富山鹿島町教会

礼拝説教

「喉元過ぎれば」
出エジプト記 10章1〜20節
ローマの信徒への手紙 1章18〜28節

小堀 康彦牧師

1.十の災い
 毎月、最後の主の日は旧約から御言葉をいただいています。今は、出エジプト記から御言葉を受けています。イスラエルの民を、奴隷とされていたエジプトから脱出させ、アブラハムに与えると約束した土地に導くために、神様はモーセとアロンをお立てになりました。モーセとアロンは、エジプトの王ファラオに、イスラエルの民を去らせてくれるよう交渉いたします。しかし、エジプトにとってイスラエルの民は大事な労働力ですから、「どうぞエジプトから出て行ってください。」とはなりません。そこで、神様はエジプトに十の災いを下します。神様が災いを一つ下すたびに、モーセとアロンはファラオのもとに行って交渉します。しかし、ファラオはなかなか首を縦に振りません。この十の災いは、7章14節から始まっています。小見出しが付いておりますので、番号を付けていっていただいたら良いと思います。順に見てまいりましょう。
 1つ目、『血の災い』。これはナイル川の水を血に変えるというものでした。
 2つ目、『蛙の災い』。これは蛙の異常発生です。この時モーセはファラオに、7章26〜27節「主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。もしあなたが去らせることを拒むならば、わたしはあなたの領土全体に蛙の災いを引き起こす。』」と告げました。そして蛙が国中に満ちるわけです。私は蛙が嫌いですので、この災いは考えただけでもぞっとします。それでファラオは、モーセとアロンを呼んで、8章4節「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう。」と言うのです。ここでファラオがその通りにしたのなら、災いはこの二つで済んだはずでした。ところが、9〜11節「主はモーセの願いどおりにされ、蛙は家からも庭からも畑からも死に絶えた。人々はその死骸を幾山にも積み上げたので、国中に悪臭が満ちた。ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった。主が仰せになったとおりである。」
 3つ目、8章12節以下にある『ぶよの災い』。
 4つ目、8章16節以下にある『あぶの災い』。これはエジプト人の家や畑にあぶの大軍が来る、しかしイスラエルの民が住むゴシェンの地にはあぶは来ないというものでした。この時もファラオは、21節「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい。」そして24節「よし、わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない。わたしのためにも祈願してくれ。」と言うのです。ところが、26〜28節「モーセはファラオのもとから退出すると、主に祈願した。主はモーセの願いどおりにされ、あぶはファラオと家臣と民の間からすべて飛び去り、一匹も残らなかった。しかし、ファラオは今度もまた心を頑迷にして民を去らせなかった。」となります。ファラオが嘘をつくのは、これで2回目です。
 5つ目、9章1節からの『疫病の災い』。この疫病はエジプトの家畜に対しての疫病です。この時もイスラエルの家畜は疫病にはかかりませんでした。
 6つ目、9章8節からの『はれ物の災い』。これはエジプト人と家畜に膿の出るはれ物が出来るというものでした。
 7つ目、9章13節からの『雹の災い』。この雹は、野にいる人も家畜も打たれて死ぬほどのものでした。作物も打たれました。それはエジプト人が見たこともないほど激しい雹でした。ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言いました。27節b〜28節「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない。」しかし、33〜35節「モーセは、ファラオのもとから退出し町を出ると、両手を広げて主に祈った。すると、雷も雹もやみ、大地に注ぐ雨もやんだ。ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった。主がモーセを通して仰せになったとおりである。」ファラオがモーセたちに嘘をついたのはこれで3回目でした。
 そして、今朝与えられている10章1節以下が、8つ目の災い、『いなごの災い』です。

