富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の言葉として受け入れる」
詩編 119編129〜136節
テサロニケの信徒への手紙一 2章13〜16節

小堀 康彦牧師

1.教会に起き続けている御言葉体験
 皆さんはそれぞれ、好きな聖書の言葉、愛唱聖句というものがあると思います。私もあります。一つや二つではなくて、幾つもあるという人もいるでしょう。そして多くの場合、その愛唱聖句は自分が経験した具体的な出来事、それは思い出と言っても良いでしょうが、そういうものと結びついているのではないかと思います。自分が辛い日々を過ごしていた時、信仰の友が与えてくれた聖書の言葉によって、目の前がパーッと開ける思いがした。それ以来、その聖書の言葉が忘れられない大切な言葉となった。そのような経験をしている方も少なくないと思います。それは一つの「御言葉体験」と言うべきものです。聖書の言葉が特別な光を放って私共の心の中に入ってきて、「ああ、そういうことだったのか。」と納得する。或いは、主が共におられる、主は私を愛してくださっている、私は主の御手の中にある、私は赦されているという、福音の真理に改めて気付かされ、祈らずにはいられなかった。主を賛美せずにはいられなかった。そのような経験は、私共にとって宝のようなものです。もちろん、そのような出来事はこの主の日の礼拝の中で起きます。
 この御言葉体験というものは、すべての神の民が経験してきたものです。旧約の時代から新約・使徒たちの時代、そして長いキリスト教会の歴史の中で、神の民はこの御言葉体験というものをいつも与えられ続けてきました。神の民の歴史は、実にこの御言葉体験の歴史であったと言って良いと思います。この歴史は、教会史のような本には記されることのない歴史です。私共の教会は、「百年史」という本を持っています。伝道開始百年を記念してI長老が執筆してくださったものです。私共の教会の歴史は、これを読めばおおよそ分かります。そこには歴代の牧師たちの名前も、洗礼を受けた人の名前も、会堂を建てたことも記されています。しかし、実は教会の歴史とは、毎年52回の礼拝が捧げられて御言葉が語られ、そこで御言葉体験をする者たちが起こされ続けてきたということなのだろうと思うのです。それは本には記されていません。受洗者が与えられたという記述の中に、確かに御言葉体験がこの教会でも起きていたということを、私共は推察することが出来ます。しかし、たとえ受洗者が与えられない年があったとしても、主の日には御言葉が語られていたわけで、その御言葉によって養われ、生かされた群れがあったのです。御言葉と共に、御言葉に導かれて生きた一人一人の神の民の歩み。それこそが本当の神の民の歴史なのでしょう。

2.信仰を与える御言葉体験=聖霊の出来事
 さて、この御言葉体験というものは、神の言葉を神の言葉として聞いた、神の言葉として受け取った、神の言葉として力を発揮したという出来事でしょう。このことを詩編の詩人は、詩編119編130節において、「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」と歌いました。御言葉の光が私の中に射し込んで来て、本当に主は生きておられる、主の御手の中に私は生かされている、主は私を愛してくださっている、私は何と神様に背いて生きていたのか、この真理に目覚めさせられるのです。そこに信仰が生まれます。このような御言葉体験は、聖霊なる神様によって与えられる出来事でありますから、信仰というものは与えられるものなのだということになるのです。
 私共は信仰を与えられました。それは実に、この御言葉体験というもの抜きには考えられません。パウロは、テサロニケの教会の人々の上に起きたこの御言葉体験を、2章13節bにおいて「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。」と告げています。
 ここでパウロは、「わたしたちから神の言葉を聞いたとき」と言います。これはパウロがテサロニケの町で伝道したときのことでしょう。その時パウロたちは、テサロニケの教会の人々に対して、この様なことを語ったのではないかと思います。「イエス様こそメシアである。イエス様は私共のために、私共に代わって十字架に架かってくださった。だから私共の一切の罪は赦された。イエス様を信じる者は誰でも、この赦しに与ることが出来る。そして、神の子とされ、神様に向かって『父よ』と呼ぶことが許される。さらに、イエス様は私共の初穂として三日目に復活された。だから、私共も復活する。永遠の命に与ることが出来る。」つまり、イエス様の福音を告げたということでしょう。
 パウロがイエス様の福音をテサロニケの人たちに告げたことは、パウロが説教をしたということです。パウロはテサロニケのユダヤ人の会堂で、そしてこの町で伝道しました。イエス様の福音を宣べ伝えた。福音の説教をしたのです。そして、このパウロたちが告げた福音を、パウロが語った説教を、テサロニケの教会の人々は神の言葉として受け入れたのです。

