富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様に喜ばれる生活」
民数記 15章39〜41節
テサロニケの信徒への手紙 一 4章1〜8節

小堀 康彦牧師

1.信仰のモデル
 神様は、今朝与えられている聖書の言葉を通して、神に喜ばれる生活をするように、と私共に告げておられます。
 テサロニケの信徒への手紙一4章1節を見てみましょう。「さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。」パウロは、テサロニケの教会の人々に向かって、「神様に喜ばれる生活とはどのようなものなのか、わたしたちがあなたがたと一緒にいた時に学んだでしょう。」と言います。これは、パウロたちがテサロニケの教会の人たちに言葉で教えただけではなくて、日々の生活の中で具体的に、こう生きることが神様に喜ばれる生活なのだということを見せて、示したということなのでしょう。私共の信仰の歩みというものには、具体的なモデルと言いますか、お手本と言いますか、そういうものがあるのだと思います。私は、自分に洗礼を授けてくれた福島勲という牧師を手本にしている所があると思います。全くタイプが違うので真似することも出来ませんが、私の中では牧師というものの具体的なモデルです。私共はそのような、手本やモデルのような信仰の先輩を何人も持っているのだろうと思います。私は、神学校を出たばかりの頃、「あなたの説教は加藤常昭先生の説教に似ていますね。」と年配の牧師に言われて驚いたことがあります。全然レベルが違うのですけれど、言い回しとかに似ているところがあったのかもしれません。加藤先生は神学校の説教学の先生でしたので、きっと自分でも意識しないうちに、影響を受けていたのでしょう。テサロニケの教会の人々は、伝道者パウロを愛し、尊敬しておりました。ですから当然、信仰のあり方、信仰者としての生き方、それらを、パウロの言葉と歩み方、その存在から学んだのだろうと思います。そして、彼らは今までそのように歩んできたし、今も歩んでいる。だから、今後も更にそのような歩みを続けるように、とパウロは告げるのです。

2.「歩む」ということ
 ここで注目したいのは、パウロは、信仰者として生きる、生活する、このことを「歩む」と言っていることです。特に珍しい表現ではないかもしれません。私共も普通に、この「歩む」という言い方を用います。しかし、改めて考えてみますと、私共の信仰というものは、神様に喜んでいただくことを求めて一日一日生活していくことなのだと気付かされるのです。私共の信仰生活は、この地上の生涯が閉じられるまでの何十年という、一日一日の生活なのです。色々な時があります。人生の四季と言いますか、青春の日々、仕事、結婚、子育て、老後、色々な時代がある。自分の生活環境が変わるだけでなくて、時代もまた変わっていく。そういう中で私共は、いつでも神様に喜ばれることを求めて生活していくのです。
 信仰は生活です。それは、「歩む」と表記されるような、一日一日の生活の積み重ねです。しかもそれは、神様に喜ばれることを求める生活ですから、神様の御前に生きる生活ということです。私共は、このように主の日に教会に集っている時だけ、神様の御前に生きているわけではありません。いつでもどこでも、私共は神様の御前に生きているのです。このことをはっきり示しているのが、私共の祈りです。私共は教会に来なければ祈れない、そんなことはないでしょう。私共は、いつでもどこでも祈れるし、祈るのです。私も毎月薬を頂きに病院に行かなければならなくなりました。皆さんもそうでしょう。病院に行きますと、結構長く待たなければなりません。そんな時は祈ったら良いのです。祈っていたら、あっと言う間に名前を呼ばれます。いつでもどこでも祈れる。祈るということは、まさに、私共がいつでもどこでも、神様の御前に生きているということの証拠なのです。