2.「人間の心のかたくなさ」と「しつこい神の憐れみ」
今、ざっと1つ目から8つ目の災いを見てまいりましたが、この災いには順序があるのが分かると思います。それは、ファラオや家臣たちから見て遠い所あるいは深刻ではない所から始まりまして、だんだんファラオや家臣たちに近い所へ、ファラオ自身や家臣たち自身の命が危ない、そういうものへと変わってきているわけです。そして、最後の第10の災い、エジプトのすべての初子、つまり長男ですが、それが神様に撃たれて死ぬというまことに悲惨な出来事、「過越の出来事」に至るわけです。ここまで来なければ分からない。この十の災いというものは、人間の心のかたくなさというものを示しているのでしょう。
 ファラオは、2つ目の『蛙の災い』の時にもう、気付いています。しかし、ダメなのです。4つ目の『あぶの災い』の時だって気付いているのです。そして7つ目の『雹の災い』の時だって気付いているのです。今朝与えられている8つ目の災い、『いなごの災い』の時も同じです。気付いている。分かっている。「神様がまことの王なのだ。自分ではない。」分かっている。気付いている。しかし、ダメなのです。神様の前に低くなれない。神様に額ずくことが出来ない。次から次に、驚くべき奇跡を見せられているのです。それでもダメなのです。
 彼がエジプト王だったからでしょうか。そうかもしれません。「自分には力がある。世界最強のエジプト軍は、自分の言うとおりに動く。自分に逆らう者などいない。」そう、モーセとアロンの他に、今までファラオに逆らう者など一人もいなかったのです。しかし、今度ばかりはどうにもなりません。相手が悪い。相手は人ではない。神なのです。エジプトのファラオは神の化身と信じられていましたし、自身も信じていたでしょう。しかし、それは偶像に過ぎませんでした。天地を造られたまことの神様の前では、何の力も無い、ただの人に過ぎませんでした。ファラオはそれを認め、生ける神様の前に自らを低くすることを求められたのです。しかし、それがなかなか出来ない。そうしようと思っても、目の前の災いが過ぎてしまえば、やっぱりやめたと思ってしまう。心の底から変われない。何度も変わろうと思う。でもなかなか変われない。このファラオの姿をもって、聖書は人間の罪というものを示しているのでしょう。
しかし、聖書が告げているのはそれだけではありません。神様は、この十の災いの出来事をもって、ファラオにチャンスを与え続けられたということです。私共なら、10回もチャンスを与えたりはしないでしょう。2、3回がいい所です。しかし、神様はそうではないのです。人の心がかたくなであることを、神様はよく御存知です。そして、そのかたくなな者をなおも愛し、招き、チャンスを与えられる。それが私共の神様なのです。聖書の神様は実にしつこいのです。しつこくなければ、かたくなな私共は誰一人救われることがないからです。神様のしつこさは、かたくなな私共を何としても救わんとする御心の故なのです。

3.人間の罪や愚かささえも用いて
 今朝与えられている御言葉ですが、1節に「主はモーセに言われた。『ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。』」とあります。これは、この十の災いの記事の中で何度も繰り返される言葉ですが、不可解な言葉でありましょう。わざわざファラオの心と家臣の心を頑迷にして、災いを何度も下す必要があるのか。神様の一人芝居ではないか。そう思われるでしょう。しかしこれは、先程読みましたローマの信徒への手紙1章24節「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、」、26節「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。」とありますところの「まかせられた」と同じ意味として理解する。これが古典的な解釈です。つまり、神様は従順なファラオの心を敢えてかたくなにしたということではなくて、かたくななファラオの心をそのままに放っておかれたということです。
 そして、1節b〜2節「それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたがたが知るためである。」とあります。つまり神様は、ファラオの心のかたくなさを用いて、次々に奇跡を行い、まことの神の力を示し、「しるし」を次々に与えられたということなのです。2つ目の蛙の災いで終わっていたかもしれなかったけれど、ファラオは結局の所、心をかたくなにしたままだった。そのことによって、神様は、後に語り継がれる「しるし」を次々と行ったということなのです。神様は、人間の罪や愚かささえも用いて御業を為されるということなのです。
 私共は、自分の欠けや愚かさに目が行ってしまって、あの時もっとこうしておけば良かった、こう言えば良かった、そんな風に思うものです。確かに、反省しなければならないことも多々あるのが私共の人生です。しかし、たとえ欠けがあっても、愚かな業であっても、神様は、それさえも用いて救いの御業を前進させられる。私共はそのことを信じて良いのです。

4.第8の災い、いなご
 3〜6節「モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に言った。『ヘブライ人の神、主はこう言われた。「いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせなさい。もし、あなたがわたしの民を去らせることを拒み続けるならば、明日、わたしはあなたの領土にいなごを送り込む。いなごは地表を覆い尽くし、地面を見ることもできなくなる。そして、雹の害を免れた残りのものを食い荒らし、野に生えているすべての木を食い尽くす。また、あなたの王宮、家臣のすべての家、エジプト中の家にいなごが満ちる。それは、あなたの先祖も、先祖の先祖も、この土地に住み着いたときから今日まで見たことがないものである」と。』」とあります。第8の災いを下す前に、神様は、モーセとアロンを通して「いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。」と言われます。神様の前に身を低くする。つまり、神様の前にへりくだるということです。具体的には、イスラエルの民を去らせることです。イスラエルの民を去らせるということは、エジプトの王ファラオにしてみれば、奴隷を失うことですから、損をすることです。だから、なかなか従えない。しかし、「それをせよ。」と言われたのです。神様に従うということは、この「損をする」ということを伴うものなのです。勿論、損だけで終わるわけではありません。その目に見える損は、神様の恵みの中で大いなる祝福に変えられるのです。
 ここで神様の言葉として、「イスラエルの民を去らせないならば、明日、いなごを送り込む。」とモーセとアロンは告げました。このいなごというものは、何千、何万という程度の数なら、どうということはありません。貴重なタンパク源、食料にもなります。しかし、地面も見えないほど大発生しますと、これが通った後には植物は根しか残らなかったと言われています。すべてを食い尽くしてしまうのです。いなごの異常大量発生がどれほど恐ろしいか、この土地に住む人なら誰もが知っていました。そして、今まで7度の災いはモーセとアロンが告げた通りに起きましたから、今度は本当にいなごが来る。モーセとアロンの言葉を聞いたファラオの家臣たちはそう思いました。だから、7節「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」そう家臣たちはファラオに進言したのです。

