富山鹿島町教会

花の日礼拝説教

「わたしたちの本当のお友達」
ヨハネによる福音書 15章11〜17節

小堀 康彦牧師

1.ウィルス先生御夫妻のこと 〜Who is your best friend ?〜
 「皆さんの一番のお友達は誰ですか?」そう聞かれたら皆さんは何て答えるでしょう。 私が初めて舞鶴という町で伝道者になった頃、それはもう30年も前のことですが、その町にカナダから来ていたウィルス先生夫妻がいました。お医者さんの宣教師の方でした。宣教師と言っても、どこかの教会から遣わされていたわけではありません。とても偉い内科の先生で、大学を出たばかりの若いお医者さんたちを指導するために招かれていました。ウィルス先生は、昼はお医者さんとして若いお医者さんたちを指導して、夜には自宅で聖書を教える。奥さんのマーガレットさんも、昼に家で婦人たちに聖書を教える。若い時から、そうやって世界中で伝道していた方たちでした。たくさんの人がその家に集まって聖書を学びました。そこから導かれて洗礼を受け、今は教会の長老をしている人もいます。世界にはキリスト教の宣教師が入れない国がまだたくさんあります。でも、お医者さんが入れない国はありません。この御夫妻は、お医者さんを育てるために来てくださいと言われるとどこの国にでも行き、特にキリスト者が少なかったり迫害されている国に行って、キリスト教を伝えてきました。本当に素敵な方たちでした。そのウィルス先生夫妻は、日曜日には私が牧師をしていた教会の礼拝に出席していました。お二人とも日本語はほとんど分からないのです。それでも毎週、教会学校から一緒に礼拝していました。
 奥さんのマーガレットさんは、毎週一回、幼稚園の子どもたちに聖書の話をしてくれました。もちろん、英語でです。前の日に原稿が渡され、私が日本語にして、当日は園長の富士美さんが通訳しました。子どもたちはとてもよく聞いていました。そのお話の一番最初の言葉はいつも決まっていました。こう始まるのです。”Who is your best friend ?”「あなたの一番のお友達は誰ですか?」そうすると、子どもたちは大きな声で「イエス様!」と答えます。そこからお話が始まりました。
皆さんが「一番のお友達は誰ですか?」と聞かれたら、「イエス様!」と答えることが出来たら素敵なことだなと私は思っています。

2.わたしの知り合い? お友達?
 わたしたちは学校や近所にお友達がいます。一緒に遊んだりゲームをしたり、スポーツをしたりするでしょう。私にも、小学生・中学生・高校生の時からの友達がいます。同級生になった人は何百人もいるわけですけれど、今でも東京に行った時なんかに時々会うのは二、三人です。不思議だなと思います。何百人もいる知り合いの中から、何十年も友達としてずっと付き合う人はそんなに多くはないのです。
 幼稚園を出る時にこんな歌を歌ったことはありませんか。「一年生になったら、一年生になったら、ともだち100人できるかな。」ある時、幼稚園の子供のお父さんで、「先生、友達は100人もいらないでしょう。本当の友達は数人いればいい。100人の知り合いは出来ても、100人の友達は出来ないし、作らなくても良いでしょう。」そう言った方がいました。確かに。知り合いは100人出来ても、友達は100人出来るだろうか、と私も思いました。きっとあの歌は「知り合い」のことを友達と言っているんだと思います。
 では、知り合いと友達の違いって何なのだろう?
 イエス様はこう言われました。13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」すごい言葉ですね。自分は友達のために命を捨てることが出来るだろうか。とても出来ない。一緒に遊んだり、楽しいことをすることは出来るけれど、その友達のために自分の命を捨てることなんてとても出来ない。皆さんもそう思うでしょう。だったらわたしには友達はいないのかな。そもそも、イエス様は何でこんなことを言われたのでしょうか。

