1.愛の共同体=教会
教会は、神様に愛されている、愛する独り子を十字架にお架けになってまで私共を救おうとするほどに神様は私共を愛してくださっている、そのことを知らされた者たちの共同体です。神様に愛されていることを知らされた者は、神様を愛する者になります。そして同時に、隣人を愛する者にされます。そのような者たちによって形作られる教会は、愛の共同体となります。しかし、教会が愛の共同体であるということは、放って置いても自然にそうなるというようなことではなくて、愛の共同体であろうとする、愛の共同体であり続けようとする、私共の不断の営みを要求します。この教会という共同体に身を置く者は、愛を問われるのです。神様を愛しているか。隣り人を愛しているか。この問いはとても厳しく、私共は自らの欠けを思わざるを得ません。そして、どうか愛を与えてくださいと、神様に向かって祈るしかありません。まことの愛は神様にしかありませんし、神様に与えていただくしかないからです。私共は、この愛を求めることにおいて本気の共同体です。本気で愛を求める共同体が他にあるでしょうか。無いでしょう。だから、この世においては当たり前のことで許されることが、誰も問題にしないことが、教会では問題になるのです。本気で愛の共同体であろうとするからです。
愛を求める共同体には家族がある。その通りです。神様は私共に、愛の共同体して形作るようにと家族や家庭を与えてくださった。しかし、それはしばしば破れるのです。どうしてなのか。理由はそれぞれでありましょう。しかし、その根底にあるのは、愛を当然のこととし、自らの愛を問おうとしない姿勢ではないかと思う。そして、愛されて当然という所で互いに甘える。しかしまことの愛とは、自らの破れを知らされ、神様の前に愛の無い自らの姿をさらされ、愛において新しくされることを願い求める所において与えられるものなのではないでしょうか。
2.愛を問われるイエス様
私共の愛を問うのは誰でしょうか。確かに、私共もしばしば愛を問います。しかしその問いは、「あなたは私を愛しているの?」という問いを受けると、沈黙を余儀なくされるのではないでしょうか。けれども、イエス様は違います。イエス様だけが、私共に真実に愛を問うことが出来ます。何故なら、イエス様だけが私共を完全な愛で愛してくださったからです。イエス様は、我が身を十字架に架けるほどの愛をもって愛してくださいました。そして、神の言葉である聖書は、私共にいつもこの愛を問うのです。私共が主の日のたびに御言葉を受ける。その時私共は、神様の愛を確信すると共に、自らの愛の無さを知らされ、悔いるのでしょう。私に愛を与えてくださいと祈らざるを得ないのです。この二つのことは、いつも同時に起きます。
ここで私共は、ヨハネによる福音書21章に記されております、復活されたイエス様がペトロに対して、三度「わたしを愛しているか。」と問われた場面を思い起こします。ペトロは三度「わたしを愛しているか。」という同じ問いを向けられたことを悲しみます。ペトロはイエス様が十字架に架けられる直前に三度、イエス様を知らないと言って、イエス様との関係を否認したからです。そのペトロに対してイエス様は、「わたしを愛しているか。」と三度問われました。ペトロは、徹底的に自らの愛の無さを思い知らされました。しかし、その後でイエス様は、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。」「わたしに従いなさい。」と告げられたのです。イエス様は、ペトロに一番大切な務めを委ねられました。ペトロはこの時、自らの愛の無さを示されると同時に、それでも愛され、赦されていることを知らされたのです。
愛の共同体である教会において、最も激しく、最も厳しく愛が問われるのは、イエス様の羊を飼うように召された牧師です。牧師はこの問いから逃げることが出来ません。神様を、イエス様を愛しているか。教会を愛しているか。いつもこの問いにさらされながら、自らの愛の無さを知らされ、愛を与えてくださいと祈り求めつつ、与えられた職務に励むのです。これは厳しいことです。しかし、この問いの前から逃げて、牧師の立つところはありません。
もちろん、牧師以外の者は愛を問われることはない、そんなことはありません。この愛の共同体に生きる者は、例外なく、愛を問われるのです。それは、この教会というものが、神の国を指し示すものだからです。「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え。」と祈る者は、何よりもまず、自らが御心に従うことを第一とするのであり、その御心とは何よりも、互いに愛し合うことだからです。この愛の姿によって、教会は自らが何者であるかを世に示すのです。私共の信じる神様は目に見えません。しかし、この教会という愛の交わりによって、神様は御自らの姿を世に示し給うのです。
