1.伝道開始から日本基督教団成立まで60年
本日の礼拝は、私共の教会の伝道開始135年の記念礼拝です。週報にありますように、1881年(明治14年)8月13日と14日の二日間、米国長老教会の宣教師トマス・ウィン一行が旅籠町の山吹屋にて説教会を開いたのが、私共の教会の伝道の始まりです。トマス・ウィンは、1879年(明治12年)10月に金沢の第四高等学校の英語教師として赴任し、伝道を開始しました。そして、1881年(明治14年)5月に金沢教会が設立されます。トマス・ウィンは、その年の8月に富山への伝道旅行を行ったわけです。トマス・ウィン宣教師は金沢を拠点に伝道をしましたが、その伝道の思いは金沢にとどまることなく、北陸全域に広がっておりました。それが、この富山での伝道へとつながったわけです。トマス・ウィンは、長尾巻という日本人伝道者を富山に遣わしました。この長尾巻という伝道者は、トマス・ウィンが金沢で伝道を開始した次の年に洗礼を受けました。実に洗礼を受けて3年後に、伝道者としてこの富山に遣わされて来たのです。この長尾巻によって総曲輪講義所が開かれました。長尾巻は、私共の教会の他、小松教会、そして現在の金沢元町教会の開拓伝道も行いました。北陸における伝道において、忘れることの出来ない伝道者です。
しかし、総曲輪講義所は、順調に教勢を伸ばすということはなく、伝道開始から約30年後の1912年(明治45年)に伝道教会となるまで、講義所のままでした。この伝道教会になるに際して、1902年(明治35年)に米国長老教会から総曲輪の100坪の土地が与えられました。そこに会堂を建て、10年間の伝道の末、1912年、伝道開始から約30年で、総曲輪教会が設立されました。ですから、私共の教会創立という点から言えば、今年は104年ということになります。
そして、それからまた約30年、1941年(昭和16年)に日本基督教団が成立いたしますと、これに加わり、日本基督教団富山総曲輪教会となりました。それまでは、日本基督一致教会総曲輪講義所、そして日本基督教会富山教会であったわけです。この日本基督一致教会が1890年に日本基督教会と改名したのですが、その時に採択されたのが、本日の礼拝において用います「日本基督教会信仰の告白」です。これは、日本人による初めての信仰告白でした。これが私共の教会が用いていた信仰告白です。私共は現在、「日本基督教団信仰告白」を用いておりますが、信仰告白というものは、古いものを捨てて新しいものにする、というようなものではありません。古いものの上に新しいものが重ねられていく、そういうものです。
2.戦後の歩み、鷲山牧師を迎えるまで
さて、1941年(昭和16年)に日本基督教団が成立して、私共もこれに加わったわけでありますが、富山の人にとっては忘れることの出来ない、あの1945年(昭和20年)8月2日未明のB29による空襲により、富山は焼け野原となりました。総曲輪小学校の前にありました私共の教会の礼拝堂も焼失いたしました。終戦の二週間前です。ですから、私共の教会は、戦前の記録というものが何も残っていないのです。私共の教会は、何も無い所から戦後の歩みを始めることになったのです。
私共の教会だけではありません。富山の町の中にあった教会はすべて焼けてしまいました。二番町教会も、カトリック教会も、聖公会の教会も、みんな焼けてしまいました。ただ町の外れにあった新庄教会だけは焼失することなく残りました。それで、新庄教会において私共の教会そして二番町教会の三教会が、一緒に主の日の礼拝を守りました。次の年は青葉幼稚園の園舎で礼拝を守り、そして更に次の年にはかまぼこ形の米軍兵舎が二番町に建てられて、二番町教会と総曲輪教会は一緒に礼拝するようになりました。法的手続きは経ていませんでしたが、当時の二番町教会と総曲輪教会は日本基督教団富山教会と称しておりました。しかし、総曲輪教会は二番町教会とは合同せず、総曲輪教会として再建していくことを決議します。その決議に基づき、総曲輪教会は日本基督教団に会堂再建の援助申請を行いました。これは受理されたのですが、実際には会堂再建の援助ではなく、二番町教会のかまぼこ形のコンセットハットが1951年(昭和26年)に総曲輪に移築されました。そして、8月10日に総曲輪教会としての伝道再開の礼拝が守られたのです。会堂を焼失してから6年後のことでした。この日の礼拝出席は12名でした。
しかし、まだ専従の伝道者は与えられていませんでした。新庄教会の副牧師であった佐々木牧師が2年間、その後、石動教会の小林牧師が1年間、礼拝説教を担当してくださいました。小林牧師は、午前の石動教会での礼拝が終わるとすぐに列車で富山に来て、午後1時30分からの私共の礼拝を行ってくださいました。本当にありがたいことでした。
私は、この教会に着任してから、魚津教会、金沢教会、福野伝道所、そして現在は福光教会の代務者をしています。これは、このような歴史を持つ教会の牧師として、当然のことをしているのです。
3.鷲山林蔵牧師を迎えて@ 〜援助を受け続けて78年〜
