富山鹿島町教会

礼拝説教

「我が主よ、何故なのか」
出エジプト記 5章1節〜6章1節
ペトロの手紙一 5章7〜11節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 毎月最後の主の日は旧約から、今は出エジプト記から御言葉を受けております。今日は出エジプト記の5章からです。
 モーセは、羊の群れを飼って神の山ホレブに来た時、燃え尽きない不思議な柴を見て神様から召命を受け、エジプトで苦しむイスラエルの民を連れ出すという務めを与えられました。モーセは色々理由を付けてそれを断ろうとしますけれど、一つ一つ神様に説得され、遂にエジプトに戻ることになりました。口下手なモーセのために、アロンという助け手も与えられました。モーセとアロンはエジプトに着くと、イスラエルの長老たちを集めて神様の御心、イスラエルの民をエジプトから救い出すという御計画を告げ、イスラエルの長老たちもそれを受け入れました。すべては整えられました。そして遂に、モーセとアロンはエジプトのファラオ(ファラオというのは王様のことです)のもとに出かけて行き、イスラエルの民をエジプトから去らせるようにとの交渉を行いました。それが今朝与えられている御言葉です。
 これから何度も繰り返されるファラオとの交渉の第一回目です。この交渉はうまくいったでしょうか。今、これから何度も繰り返される交渉の一回目と申しました。うまくいったのなら、交渉は一回で済んだはずです。結論を言えば、うまくいかなかったのです。うまくいかなかったどころか、状況はモーセとアロンが交渉に行く前よりももっと悪くなったのです。  順に見てまいりましょう。

2.出エジプトの目的
 1節「その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。『イスラエルの神、主がこう言われました。「わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と。』」とあります。これはモーセとアロンが勝手に言ったのではありません。3章18節bに「エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』」とありますように、神様がファラオに告げよと言われた言葉をそのままに告げたのです。私共は、このモーセとアロンのファラオに対する第一声をよく覚えておかなければなりません。ここには、何のために神様はイスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出そうとされたのか、その目的が記されているからです。
 私共は、出エジプトと言えば、エジプトという強大な国家によって奴隷とされてしまったイスラエルの民の民族解放のように考えてしまう所があるかもしれません。実際、社会的に抑圧されている人々が、この出エジプト記によって希望を与えられ励まされてきたという歴史があります。アメリカの奴隷解放運動やその後の公民権運動において、抑圧されてきた黒人の人たちは、このイスラエルの民と自分たちと重ね合わせて読んできました。韓国においても、出エジプト記は旧約の中で大変愛されている書です。その場合、エジプトは日本であり、イスラエルは韓国ということになります。そのような読み方が全く間違いだとは言いません。しかし、この出エジプトの出来事を、単純に民族解放の出来事として読むならば、それは聖書が語っていることとずれてしまうでしょう。出エジプトの出来事は、何よりもイスラエルの民を神の民として、礼拝する民として解放するということだったからです。
 「自由」或いは「解放」というものには、「○○から」という面と「○○へ」という面の、二つの面があるのです。「○○から」という面について言えば、自分たちを抑圧している国であったり、権力だったり、組織であったり、色々ある。それは現実的に分かるし、そこで人々は団結したり、一致したりするわけでしょう。問題はもう一つの面です。「○○へ」です。どこへ向かって、何を求めて、自由になろうとするのか、解放を求めていくのかということです。自由のための闘争や民族解放という場合、抑圧された状態から自由となること自体が、目的となるのでしょう。しかし、出エジプトの出来事は違うのです。神の民となる。神様を礼拝する民となる。これが目的なのです。この目的のために神様はモーセを立て、出エジプトの出来事を起こされたのです。  別の言い方をすれば、出エジプトの出来事は、まことの主人を求めての解放だったのです。私共の主人はファラオではない。この世の如何なる力も富も権力も、私共の主ではない。私共の主は、ただ一人。主なる神なのだ。そのための解放であり、闘いなのです。その神の民を生むために、神様が事を起こしてくださったということなのです。

3.主など知らない
 さて、このモーセとアロンが告げた要求に対して、エジプト王ファラオはどのように対応したでしょうか。ここには、神の民に対しての、まことの信仰を求める者に対しての、この世の力の対応というものが明確に示されております。ファラオはこう告げます。2節「ファラオは『主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた。」
 ファラオの言うことは明確です。「主とは一体何者か。わたしはエジプト王ファラオだ。わたしに命じることが出来る者がいるというのか。わたしはそんな者の言うことなど聞かない。わたしが王なのだ。」そういうことです。「わたしは主など知らない。」とは、そういうことです。私が、私こそが、私だけが主人だということです。私共はここで、ユダヤ人の王が生まれたと東方の博士たちに聞いたヘロデ王が、イエス様を殺そうとして二歳以下の男の子を皆殺しにした出来事を思い起こすでしょう。或いは、イエス様を十字架に架けるために「十字架につけろ。」と叫んだ群衆の姿を重ねることも出来るでしょう。このファラオの対応は、神様に敵対し、自らが王であろうとするすべての者の心にある思いです。「主などではない。わたしが王だ。主なんて知らない。自分は自分のために生きる。それのどこが悪いのか。わたしがすることを邪魔する者は許さない。死んでしまえ。」ということです。