3.愛の姿@ 神様を愛することを第一に
さて、今朝与えられております御言葉において、使徒パウロはテサロニケの教会の人々に、自分がどのように神の福音を伝えたかを告げます。ここには伝道者パウロの、テサロニケの教会に対する愛が語られていると言って良いでしょう。神の福音を伝えるということは、神の愛を伝えることです。ここで、伝える内容としての神の愛と、それを伝える者の姿が一つになっていなければ、それは口先だけのこと、もっとはっきり言えば、伝道者は嘘つきということになるでしょう。神の福音が、嘘つきによって伝えられるということはあり得ません。今朝は、この伝道者パウロの姿から、教会において現れる愛について学びたいと思います。
第一に、前回も見たことでありますが、パウロは人間の誉れを求めて伝道したのではありません。人に称賛されたり、尊敬されたり、重んじられたり、善い人だと思われることなど少しも求めていない。ただ神様に喜ばれることだけを求めて伝道しました。私共は、愛と言えばすぐに、人間を対象とすることを考えます。しかし、パウロがまず第一に大切にしたのは、神様を愛すること、神様に喜ばれることでありました。これは決定的に大切なことです。私共が第一に人に気に入られることを求めるならば、それは真実の愛にならないのです。私共の求める愛には規範が必要であり、基準が必要なのです。そして、それを与えてくださるのが神様なのです。
簡単な例を考えてみましょう。若い男女が恋に落ちました。二人はお互いに、相手の気持ちを自分につなぎ止めようとします。その際しばしば、自分の心を押し殺して、相手の要求に答えようとします。この時、その要求が不当であるかどうかはあまり問題になりません。とにかく、相手の求めに答えようとします。あるいは逆に、自分の要求に応えることが、相手が自分を愛しているということの証拠だと考える。そして、互いに自分の要求を相手に突きつけていく。しかし、このような関係が長く続くことはないということは、この歳になれば分かります。この時、お互いの関係において、神様の御心に従うという基準があれば、その関係は随分違ったものになるだろうと思います。これは、夫婦においても、親子においても、同じです。もっとも、この基準をあまり前面に出しますと、「あなたは神様を愛しているけれど、わたしを愛していない。」という厳しい批判を受けることになります。この言葉は真摯に聞くべき言葉です。しかし、これは次の問題です。
4.愛の姿A 幼子のように:偉そうにしない
第二に、愛の交わりにおいて大切なことは、偉そうにしないということです。7節に「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。」とあります。パウロは神様に遣わされた使徒でありますから、その権威をもってテサロニケの人々に接することも出来たのですが、パウロはそうしなかったと言うのです。権威ある者としてではなく、「幼子のようになりました」と言います。ここは写本によっては、「優しく振る舞った」というのもあります。どちらにしても、権威ある者として振る舞わなかった、偉そうにしなかったということでしょう。愛は上下関係ではないのです。
ここには、イエス様の姿が下敷きにあることは明らかです。イエス様は神の子でありながら、人間の姿をとられた。しかも、罪人と同じ所に降って来られ、罪人と同じ十字架の上で死なれた。私共はこの低きに降る神の姿によってまことの愛を学びましたから、その愛を伝え、その愛に生きる者は低きに下り、仕える者となるのです。この仕える姿に、偉そうにしない姿に、神の愛に生きる者の姿があるということです。
私が牧師としていつも祈っていることは、「言葉において、行いにおいて、謙遜な者にしてください。愛を与えてください。」ということです。私は伝道者になって30年になりますが、先輩の牧師たちが若い牧師たちの言葉に丁寧に耳を傾ける謙遜な姿に心を動かされます。頭を垂れるしかない思いを、いよいよ深くしています。そして、こうでなければ伝道出来ないということも思わされています。反省することしきりです。
5.愛の姿B 母親のように:労苦することをいとわない
第三に、愛はその人のために労苦することをいとわないということです。7節b〜8節「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」とパウロは告げます。パウロは、テサロニケの教会の人々を愛し、母親がその子を育てるように、自分の命さえ喜んで与えたいと思ったと言うのです。この「自分の命」と訳されている言葉は、「自分自身」という意味でしょう。母親はお乳を与えて我が子を育てるわけですが、それは自分の体の一部を与えて育てることでしょう。お乳を与えるだけではありません。自分の時間をその子が育つために捧げるわけです。そのようにわたしはあなたがたを愛した、とパウロは言うのです。この言葉を読んで、自らの愛を問われない伝道者はいないでしょう。私は自分の時間を、自分の力を、すべてこの富山鹿島町教会のために捧げているか。自分のすべてを注ぎ込んで愛しているか。そう問われるのです。