3.聖なる者になりなさい
 では、神様に喜ばれる生活とは、どういう生活なのでしょうか。3節「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」と告げます。ドキッとするような言葉です。私が聖なる者になる?そんなこと出来るはずもない。そう思います。しかし、「聖なる者となるように」という命令は、旧約以来、聖書が繰り返し告げていることです。先程、民数記15章をお読みしましたが、その40節にも「あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。」と告げられております。この他にも、「聖なる者となりなさい」という御言葉は、旧約聖書の中で何度も繰り返されております。この民数記15章40節においては、「あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。」とあります。「聖なる者」とは、本来、神様しかおられません。この聖なる方である神様のものとされる、この方に属する者とされる、そのことによって、私共は聖なる者とされるということなのです。私共が律法を守り、道徳的に正しい者となって、それで聖なる者になるということではないのです。
 私共は、信仰によって、洗礼によって、イエス様と一つに結び合わされました。このイエス様と結び合わされるということによって、私共はイエス様の聖さに与るのです。だから、パウロは4章1節で「主イエスに結ばれた者として、更に願い、また勧めます。」と言っているのです。イエス様と結ばれ、一つにされた。イエス様の聖さに与る者となった。神の子とされ、全き救いに与る者となった。だから、神様に喜ばれる生活を為し、聖なる者となるように歩め、というのです。もちろん、私共が完全に聖い者とされる、イエス様の心を自分の心とし、イエス様のように神様を愛し、人を愛し、神様に仕え、人に仕える者とされる、それは終末において与えられることです。しかし、その日を目指して、その日に向かって、私共はこの地上を歩む者とされました。もうイエス様を知らなかった時のように、この地上の生活がすべてであるかのようには生きられないのです。天の国、神の国を知ってしまった、知らされてしまったからです。ですから、もうそこに向かって歩むしかない。それがキリスト者の、この地上における歩みなのです。

4.聖なる性の問題
 さて、それでは、神様の御心に適う、聖なる者としての生活とはどのようなものなのでしょうか。パウロは、私共がイメージする「聖なる者」とは、少し違う歩みを告げます。それは、性の問題、セックスの問題です。いきなり性の話かといささか戸惑われる方もおられるかもしれません。3節b〜5節「すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」と言われていることは、性の問題なのです。その内容も、特別難しいことではありません。要するに、妻との間に性の営みを為すのであって、それ以外の人と性的関係を持つなということです。当たり前ではないか、そう思うでしょう。私もそう思います。
 では、どうしてパウロはこの当たり前と思える性の問題を、私共キリスト者が神様に喜ばれる聖なる生活の第一に挙げているのでしょうか。理由は二つ考えられます。
 第一に、この妻との間でだけ性的関係を持つということは、人間存在の根本に関わる重大事であるからです。創世記1章26〜27節に「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。人間は神様に似た者として造られた。これは聖書が語る、「人間とは何か」という問いに対しての第一の答えでありますけれど、今、どこが神様に似ているのか、そういうことについてお話しする時間はありません。ただここで「神様に似た者として人間が造られた」と言ってすぐ、「男と女に創造された」と聖書は告げているのです。このことは、人間という存在が、男と女の関係を結ぶことによって神様の似姿を現す、父と子と聖霊なる神様、父と子と聖霊の間に永遠の愛を保持されている神様に似た者とされるということなのです。夫と妻、夫婦の関係とは、そのような神様の創造の目的に適った、大切な関係だということなのです。性の問題を、ただそれだけ抜き出しては、あまりその大切さ、その意味が分からなくなってしまうと思います。性の問題は、私共が神様の御前にどう生きるのかということと切り離せない問題なのです。こう言っても良いでしょう。神様との間に深い信頼と愛の交わりを与えられた者は、人と人との間にも深い信頼と愛の交わりを形成していくことになる。この二つは分けられない。その深い信頼と愛の交わりの関係として、パウロは、夫婦における性の問題を語っているのです。夫婦以外の人と性の関係を結べば、それは裏切り以外の何ものでもありません。愛の交わりはそこでは崩れるのです。
 第二の理由ですが、テサロニケの教会の人々は、この性の問題に対してルーズであったということはないと思います。パウロは、彼らは正しく歩んでいると言っています。しかし、当時のギリシャの文化の中に生きるテサロニケの教会の人々は、いつもこの誘惑にさらされていたのです。ギリシャの宗教文化は、日本と同じ、自然宗教の多神教です。このような宗教文化においては、性の倫理というものは生まれてきません。神殿娼婦という言葉があるほどに、性行為自体が礼拝行為となってしまう、そういう文化土壌です。夫婦の間でだけ性行為が為されるべきだという感覚が無い。そういう社会の中に生きるテサロニケの教会の人々に対して、パウロは、このような注意を喚起したということなのでしょう。
 この状況は現代の日本においてもあまり変わらない、と私は思っています。私が牧師として何も出来ていないという反省と共に自覚している課題の一つは、青少年に対しての性の問題への教育です。キリスト者の家庭、牧師の家庭に育ったといっても、結婚する前に性的関係を持つ、或いは一緒に生活を始める、それが当たり前になっています。私は、古いとか化石だとか言われても、主イエスに結ばれた者としての性、セックスというものがある、そのことを教会は語り、教えなければならないと思っています。しかし、これは大変デリケートな問題ですので、本当に難しい。「こういうことをしてはいけない。それは罪だ。」そう言っていれば済む問題ではないのです。青年たちが性の問題で悩む。その悩みを共にしながら、聖書に聞いていく。聖書に聞き、神様に従って生きるということはどういうことなのか、共に尋ねていく。青年期においては、この性の問題を抜きには語れないと思います。しかし、本当に難しい。語る側がどう生きているのかということが厳しく問われるからです。しかし、この問題にきちんと向き合わなければ、教会は、若い人に対して語るべき言葉を失ってしまうのではないか、そう思っています。それ程大切な問題なのだと思うのです。