3.わたしの一番のお友達=イエス様
 イエス様は御自分の命を十字架の上で捨てられました。誰のために? 私のためにです。つまり、イエス様は私のことを「これ以上に大きな愛はない」ほどに大きな愛で愛していることを示してくださったのです。そして、私を友と呼んでくださった。友のために自分の命を捨てられたのは、実はイエス様なのです。それほどまでにわたしたちを愛してくれる友達はいません。だから、イエス様がわたしたちの一番の友達なのです。イエス様は、「わたしはあなたのために命を捨てる友達です。わたしがあなたの一番の友達です。」そう言われたのです。
 皆さんは、「この人はぼくの一番の友達です。」そんな風に言われたらうれしいですよね。ぼくはそこまで思っていなかったけれど、そんなにまでぼくのことを思ってくれているんだ。イエス様はぼくのことをそこまで思ってくれている。なんかうれしいですよね。
 一番のお友達。それはいつも一緒にいる友達でしょう。そして、自分が失敗したことも言える友達ですよね。ただの知り合いに、自分が一番困っていることや悩んでいることなんて言えません。でも一番の友達には、何でも言えますよね。それは、この友達は何を言っても自分のことを嫌いになったりしない、そういう自信があるからでしょう。イエス様がわたしの一番のお友達だというのは、そういうことだと思います。イエス様はいつもわたしと一緒にいるし、わたしの心の底の一番嫌な所も知っているし、それでもわたしのことを嫌いになったりしません。
 でも、わたしたちが悪いことや意地悪なことをすれば、一番悲しむのもイエス様です。「そんなことをしてはいけない。そんな風に考えてはいけない。」そう教えてくれるのもイエス様です。イエス様は、わたしたちが悪い心で人に意地悪したり、いじめたりする時、「やっちゃえ、やっちゃえ。」なんて決して言いません。「そんなことしちゃダメじゃないか。」と言われます。

4.一番のお友達が喜ぶことをしたい
 わたしたちは大抵、自分のことばかり思っています。自分が楽しくて、自分が楽が出来て、自分が得をすれば、それで良いと思っている所があります。でも、イエス様が一番のお友達なら、それは少し違ってくると思います。一番のお友達が悲しむこと、一番のお友達が嫌だと思うことは、したくないと思う。そうでしょう。もっと言えば、一番のお友達が喜ぶことを一緒にしたいと思うでしょう。
 イエス様が一番喜ぶこと。それは何かな? それは、わたしたちが「互いに愛し合うこと」です。イエス様がわたしを愛してくれたように、わたしも他の人を愛する。それがイエス様の一番お喜びになることです。
 イエス様は私のために十字架の上で命を捨てられました。私はそこまで出来ないなと思います。でもイエス様は、わたしたちにそんなことをお求めになっているのではありません。もっと身近で、もっと簡単なことです。それは、弱い人、小さい人、困っている人に、自分の時間、自分の心、自分の力を少しでも捧げることです。
 これは、別の言い方をすると、喜んで人のために損をすることが出来る人であるということです。愛というのは、その人のために喜んで損をすることです。損しても、それを損だと思わない心です。

5.友達の友達は友達
 さて、「友達の友達は友達だ。」なんて言葉があります。イエス様が一番の友達だという人同士は、イエス様の友達ということですぐに友達になります。イエス様が一番の友達だという人が集まっている所、それが教会です。この教会は、日本中に、世界中に広がっています。中学生や高校生になると、北陸にある教会の中高生たちによる修養会や全国の中高生たちによる修養会があって、そこで初めて会った人たちともすぐに友達になれます。それは、そこに集う人たちはみんな、イエス様が一番の友達という人たちだからです。中高生だけではありません。牧師もスタッフもみんなそうです。中高生になったら、そういう所に出て行って、イエス様が一番の友達という人がこんなにたくさんいるんだということを知って欲しいと思います。そして、青年になったら、世界中からイエス様が一番の友達という人たちが集まる大会にも行って欲しいと思っています。
 今日、教会学校の子どもたちは、お花を持って逓信病院に行きます。「元気になってください」と書いたカードを、さっき作りました。そのカードと一緒にお花を渡して、お見舞いします。歌も歌います。これは、イエス様が言われた「互いに愛し合いなさい。」という言葉に適うことです。イエス様もきっとお喜びになるでしょう。
 わたしたちの一番のお友達はイエス様です。イエス様と一緒に、イエス様が喜ばれることを、小さなことでも良いですから、今週もしてまいりましょう。

[2016年6月12日]

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