3.信じる者と信じない者
 もちろん、パウロたちが告げる福音を聞いた人のすべてが、これを神の言葉として受け入れたわけではありません。神の言葉として受け入れなかった人々もいました。きっとそちらの方が、ずっと人数は多かったと思います。ユダヤの会堂に集っていた大多数の人たちは、パウロの告げるイエス様の福音を神様の言葉として聞くことはなかった。御言葉体験が彼らには起きなかったのです。従って、彼らにはイエス様への信仰は与えられることなく、テサロニケの教会のメンバーにはなりませんでした。しかし、パウロが告げるイエス様の福音を神の言葉として受け入れた人々には信仰が与えられました。そして、神の子としての新しい命に生きる歩みが彼らの上に始まったのです。パウロがこの手紙を書いたのは、そのテサロニケの教会のメンバーとなった人たちに宛ててなのです。
 しかし、どうして同じ言葉を聞きながら、それを神の言葉として受け入れる人とそうでない人が生まれるのでしょう。その本当の理由は、誰にも分かりません。パウロたちが語った福音、それは目に見える所、耳に聞こえる所で言えば、パウロたちが語っていることですから、人の言葉なのです。しかしそれは、人間が考え出したことではなく、天地を造られた唯一人の神様が愛する独り子を十字架にお架けになって示された、絶対的な救いの御意志、つまり御心だったのです。この神様の御心を告げるパウロたちの説教が、テサロニケの教会のメンバーとなった人々には、神の言葉として聞こえ、神の言葉として受け入れたのです。これは奇跡です。聖霊なる神様のお働きです。本当に不思議なことです。しかし、この不思議なことが起き続けている。それが教会の伝道の現実ですし、神の民が経験し続けてきた出来事なのです。
 この出来事は説明しようがない所があります。御言葉体験をした人ならば、「ああ、あのことね。私も経験した。」と言ってすぐに了解されることですが、御言葉体験をしたことのない人には、どう説明しても分からない所なのでしょう。

4.私の初めての御言葉体験
 私は18歳で初めて教会に行き、それから一年半ほどして、クリスマスに洗礼を受けました。しかし、洗礼までの一年以上、私は牧師の説教がさっぱり分かりませんでした。毎回イエス様の十字架と復活が説教の中で出てくるのですが、二千年も前に遠いユダヤで一人の人間が十字架に架かって死んだということが、一体自分と何の関係があるのか、さっぱり分かりませんでした。それが分かりませんので、説教の言葉に心打たれるということもありませんでした。しかし、今思いますと、その根底には、当時の私は「自分が罪人だ」とは全く思っていなかったということがあったのだと思います。
 私は、幼稚園の時にカトリックの幼稚園に通ったことがあるくらいで、おおよそキリスト教とは縁の無い所で18歳まで育ちました。母に言われるままに、毎朝仏壇にご飯と水を供えて、手を合わせる。その時に、祈るという感覚はありませんでした。習慣でしているだけのことでした。当時の私は、宗教について知っていること、そして宗教的な感覚というものは、まさに平均的な日本人といったところでした。
 ですから、自分のことは、特に善人とは思いませんけれど、悪人だとも思っていませんでした。どちらかと言えば良い人だと思っていました。日曜日の礼拝で牧師が語る「罪」というものがさっぱり分かりませんでした。しかし、ある時、自分は本当にどうしようもない悪人だと思い知らされたのです。自分という人間は、結局の所、自分さえ良ければ、他人はどうなっても構わないと思っている人間だということを思い知らされたのです。そしてその出来事の後で、いつものように日曜日に礼拝に行くと、その日の説教は、まるで私一人のために語られている、どうしてこの牧師は私のことをこんなによく知っているのか、そう思わされました。そして、生まれて初めて、「神様、赦してください。」と祈りました。それが私の初めての御言葉体験でした。牧師の語る説教が、まさにピンポイントに私に向けられた神の言葉として心に届いたのです。そして、心から神様に赦しを求める、悔い改めの出来事が起きたのです。神様は、私を完全に赦してくださいました。私は新しくされ、クリスマスに洗礼を受けました。
 あの日、同じ説教を聞いていた人たちのすべてに、同じことが起きたわけではないでしょう。しかし、私に起きた。そして、キリスト者は皆、一人一人全く違った状況の中で、しかし全く同じような御言葉体験というものを与えられ、信仰へと導かれたのでしょう。
 テサロニケの教会の人々にも同じことが起きたのです。パウロの告げる福音を聞いて、自分を愛し、救おうとされている、生ける神様と出会った。そして、キリスト者となったのです。