5.聖霊の導きの中で
 パウロは、このような聖さを求める生活というものは、聖霊の導きの中で為されるのだ、だから聖なる生活へと歩もうとしない者は聖霊の働きを拒むことになるのであり、聖なる生活へと歩むことこそ、聖霊なる神様の導きの中に生きるということの具体的な姿なのだと語るのです。7〜8節「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。」
 ここで大切なことは、夫と妻の正しい性関係に生きようとすることは、聖霊なる神様の導きによるのだということです。私共は、自分で自分を聖くしようとしても、それはなかなか出来ないものなのです。様々な誘惑が私共を襲うのです。しかし、聖霊なる神様が導いてくださいます。この聖霊なる神様のお働きの中で、私共は神様に喜ばれる生活、聖なる生活、正しい性生活へと導かれていくのです。
 こう言っても良いでしょう。聖霊なる神様は、私共に信仰を与えてくださいます。神様・イエス様を愛し、信頼する信仰を与えてくださいます。この聖霊なる神様が与えてくださる信仰は私共を御国へと導くものでありますから、聖霊なる神様は、御国に向かっての日々の生活、神様の御前における生活を整えてくださるということなのです。私共に与えられる信仰の歩みは、その初めから終末の完成に至るまで、聖霊なる神様のお働きの中で営まれていくものなのです。この聖霊なる神様のお導き、聖なる生活への促しというものによって私共は信仰の歩みを為していくわけです。
 しかし、これに反抗する思いが私共の中にはあります。神様の促しに従って生きようと思いつつ、出来ない。それが罪です。イエス様に救われる前の私の残りかすのようなものですけれど、これが私共の御国に向かっての日々の歩みをしぶとく妨害しようとする。そういうことがあるでしょう。これをどうしたら良いのか。  信徒の方から、「罪と戦う、サタンと戦う。これはどうしたら良いのか。私はしばしば負けてしまう。」と問われて、ある牧師がこう言いました。「戦わなくて良いです。勝てませんから。」そんなこと言っちゃって良いのかしらと思いますけれど、その牧師こう続けます。「それよりも、どうしたら聖霊の導きに従えるか、どうしたら神様に喜んでいただけるか、そのことに心と思いを向けた方が良いです。」なるほどと思いました。罪やサタンと戦うと言いますと、私共の目は、自分の罪やサタンに向いてしまうわけです。それが、既にサタンの計略の中にはまっている。自分の罪やサタンに心や思いを向けるよりも、神様の恵み、聖霊なる神様のお働き、促しに心を向ける。どうしたら神様に喜ばれる生活になるかということに心を向け、具体的な一歩を歩み出していく。その方が大切だと言うのです。私もそうだと思います。
 私共に信仰が与えられているということは、聖霊なる神様のお働きの中に私共は生かされているということの確かな証拠なのです。聖霊なる神様が私共の中に宿ってくださり、御国への歩みを守り、支え、導いてくださっているのです。だから、その聖霊なる神様のお働きの導きというものをしっかり受け止めて、神様に喜んでいただく歩みを整え、一歩一歩、歩んでまいりましょう。

[2016年8月21日]

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