは教会の規模に関係なくあるのです。小さい群れは家族的で、そんなややこしい人間関係はない。そんなことはありません。小さい群れは小さい群れなりに、大きな群れは大きな群れなりにあるのです。私共は罪人でありますから、そのような人間関係の問題が全くない教会など、地上には存在しないのです。だからといって、教会における兄弟愛など欺瞞だ、嘘っぱちだ、ということではないのです。そのような問題を抱えつつも、キリストの教会は兄弟愛を求めて歩んでいくのです。それ以外の歩み方を知らないからです。イエス様に救われた私共は、それ以外の歩み方を知らないからです。

5.主の再臨を待ち望みつつ
 パウロは兄弟愛を勧めて、すぐに11節で「そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。」と申します。自分の仕事に励む、自分の手で働く。それは、自分の手で稼いで、自分の仕事で生計を立てなさいということでしょう。どうしてパウロはそんなことを言うのか。テサロニケの信徒への手紙二3章10〜12節に、「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」とあります。このような現実が背景にあったのでしょう。どういうことかと申しますと、テサロニケの教会の人々の兄弟愛による支えを当てにして働かない、そういう人が現れてきたということです。何ということかと思いますけれど、そういうものなんだなと私などは逆に納得してしまいます。人間の罪とはこういうものなのでしょう。テサロニケの教会の人々の間に兄弟愛が満ちた。すると、それを当てにして働かない人が出た。いつの時代でもそういう人はいるのだなと思います。
 しかし、このような人は、ただ怠け者ということではなく、このような人が出てきた背景には、イエス様の再臨が近いという終末のリアリティー、終末信仰の切実さということがあったのだろうと思われます。もうすぐイエス様が来る。天と地が新しくなる。そんな時に、生活のために働いてなどいられない。そういうことだったのかもしれません。それに対して、パウロは「落ち着いた生活をしなさい。」と告げているのです。ちゃんと自分の手で働いて、生活の糧を得なさいと言うのです。それは、ルターが言ったと伝えられている、「明日、終末が来るとしても、わたしは今日、植えなければならないリンゴの木を植える。」という言葉を思い起こさせます。
 キリストの教会にとって終末信仰というものは大切です。この終末信仰というものは、これが無くなれば、キリスト教信仰は成り立たない。それ程決定的に大切なものです。しかし、終末感があまりに強くなって現実感覚が弱くなる。そして、今自分がここで生きている、生かされている、そのことに対して無責任になってしまうのでは、それは違うということなのです。私共は、イエス様が何時来られても良いように、今、この場で、神様に遣わされた者として、為すべき業に励んでいく。そういう者なのでしょう。

6.兄弟愛は止めない、止められない
 しかし、パウロはここで、怠惰な生活をし少しも働かないような人が出るから、もう兄弟愛はやめなさいとか、ほどほどにしなさいとか、適当にしなさいとは言わないのです。「なおいっそう励むように勧めます。」と言うのです。それは、キリスト者にとって兄弟愛は、自分の都合でやったりやめたりすることが出来るようなものではないからなのです。兄弟愛はキリスト者にとって、キリストに結ばれた者として必然の歩みであり、キリストと共に生きていることの確かなしるしなのです。
 良いことの裏には必ず悪いことが付いてきます。善意というものは、必ず悪意というものと一緒にあります。善意に基づく善い業が為されると、必ずそれを自分の利益のために利用するという人も出てくる。だからといって、私共は神様が喜ばれること、良いこと、正しいこと、御心に適うこと、それをやめてはならないのです。止めてしまえば、それは善が悪に負けることになってしまうからです。教会は、いつもこのような誘惑にさらされているのだろうと思います。サタンは実に賢いのです。良きことの裏を見せて、良きことをやめさせようとするのです。私共は、そのこともよく弁えている必要があるでしょう。
 最後に12節で、パウロは、「そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」と言うのです。これは、言い換えますと、兄弟愛をもって歩むキリストの教会は、教会の外の人々に説得力を持つ、キリストの愛を証しする者として立っていくことになるということです。
 私共は今から聖餐に与りますけれど、この聖餐こそが私共を兄弟愛へと導いていくのです。イエス様が私共の罪の贖いのために十字架にお架かりになった。そのイエス様が、互いに愛し合うように命じられた。そのイエス様が、私共のただ中にいてくださる。この交わりを形作り、導いてくださる。私共は、聖餐の度毎にそのことを心に刻むのです。ですから、この聖餐に与る者の交わりは、兄弟愛の交わりとなるしかないのです。その交わりに加えられていることを今、心から感謝しつつ、御名をほめたたえたいと思うのです。

[2016年9月4日]

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