牧師に愛され、教会に愛された信徒は、牧師を愛し、教会を愛する信徒となる。これは本当のことだと思います。私共は神様に愛されている。そのことが更に具体的に牧師や教会に愛されるという経験を与えられることによって、その愛が形を取るようになっていくのだと思います。私自身は初代のキリスト者ですので、教会学校の生徒であった経験はありません。しかし、教会学校の教師としてそれから牧師として、40年の間、教会学校の業に関わってきました。そこでいつも一番大切にしていることは、一人一人の子供を愛するということです。正しい福音を伝えることは大切です。しかし、愛が無ければ、その福音が子どもたちの心に届くことはないでしょう。子どもたちはすぐに大きくなります。子どもたちが大きくなって教会を思い出す時、何か穏やかな、暖かなものを感じてくれればと思うのです。それは教師だけの問題ではなくて、主の日の礼拝に集う方々の、幼子たちに対する眼差し、接し方も大切なのだと思うのです。
この人のために、自分自身のすべてを与えてまでも愛そうとする姿もまた、十字架のイエス様から与えられるものです。イエス様は、文字通り御自分の命を与えて、私共を罪から救ってくださった。その愛に生き、その愛を指し示すものとされている私共なのです。
6.愛の姿C 父親のように:励まし、慰め、勧め
第四に、パウロはテサロニケの教会の人々を励まし、慰め、勧めた。それは父親のようであったと言うのです。11節「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。」とあります。この励まし、慰め、勧めるというのは、御言葉を語ることを示していると思います。私共は、牧師の務めと言えば、真っ先にこのことを思い浮かべるでしょう。これは父の役だとパウロは言います。ちなみに、カトリックでは神父と言いますね。神母じゃない。しかし、パウロはこれを、今見てきましたように、第四番目に記しているのです。私は、この順番も大切なのではないかと思っています。第一から第三までのこと、つまり「神様に喜ばれようとする」「偉そうにしない」「自分のすべてを注いで愛する」ということがあって、初めて御言葉が伝わり、相手に受け入れられるのでしょう。
7.神の家族としての教会
今見てきましたように、パウロはここで「幼子」「母親」「父親」という言葉を用いて、テサロニケの教会と自分との関わり方を語りました。そこには、教会というものが、神様によって新しく形作られる「神の家族」なのだという思いがあったのではないかと思うのです。しかし、自然の家族と言いますか、普通にある家族ですが、パウロは教会がそのような家族になれと言っているのではないと思います。そうではなくて、自然の家族は破れる、破れている。その現実のただ中に、神の家族は建てられている。私共は、この教会において、本来の家族の姿を取り戻していく。そういうことなのではないかと思うのです。家族とは良いものです。神様が私共に与えてくださった最も良きものの一つでありましょう。しかし、その家族の本来の姿を私共は見失っているのです。愛が分からなくなっている。この家族の再生はどこにあるのか。主イエス・キリストによって示された神の愛にあるのです。ここで愛を学び、家族の姿を学び、まことの家族の姿を回復していく。そのような者として私共は召されているということなのでしょう。
これから一組の御夫婦が私共の教会に転入されます。二年ほど前から礼拝に集っておられる方ですので、皆さんも既にお顔はよく知っておられると思います。このお二人が私共の教会のメンバーとなります。まさに兄弟姉妹としての交わりを為して参りたいと思います。「主にある兄弟姉妹」という言葉を、ただの言葉に終わらせてはいけません。ここに本当の兄弟姉妹としての交わりがある。そのことを、私共の言葉と行いに現れる愛において、しっかり示して参りたいと思うのです。元より欠けたる器でありますから、教会においても様々なことが起こります。しかし、イエス様に赦され、愛されている私共です。互いに自らの愛の欠けを知り、悔い改め、愛を与えてくださいと本気で祈り求めつつ歩んで参りたいと思います。
[2016年6月19日]
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