4.黒い知恵
 ファラオは、自分の力を用いてモーセとアロン、そしてイスラエルの民を黙らせようとします。6〜9節「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう。』」当時のれんがは日干しれんがです。これは硬いのですが、もろい。それで強くするために、れんがを作る時に「つなぎ」としてわらを入れたのです。ファラオは、今までイスラエルの民にわらを与えてれんがを作らせていたのに、もう与えないことにしました。自分たちでわらを集めさせ、しかも今までと同じ量のれんがを作るように命じたのです。ここでファラオは、イスラエルの民を「怠け者だ」と言います。怠け者だから、主なる神などと言い出すのだ。もっときつく働かせれば、たわごとは言わなくなるだろう。そんなことを言う余裕がなくなるようにしよう。そういうことです。この「怠け者」という言葉は、17節でも繰り返されます。「彼は言った。『この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ。』」と。
 皆さんは、日曜日の度毎に主の日の礼拝を守りに来ようとする時、「怠け者」という言葉を浴びせられたことはないでしょうか。無いのならば幸いです。キリスト者がキリスト教信仰を持たない家に嫁に行き、この言葉を姑に言われ、日曜日の朝は夜が明ける前から家の仕事を済ませて、フラフラになって主の日の礼拝を守ったという婦人の話を聞いたことがあります。
 イスラエル人は勿論「怠け者」ではありませんでした。しかし、この言葉によってファラオはイスラエル人の誇り、尊厳を傷つけ、踏みにじり、反抗する力を失わせ、自分の支配の下に置こうとしたのです。ここにはこの世の力の持つ、黒い知恵と言うべきものが示されています。反抗する者にはもっときつい条件を与え、反抗する気力さえ失わせようという知恵です。そして、更には、条件をきつくすることによって、反抗する者たちとそのリーダーとの間を分裂させるという知恵です。人間の弱さを知っている、まことに黒い知恵です。苦しみによって人間をコントロールしようとする知恵、悪しき知恵、黒い知恵です。この知恵と神の民は戦わなければならないのです。

5.分裂
 イスラエルの人々は、まんまとこの知恵に操られてしまいます。イスラエルの人々は、ファラオの命令によって自分でわらを集めねばならず、作るれんがの量は変えてはならないことになってしまいました。労働強化です。当然、今までと同じ量のれんがは作れないという状況になります。すると、エジプト人に打たれる。たまったものではありません。イスラエルの人々の下役、多分、れんが作りをする人々の現場監督のような人だったのでしょう、彼らがファラオのもとに行って訴えました。するとファラオは、17〜18節「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ。すぐに行って働け。わらは与えない。しかし、割り当てられた量のれんがは必ず仕上げよ。」と答えたのです。イスラエルの下役の人々はこのファラオの言葉を聞いて、単に現場のエジプト人が言っているのではなく、ファラオが言っている。大変なことになった。そう悟ったのです。しかも、その理由が「主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ」ということでしたから、この様な状況になったのは、モーセとアロンがファラオのもとに行って交渉したからだということを悟りました。
 そして、彼らはこの事態を引き起こしたモーセとアロンに抗議します。21節「彼らは、二人に抗議した。『どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。』」あなたたちのせいで、私たちはファラオに嫌われ、死にそうなほどの辛い労働を強いられることとなった。あなたたちのせいだ。何ということをしてくれたのか。そうモーセとアロンに告げたのです。イスラエルの民の内部分裂です。ファラオの狙ったとおりの結果です。普通ですと、これで終わりです。イスラエルの人々は、更に厳しい条件の下、エジプトで働かされることになり、モーセとアロンはイスラエルの人々からの信用を失い、自分たちも出エジプトの事業を進めていく気力を失い、エジプトを去った。そういう結果になるのでしょう。