5.私共に働き、私共を導く神の言葉
 パウロは、続けて13節c「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」と告げます。パウロの告げた福音は、それを神の言葉として受け入れたテサロニケの教会の人々の中に宿り、信仰を与え、信仰の歩みを導くように働き続けていると言うのです。パウロの告げた説教は、何とかして福音を伝えたいと願って語った言葉でした。そのパウロの口から出た一つ一つの言葉が、聖霊なる神様のお働きの中で、神の言葉として受け入れられ、テサロニケの教会の人々に信仰を与えるという出来事を起こし、更に、その信仰の歩みを守り、支え、導くという出来事を起こし続けたのです。それは、神の言葉であるイエス様御自身が、神の言葉としてテサロニケの教会の人々の中に宿られたということでありましょう。イエス様は、実に御言葉と共に、聖霊なる神様として私共の上に臨み、私共の中に宿り、私共に働き、導かれるのです。
 その一つの明らかな「しるし」として、パウロは、迫害の中にあっても信仰にとどまり続けているテサロニケの教会の人々の姿を告げるのです。14節「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。」当時、ユダヤにあったキリストの教会は、ユダヤ教の人々から迫害を受けていました。パウロ自身、キリスト者を迫害する急先鋒の一人でした。そして、テサロニケの教会の人々もまた、ユダヤ教徒からの迫害、そして同じギリシャ人からの妨害、迫害を受けていたのです。しかし、テサロニケの教会の人々はイエス様への信仰を捨てませんでした。その姿は、全ギリシャにある教会の模範と言えるほどでした。そして、それこそがテサロニケの教会の人々の中に神の言葉が宿り、働いておられることの確かな「しるし」なのです。

6.信仰によって与えられる幸いとは
 ここで私共は、イエス様への信仰が与えられるということは、ただ平穏に暮らすことを保証するものではないということを知らされるのです。
 私共日本人の宗教観には、「〇〇を信じれば、目に見える幸が与えられる」ということを無意識に前提としている所があります。もちろん、私共の神様は天地を造られた唯一人の神様ですから、全能のお方です。そのお方が私共を愛してくださっているのですから、何も心配はありません。しかし、「イエス様を信じれば、苦しいこと、悲しいことには遭わない。」そう簡単に言うことは出来ないのです。何故なら、神様がイエス様の十字架と復活によって約束してくださっているのは、この世における目に見える幸を与えるということではないからです。イエス様は荒れ野の誘惑において、悪魔に「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言われた時、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書4章3〜4節)と答えて、サタンの誘惑を退けられました。そして、十字架にお架かりになったのです。
 イエス様が約束してくださったのは罪の赦しであり、永遠の命であり、父なる神様との親しい交わりです。神の子としての新しい命です。この世の幸ではありません。その証拠に、イエス様の弟子である使徒たちの多くは殉教したのです。この世の幸に囲まれて、長生きして、平穏に過ごしました、ということではない。使徒たちは殉教したのです。それは、彼らがこの世の幸以上の幸いを知っていたからです。この世は過ぎ去ることを知っていたからです。やがて時が来れば、神様の御前に立って、永遠の裁きを受けなければならないことを知っていたからです。私共も知っています。それを教えてくれたのが神の言葉です。それは、今まで考えたこともない世界でした。それまでは、私共は目の前の世界がすべてであり、目に見える幸を手に入れること以上の幸いがあるなどとは考えたこともなかった。しかし、あったのです。それはイエス様と共に為す、御国に向かっての歩みです。永遠の命を目指しての歩みです。神様との親しい交わりに生きる正しい道です。救いの完成を目指しての歩みです。それが、神の言葉によって私共に与えられた、新しい歩みなのです。

7.終わりに
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐は、目に見える神の言葉です。聖餐は、イエス様の十字架と復活の出来事を私共に指し示すと共に、そのイエス様が今私共と共におられること、そしてやがて天より降って来られてすべての者を裁かれること、私共が永遠の命を与えられイエス様と食卓を共にすることを指し示します。代々のキリスト者たちは、聞く神の言葉としての聖書朗読と説教、そして見える神の言葉としての聖餐に与ることによって、信仰を与えられ、信仰を養われ、その御国に向かっての歩みを確かなものにしていただいてきました。私共も今この聖餐に与り、たどたどしい信仰の歩みを確かなものにしていただきましょう。

[2016年7月3日]

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