そして、1954年(昭和29年)、実に礼拝堂を焼失してから9年後、専任の伝道者をやっと迎えることが出来たのです。それが鷲山林蔵牧師です。鷲山牧師は、神学校を卒業してすぐに当教会に赴任し、4年半ここで伝道され、日本橋教会に転任されました。この4年半のうち最初の4年間は、中部教区からの援助を受けておりました。私共の教会は、現在中部教区の互助献金として約50万円を毎年献げております。しかし、中部教区が弱い教会を援助するというこの制度が始まりました時に、最初に援助を受けたのが私共の教会だったのです。このことを私共は忘れてはならないと思います。
私共の教会は、日本基督教団に加わる前、日本基督教会富山教会だった時代、約30年間ずっと伝道教会でした。独立教会にはなれなかったのです。伝道教会というのは、中会からの援助が無ければ経済的に成り立たない教会です。伝道者も私共の教会が招聘するのではなく、中会から派遣されるのです。私共の教会は、1881年の伝道開始から1912年までの講義所時代、そして1912年から1941年の伝道教会時代、更に1941年から1959年までの日本基督教団における歩み、その間、実に78年の間 、ずっと援助を受け続けてきた教会だったのです。伝道開始から136年を迎える私共の教会ですが、その半分以上の期間、私共は援助を受け続けてきた。このことを私共は忘れてはならないと思うのです。米国長老教会のトマス・ウィンによる伝道開始、米国長老教会から土地を与えられたこと、そして戦後のコンセットハットでの伝道再開は、アメリカの教会から日本基督教団が多額の援助を受け、それを用いての再建でした。そして、鷲山牧師を専任の牧師として迎えて4年間、私共の教会は中部教区から援助を受け続けていたのです。講義所・伝道教会時代は日本基督教会の浪速中会から、そして教団成立後は中部教区からです。私は、この8月第一の伝道開始記念礼拝を迎えるたびに、何と長きにわたって私共は援助を受け続けてきたのかということを、心からなる感謝と共に思い起こすのです。
この長きにわたっての援助は、何としてもこの富山に住む人々を救わんとする神様の御心の表れです。この何としても救わんとする神様の御心と一つにされた教会が、具体的に私共の教会を援助し続けたのです。キリストの教会とは、この神様の救いの御心を自分の心として建てられている群れなのです。それは、キリストの教会が建てられた最初の時から、少しも変わっていません。
4.信仰の交わりの中で建てられる教会
今朝与えられております御言葉、テサロニケの信徒への手紙一の3章1〜2節「そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。」とあります。テサロニケの町で伝道したパウロたちでありましたが、ユダヤ人たちによって暴動を起こされ、すぐにテサロニケの町を去らなければならなかった。パウロは、ずっとテサロニケの教会の人々のことを思っておりました。そして、何とかテサロニケの教会を再び訪れて、励ましたいと思った。しかし、それが出来ませんでした。それでパウロは、自分と共に伝道していたテモテをテサロニケの教会に送ったのです。
テサロニケの教会は、ユダヤ人からまたギリシャ人から迫害を受けていた。そういう中でテサロニケの教会の人々は、5節にあるように、誘惑を受けていた。この誘惑がどんなものであったのか、具体的には分かりません。しかし、想像することは出来ます。それは、「イエス様への信仰を捨ててしまいなさい。そうすれば、こんな大変な目に遭うことはない。」そういうものではなかったかと思います。パウロは、テサロニケの教会の人々が厳しい状況の中でなお、イエス様への信仰に立って歩んでいることを知っていました。そして、何とかこの信仰に立ち続けて欲しい、そう願った。そして、テモテを送ったのです。
もし、テサロニケの教会の人々が、このようなパウロの援助を受けることがなかったら、どうだったでしょう。テサロニケの教会の人々は孤立し、孤独になって、信仰に立ち続けることが出来ただろうか。そう思うのです。
先程、私共の教会が78年の長きにわたって援助を受け続けた歴史を見ました。この富山の地でイエス様を信じた人々もまた、テサロニケの教会の人々と同じような厳しい状況に置かれていたのだと思います。真宗王国と言われる北陸の地において、キリスト者となる、キリスト者であり続けるということは、親や親戚などから少なからぬ圧力を受ける。それは今だってある。しかし、100年前はもっとあからさまな強い圧力があったことでしょう。伝道はなかなか進展しないで、礼拝出席が20名に満たない状態がずっと続いたのです。しかし、浪速中会は私共の教会を支え続け、伝道者を送り続けてくれました。日本基督教団になってからは、中部教区が支えてくれた。これは、単に経済的なことだけではないのです。自分たちが孤立していない。キリストの体なる大きな教会の一部だ。自分たちは信仰の交わりの中に置かれている。そのことを見える形で示すものだったのです。
