富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様への従順と頑迷」
出エジプト記 6章28節〜7章11節
ペトロの手紙 一 2章13〜17節

小堀 康彦牧師

1.はじめに、前回までの流れ
 毎月最後の主の日は、旧約聖書から御言葉を受けています。今は出エジプト記から御言葉を受けていますが、前回は第5章の、モーセとアロンが初めてエジプト王ファラオと交渉をした場面から御言葉を受けました。
 モーセとアロンは、ファラオに対して、神様がこのように告げよと言われたとおりに告げました。1節「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」しかしファラオは、この言葉に従うどころか、イスラエルの民に対しての扱いをこれまで以上に厳しいものにしました。イスラエルの民は、今まではれんが作りのためにわらを与えられていたのですが、この時かられんが作りの材料であるわらを自分たちで集めなくてはならなくなったのです。イスラエルの民はモーセとアロンに対して、「何ということをしてくれたのか。」そう不満をぶつけます。イスラエルの民とモーセとアロンとの関係は悪くなりました。モーセとアロンは、神様に言われたとおりにしただけです。元々、モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き出すなどという大それたことをしたいと、自分から願い出たわけではありません。神様に召し出されてしまったので、自分としては嫌だと思っても、それでも神様に従って、ファラオとの交渉を行ったのです。その結果がこれでした。モーセは神様に祈りました。「なぜなのですか。どうしてこういうことになるのですか。わたしを遣わされたのは一体なぜですか。イスラエルの民は余計に苦しむようになっただけではないですか。」モーセのこの祈りは当然でしょう。神様は、この祈りに対して、6章1節で「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」と答えられました。そして、この神様の答えの通り、7章以下で神様の御手による出来事が次々と起こされていくわけです。

2.諦めない神様
 これから、モーセとアロンによるエジプト王ファラオとの交渉が延々と続いていきます。どれくらい続くかと言いますと、最初の交渉は、前回見ましたように、イスラエルの民にわらを与えないというファラオの命令となり、イスラエルの民とモーセ・アロンの関係さえもおかしくなるという、最悪の結果になりました。そして、二回目が、今日与えられております御言葉の所で、アロンがファラオの前で杖を蛇に変えるという奇跡を行ってみせました。しかし、ファラオの心は変わりません。三回目以降は、神様の言葉に従おうとしないファラオに対して、次々と災いが下されます。7章14節以下の「血の災い」から始まりまして、「蛙の災い」「ぶよの災い」「あぶの災い」「疫病の災い」「はれ物の災い」「雹の災い」「いなごの災い」「暗闇の災い」と続いて、最後に「過越の出来事」となるわけです。昔から「十の災い」と言われています。この災いのたびに、エジプト王ファラオは「この災いを去らせてくれ。そうしたらイスラエルの民を去らせよう。」と言うのですが、モーセが神様に祈ってその災いが去りますと、「やっぱりイスラエルの民を去らせるのはやめる。」そう言うのです。これを何度も繰り返して、最後には「過越の出来事」となります。エジプトの家の家畜を含めたすべての初子、これは長男のことですが、その初子が神様によって撃たれて死ぬという悲惨な出来事です。このまことに悲惨な災いに至って、ついに、イスラエルの民はエジプトから出て行けということになるのです。その「過越の出来事」まで、ファラオとの交渉は実に12回もなされるわけです。
 皆さん、どうでしょう。12回も交渉する。私は、とてもそんなにやれないと思ってしまいます。いい所、3回ぐらいかなと思います。しかし、神様の為さりようは、そうじゃない。諦めない、投げ出さないのです。それが神様の為さりようなのです。神様は、やがてファラオがイスラエルの人たちをエジプトから追い出すことになることを知っておられるからです。神様はお見通しなのです。私共は明日が分からない。だから、どうせ無駄だと思ってしまう。しかし、神様は知っておられる。だから諦めない。放り出さない。為し続ける。この神様の御業に私共は仕えるのです。だから、私共も諦めない。このことについては、次回以降、丁寧に見ていきたいと思います。