5.神の民は老若男女が一つ
 ファラオも遂に家臣たちの進言を受け入れました。8節「モーセとアロンがファラオのもとに呼び戻されると、ファラオは言った。『行って、あなたたちの神、主に仕えるがよい。誰と誰が行くのか。』」ここでファラオは「行って、主に仕えよ。」と言うのです。しかし、「誰と誰が行くのか。」と問います。それに対して、モーセは9節「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです。」と答えるのです。この答えを聞いて、ファラオは前言を翻してしまいます。10〜11節「よろしい。わたしがお前たちを家族ともども去らせるときは、主がお前たちと共におられるように。お前たちの前には災いが待っているのを知るがよい。いや、行くならば、男たちだけで行って、主に仕えるがよい。それがお前たちの求めていたことだ。」つまりファラオは、「男だけが行くならよい。女、子供、年寄りは置いていけ。」と言うわけです。何故なら、男だけで行くなら、また戻って来るに違いないからです。しかし、モーセは、若い者も年寄りも、女も子供も家畜も、全員で行くと言うのです。これは、出て行ったら帰りませんから、ファラオは反対したわけです。
 しかし、この時のモーセの理由は素晴らしい。「主の祭りは我々全員のものです。」これが神の民のあり方なのです。私はこのモーセの言葉に心が震えました。私共は、家族全員がキリスト者であるという人の方が少ないでしょう。家族の中で自分だけがキリスト者であるという人も多い。しかしそれは、ずっとそのままではないのです。やがて家族全員がキリスト者となっていく。私共はそれを信じて良い。それは何代か先のことかもしれません。しかし、「主の祭りは我々全員のもの」なのです。それが神の民のモーセ以来のあり方なのです。私共は、その初めの一歩なのです。

6.神様の御業に用いられる者のしつこさ
 結局、いなごが来ることになってしまいました。14〜15節「いなごは、エジプト全土を襲い、エジプトの領土全体にとどまった。このようなおびただしいいなごの大軍は前にも後にもなかった。いなごが地の面をすべて覆ったので、地は暗くなった。いなごは地のあらゆる草、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、木であれ、野の草であれ、エジプト全土のどこにも緑のものは何一つ残らなかった。」緑のものは何一つ残らない。大変なことになってしまいました。16〜17節「ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで頼んだ。『あなたたちの神、主に対し、またあなたたちに対しても、わたしは過ちを犯した。どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように。』」蛙の災い、あぶの災い、雹の災いの時にも言っていたことです。これで4回目です。「仏の顔も三度」と言いますけれど、モーセはこの4回目のファラオからの申し出もきちんと受け止めるのです。そして、神様にいなごを去らせてくれるように祈りました。しかし、いなごが去ると、やっぱりファラオはイスラエルの民を去らせませんでした。
 この時、今まで3回も嘘をつかれているのに、モーセはファラオの申し出を退けないのです。モーセだって「もういい加減にしてくれ。」そう思ったでしょう。頼んだファラオの方が、「どうか、もう一度だけ過ちを赦して」と言っているくらいなのです。でも、モーセはファラオの申し出を受け入れるのです。そして、やっぱりファラオの言葉は嘘になりました。
 私は、このモーセの姿に、神様の御業に用いられる者の姿が示されていると思います。もういい加減にしてください。そう言いたい。でも言わない。そして、神様に執り成しの祈りをするのです。モーセも心の中では、どうせまた言った通りにしないだろう、そう思っていたと思います。しかし、申し出を受け入れて、祈るのです。大切なことは、ファラオの申し出を自分がどう思うかではなくて、申し出を受け入れ、執り成しの祈りを為すということなのです。どうせダメだろう。そうかもしれない。しかし、自分がどのような思いを持つにせよ、どのような判断を下すにせよ、その人のために執り成しの祈りを為す。それが、主の御業の道具として用いられる者の姿であり、為すべきことなのです。
 神様はしつこいのです。しつこい神様の御業に用いられるということは、このしつこさも身に付けなければならないということなのでしょう。私共はどちらかと言えば、しつこいのは苦手です。淡泊で潔く諦める、その方が美しいと感じる。しかし、この美意識は、聖書が告げる美しさとは違うのではないかと思うのです。聖書の語る美しさとは、十字架の美しさです。侮られ、鞭打たれ、唾をかけられても、それでもなおその人の救いのために十字架につくのです。その人の救いのために祈るのです。十の災いをもってファラオと相対する神様のしつこさは、イエス様の十字架において極まる、十字架の美しさにつながっているということです。ですから、私共がこのイエス様の十字架の美しさにつながるということは、決して諦めることなく、あの人のために祈る、この人のために祈るということにならざるを得ないのです。教会は、二千年の間、決して諦めることなく祈り続け、キリストを知らない民に向かって伝道し続けてきたのです。祈り続けているならば、必ず何かが起きる、神様が起こしてくださる。その神様の御業の歴史が、教会の歴史なのです。私共が今、こうしてキリスト者として立っている。ここにキリストの教会がある。その存在自体がこの神様の御業を証ししているのです。

[2016年8月28日]

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