私共は、教会と言えば、この富山鹿島町教会のことを考えます。しかし、私共の教会は単独で建っているのではありません。それは、その歩みの初めからそうなのです。教会は自然発生的に誕生するなどということはありません。罪人を何としても救わんとする神様の御心と一つにされたキリストの体である教会が、その御心に従って伝道者を立て、それを遣わし、御言葉を語らしめ、神様が信仰者を起こして、教会は建つのです。
各個の教会は、誕生の時からその歩みのすべての時に置いて、単独で建つということはあり得ないのです。広く大きな信仰者の群れ、世界に広がり歴史を貫くキリストの体の一部として建てられ、建ち続けているのです。
テサロニケの教会もそうでした。テサロニケの教会は、テサロニケの教会単独で建っていたのではないのです。アンティオキア教会から遣わされた伝道者パウロによって福音が告げられ、信仰者が起こされ、教会が建った。それで終わりではないのです。その教会は、その後もパウロたちとの信仰の交わりの中で支えられ、建ち続けたのです。教会とはそういうものなのです。私共もそうなのです。
5.鷲山林蔵牧師を迎えてA 〜長老教会として〜
さて、先程、先の大戦が終わって9年してやっと専任の牧師である鷲山牧師を迎えることが出来たということをお話ししました。そしてその時、私共の教会はまだ経済的に自立出来るまでいっていなかったということもお話ししました。この時代に洗礼を受けた方の中に、G・Rさん、T・Fさん等がおられ、K・Tさんが転入されています。また、I・Mさんが長老となっています。他に、O・K、I・S、O・Sといった方が長老でした。
鷲山牧師は、神学校を卒業してすぐに私共の教会に赴任して来られたわけですが、そこには23名の教会員とコンセットハットの会堂があるだけで、旧日本基督教会の伝統は自覚的に継承されてはいなかったようです。神学校を出たばかりの鷲山牧師は、どのような教会としてこの教会を形成していくか、苦悩されたようです。鷲山牧師は後に教団の常議員を長く務められ、特に教団紛争のただ中にあって福音に立って粉骨砕身戦われた方です。私共の世代の牧師にとっては、まさに伝説の牧師です。しかし、新卒でこの教会に赴任された時は、本当にどのように教会形成をしていくか苦悩されたということです。私も同じ経験をしましたので、この鷲山牧師の苦悩はとてもよく分かります。
そして、この教会に赴任した年度の1月に、鷲山牧師は連合長老会(当時は東京伝道局と言っていました)主催の宣教協議会に出席します。この会は今も毎年行われているもので、私共の教会に赴任してきた牧師たちは毎年出席している、長老教会の筋道に立った牧師たちの修養会です。私も伝道者になって三年目くらいからずっと、この会に出席しています。この宣教協議会に出席した鷲山牧師は、教会形成の核心に触れ、長老教会としてこの教会を建てていくことを自覚的に受け止めたのです。この鷲山牧師によって、その後の私共の教会の歩みの筋道、長老教会としての教会形成ということが定まった。そう言って良いでしょう。60年前のことです。
ちなみに、鷲山牧師を宣教協議会に誘ったのは、私に洗礼を授け、献身まで導いてくださった福島勲牧師でした。13年前にこの教会に赴任して『総曲輪教会百年史』を読み、このことを知った時、私は本当に驚くと共に、自分の思いを超えた神様の導きというものを思わされました。
長老教会の特質は、挙げればきりがありませんけれど、一つには、信仰告白を重んじることによって教理の筋道を明確に持っているということ、そして、一個の教会ではなくてその地域にある幾つかの教会によって中会を形成することによって、互いにキリストの主権を立てることに努め、教会や牧師が誘惑や苦難に遭ってもそれを退け、堅固に立ち続けるということです。様々な人間的な問題が起きて一個の教会においては対応出来ないようなことでも、この中会にある教会の交わりと指導によって、それを乗り越えていくということです。
パウロはここで、3節b〜4節「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。」と言っています。ここでは具体的なユダヤ人やギリシャ人による圧迫や妨害ということを示していると思いますが、それだけではなくて、教会というものは、歴史の中を歩み続ける中で様々な苦難に遭うものなのです。もちろん、そんな目に遭いたくはありません。しかし、有形無形の圧迫、教会内での対立等々、色々なことが起きるのです。しかし、それによって倒れることがないように、私共は御言葉による養いを受け、慰められ、励まされ、信仰を強められていかなければならないのです。そのために、長老教会は中会というものを形成してきたのです。
鷲山牧師の時代、まだこのことまで自覚されていたわけではないようです。このことは、その後の山倉牧師、大久保牧師の時代を経て、北陸連合長老会を形成するに至ることになります。しかし、長老制度に立った教会を形成することに至る鷲山牧師のその筋道の上に、今の私共の教会があることを改めて思わされるのです。そして、その歩みのすべてに、主の憐れみの御手があった。そのことを覚え、心から御名をほめたたえたいと思います。
[2016年8月7日]
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