3.能力の無い者を選ばれる神様
 今日の所は、一回目の交渉が終わって、ファラオによるイスラエルの民に対しての扱いがより厳しくなった後、モーセは神様に祈り、神様はモーセに対して、それでもイスラエルの民をエジプトの国から導き出せ、と命じられた後の所です。
 6章28〜30節「主がエジプトの国でモーセに語られたとき、主はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。』しかし、モーセは主に言った。『御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか。』」とあります。モーセは一回目の交渉の結果が最悪でしたから、自信を失ってしまったわけです。神様は、「わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。」と言われるのですが、モーセは一回目の交渉で既に、神様の言われたとおりにファラオに告げたのです。その結果が最悪のものでした。ですから、「そんなこと言われたって、ファラオが聞くはずがない。無駄だ。自分にはファラオを説得する力などない。」そう思ってしまっているわけです。
 それに対して神様が言われたのは、7章1〜2節「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。」ということでした。モーセは、自分の語る言葉といいますか、弁舌といいますか、それについては元々自信がない。そして、一回目の交渉の結果がこれでしたから、ファラオの所に行って交渉するなんてもう無理だと思っているわけです。それに対しての神様の答えは、アロンがいる、というものでした。神様がモーセに語り、それをモーセがアロンに語れば、アロンがファラオに語る。だからお前はもうファラオに語らなくてよい、というのです。
 何ともまだるっこしいというか、面倒というか。だったら、モーセ抜きで、アロンが選ばれ立てられればよかったではないか。そう思いませんか。しかし、これが神様の為さり方なのです。アロンは弁舌に優れた才能を与えられていた。モーセにはそんな才能はありません。しかし、イスラエルの民をエジプトから導き出すために立てられたのは、モーセでした。何故でしょうか。それは、モーセには優れた弁舌の才能が無い。それにもかかわらず選ばれたということではありません。そうではなくて、まさにそれ故に選ばれたということなのです。神様の選びとはそういうものなのです。何故なら、出エジプトの出来事は神様の救いの業なのであって、人間の業ではないからです。そのことが明らかになるために、神様はモーセを選ばれたのです。

4.神の時がある
 そもそも、当時世界最強の国だったエジプトから、奴隷に過ぎないイスラエルの民を導き出すなどということは、誰が考えても無理なことなのです。世界最強の国家であるエジプトの王ファラオが、奴隷の言うことなんて聞くはずがないのです。神様が為さろうとしていることは、人間の目から見れば不可能なことであり、土台無理なことなのです。しかし、神様はそれをすると言われるのです。
 神様は更に続けます。3〜5節「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を延ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」神様は、これからエジプトの国でしるしや奇跡を行うけれど、それでもファラオは言うことを聞かない。そう言われるのです。簡単にはいかないことを、神様はお見通しなのです。しかし、必ずわたしがイスラエルの民をエジプトから導き出す。そのためには大いなる審判が必要だということもお見通しなのです。
 モーセは勘違いしていたのです。自分が神様の言葉を語れば、ファラオは言うことを聞くと。しかし、神様はそうはならないと言われる。この勘違いは、私共がよくする勘違いなのです。神様が自分を召してくださった。神様は伝道するように命じられた。だから、自分が伝道すれば、救われる者が次々と生まれる。これは正しいでしょう。神様はそうされるために私共を召し、ここに教会を建ててくださった。それもまことに正しい。しかし、伝道するのは神様なのです。神様が働いてくださらなければ、もっと言えば、神様が働いて多くのしるしや奇跡が為されたとしても、それでも人の心は簡単に神様の前に悔い改めるものではないということです。何故か。それほどまでに、人間の心は神様に対して頑迷だから、心を閉ざしているから、神様に敵対し、神様から離れているからです。それが罪というものなのです。
 それならば、何をしても、何を語っても、無駄なのか。そうではありません。語り続け、為し続けていくならば、必ず時が満ちて、神様の救いの業が現れるのです。それが何時なのか、私共は知りません。しかし、神様はその時を知っておられるし、その時は必ず来るのです。その時を信じて、私共は為すべきことを為していくだけなのです。この神の時というものは、外からは中が見えないコップに水を注いでいるようなもので、どこまで水が入っているのか、外からは分からない。しかし、必ずコップの中の水は増えていて、やがてコップから水があふれていく。そうすれば、誰の目にも神様の時が来たことが分かる。しかし、それまでは誰にも分からない。そういうものなのでしょう。