6.あなたは何故?!
 しかし、そうはなりませんでした。22節「モーセは主のもとに帰って、訴えた。『わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。』」モーセは主のもとに帰って訴えた。つまり、祈ったのです。モーセは、自分でやりたくてやったのではありません。することも語ることも、すべて神様が命じたとおりにしたのです。その結果がこれです。主よ、あなたはなぜわたしを遣わされたのか。なぜイスラエルに災いをくだすのか。なぜ、なぜなのか。このモーセの祈りは、神様に向かって激しく叫ぶ問いでありました。
 このような問いを、私共は人生の中で何度かするのではないでしょうか。私もこのような祈りを何度もしてきました。牧師は信仰深いから、どんなことがあっても神様の御旨と信じて平安でいる。そんなことはありません。私が12年前にこの教会に赴任した時、私の娘は高一から高二になる時でした。友人もおらず、大好きな仲間とのクラブ活動からも離され、学校から帰ると毎日泣いて私にこう言いました。「誰のせいだ。」私は「神様のせいだ。」としか答えようがありませんでした。娘は「神様って何なんだ。私をこんな目に遭わせて。」そう思ったかもしれません。しかし、私は「神様のせいだ。」としか答えようがありませんでした。神様の召しによって転任した。それが間違いだったのか。とても辛い三ヶ月でした。私は「神様のせいだ。」と答え続ける中で、娘も神様に対して「どうしてなのか」そう祈り、問うてもらいたかった。そこにしか答えはないと思っていたからです。幸いなことに、夏休みが終わって担任の先生から生徒会をやってみないかと誘いを受けて、生徒会活動を行うようになり、友人も出来、居場所も出来、「誰のせいだ。」を聞くことはなくなりました。神様は娘のために、良き先生、良き友人を備えてくださっていました。
 モーセは神様に「なぜですか。」そう祈った。私はこのモーセの問い、神様に向かってそう叫ばずにはいられないすべての人の祈りを、神様は受け止めてくださると信じています。なぜなら、神の独り子であるイエス様が十字架の上で、私のために、私に代わって、この叫ぶような祈りを為してくださったからです。イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしを見捨て給うや。」そう祈られた。この祈りを神様が聞かれないはずがない。そして事実、神様はイエス様を復活させられた。私共の「神様、なぜなのか。」との叫ぶような祈りは、イエス様の祈りと一つになって、必ず神様のもとに届いているのです。そして、神様はその祈りに応えて出来事を起こされるのです。そのことを信じて良いのです。
 この時、神様はモーセの祈りに応えて、こうお答えになりました。6章1節「主はモーセに言われた。『今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。』」そして、7章から「十の災い」と呼ばれる、エジプトに対しての神様の不思議な業が為されていくのです。その最後が過越の出来事です。
 私共は祈ったら良いのです。「神様、なぜなのですか。なぜ何もされないのですか。」そう祈ったら良い。この祈りを、神様は決して聞かないことにはされません。この祈りはイエス様の十字架の上での祈りと一つにされているからです。御子イエス・キリストの祈りだからです。

7.日本伝道のために祈る会に参加して
 週報にありますように、6月24日金曜日、私は東京の富士見町教会で開かれた「日本伝道のために祈る会」に行ってきました。午前11時から午後4時まで、昼食も抜きで証しと祈りを続けるという、5時間ぶっ通しの祈祷会です。K教会の伝道師だったA牧師、昨年私共の教会の伝道礼拝に来てくださったS牧師、三年連続で富山地区の長老・幹事・役員研修会に来てくださったK牧師などが準備委員として備えられた会でした。40代までの若い牧師たちが自分たちで計画し、呼びかけた会でした。100名を超える牧師たちが集まりました。F先生、K先生、M先生も来ておられました。とても良い会でした。「日本伝道のために祈る」、そのことのためだけに集まった会でした。各教区の報告もされました。数字も挙げられました。どこも厳しい状況です。そのような中で、ただ伝道するために召された伝道者たちが100人集まって祈った。「あなたに召されて伝道者として立った。あなたが命じられたように伝道している。御言葉を語り続けている。しかし、この状況は何なのですか。何故なのですか。」そう祈った。
 私は、開会礼拝の聖書朗読の時に涙が止まりませんでした。読まれた聖書の個所はハガイ書1章〜2章でした。1章14〜15節に「主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。それは六月二十四日のことであった。」とあります。ハガイ書は、バビロン捕囚から戻ったイスラエルの民が神殿を再建するように神様に命じられたことを告げています。瓦礫の山となっていた神殿。それを建て直すように神様は命じられた。そして、それに取りかかったのは6月24日であったと聖書は告げます。
 6月24日。それは75年前、日本基督教団の設立総会が富士見町教会で開かれた日でした。今年の6月24日、教団では特に何も為されませんでした。しかし、日本基督教団の伝道の現状を嘆き、100人の牧師が全国から集まり祈った。ただ祈った。次々に祈った。私は、この祈りが神様に届いたと信じています。

 神様はモーセの「なぜなのですか。」という祈りに対して、「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。」と告げられました。私共は祈るしかない。祈らざるを得ない。他には何も出来ない。しかし、神の業はそこで既にもう始まっている。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。」と告げられる主の言葉を信じて、希望を持って、神様に期待して、神様の御業を待とうではないですか。祈りつつ、信じて待つ。この信仰の姿勢をしっかり保って、この一週もまた、為すべき務めに励んでまいりたいと思います。

[2016年6月26日]

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