5.わたしは高齢過ぎる?
 神様の救いの業は、間違っても、私共の能力や力によってもたらされるものではありません。ただ、神様が為される。そのことが明らかにされるために、神様は能力の無い者を、力の無い者を、選び立てるのです。
 旧約において最も偉大な人は誰かと言われれば、誰もがモーセと言います。その通りです。モーセは、旧約において最も大いなる神様の救いの業のために選ばれ、立てられ、用いられた人です。しかし、そのモーセ自身には、それにふさわしいと私共が考えるような能力や力は、何も無かった。それが神様の為さり方なのです。何故か。それは、ほめたたえられるべき方は、ただ神様おひとりだからです。神様は、自らが神であり主であることを示すために、救いの御業を為されるのです。「栄光はただ神にのみあれ!」なのです。
 ですから、私共は自らの能力や力の無さを嘆くことはありません。そのいと小さき者を選び、立て、用いられるただ独りの神様の力と御業とを信じれば良いのです。それが、私共に求められている信仰です。私共には何も無い。しかし、神様はすべてを持っておられ、そのすべてを自らの救いの御業のために用いられるのです。
 ここで、モーセとアロンが何も持たない者であったことのしるしが7節に記されています。「ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」この数字を文字通りに取るべきかどうかは、解釈の幅があるでしょう。しかし、はっきりしているのは、モーセもアロンも、私共の常識から言えば、もう高齢もいいところであったということです。ちなみに、アブラハムが召命を受けた時は七十五歳でした。この数字は、高齢者が多い私共の教会にとっては、何とも嬉しい数字ではないでしょうか。教会の高齢化は、全国どこの教会でも言われています。その場合、「もう力が無い。」とか「これでは将来が不安だ。」というニュアンスで語られることがほとんどです。しかし、本当にそうでしょうか。この時モーセは八十歳、アロンは八十三歳でした。これから出エジプトが始まろうとしている、その時の年齢です。神様の救いの御業に用いられようと召し出された時の年齢です。
 この年齢と自分の年齢を比べてください。まだまだ大丈夫でしょう。私共はモーセと同じように、「もうダメです。」「わたしには力がありません。」「わたしには能力がありません。」つい、そう言ってしまいます。確かに、わたしには能力がありません。わたしには力がありません。もう高齢になりました。記憶力も衰え、体力にも自信がありません。その通りでしょう。私もそうです。でも大丈夫。天と地を造られた神様が、私共を選び、立て、用いられるのですから。
 モーセは、自分には能力が無いということを知っていました。これこそ、神様に用いられる者として最も大切な、自分に対しての認識なのではないでしょうか。パウロもそうでした。パウロは肉体的弱さを抱えていた。しかし、それ故に主の力が現れることを知っていた。高齢化は現実です。事実です。しかし、これをどう理解し、受け止めるのか。それは信仰の問題です。私共は神様から試されているのではないでしょうか。私共は、「何によって立っているのか、誰によって立たされているのか、そのことをはっきりせよ。」そう試されているのです。

6.ファラオさえも招かれる神様
 モーセとアロンは、再びファラオの前に行きました。今度は、「アロンの杖をファラオの前に投げよ。すると杖は蛇になる。」そう神様に言われて、ファラオの前に行きました。そして、ファラオの前で、神様に命じられたとおりに杖を投げますと、杖は蛇になりました。すると、ファラオはエジプトの魔術師に命じ、同じことをさせました。ファラオにしてみれば、「そんな子供だましに驚くと思うか。」そんなところではなかったかと思います。
 13節「しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。」とあります。ファラオの心は、このアロンの杖による「しるし」では砕かれることはありませんでした。ファラオの心はなかなか強いのです。ちょっとやそっとでは砕かれないのです。彼はエジプトの王です。世界最強の国、エジプトの王ファラオとしての誇り、自信、経験、そのすべてが神様の前にへりくだることを邪魔していたのでしょう。
 ここで私共は、神様の前に心をかたくなにしているファラオと、神様の前に従順な者とされたモーセとアロン、この二種類の人間を見るわけです。ファラオは神様の前に何と頑固な人間なのか、一方モーセとアロンは神様に従う良い人だ、そのように見てしまうのでしょう。そして私共は、自分をモーセとアロンの立場に置いてここを読むのだと思います。確かに、私共は神の民とされたのですから、そのように読むことが自然なのでしょう。
 しかし、私はここに二種類の人間が描かれているとは思えないのです。そもそも人間には、そのような二種類は存在しないのです。
 よく思い出してください。モーセは、召し出された時すぐに神様の召命を受け取ったでしょうか。3章1節〜4章17節にあったように、モーセも実に五回にわたって、色々と理由を付けては、神様の召命に対して否と言うのです。決して神様に従順な者ではありませんでした。しかし、変えられたのです。そもそも、神様に対して初めから従順な者なんていないのです。それが、人間は誰もが罪人であるということです。しかし、変えられるのです。神様が変えてくださるのです。
 ここで神様は、モーセとアロンを用いて、頑迷なファラオを招いているのです。しかし、それがファラオには分からない。私共もそうでした。しかし、分かった。分からせていただいた。だから、今日こうしてここに集っている。だったら、私共の愛するあの人もこの人も、きっと神様が分からせてくださる。かたくなな心を砕いて、神様を愛し、信頼し、従う者へと変えてくださる。私共はそれを信じて良いのです。そのことを信じて、祈っていきましょう。伝えていきましょう。神様の時は必ず満ちるのですから。

[2016年7月31日]

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