富山鹿島町教会

礼拝説教

「隠されたる神の知恵」
出エジプト記 4章18節〜31節
コリントの信徒への手紙一 13章12節

小堀 康彦牧師

1.前回を振り返って
 一ヶ月前に出エジプト記から御言葉を受けましたのは、3章のモーセが神様から召命を受けた所からでした。ミディアンの地で羊飼いとなっていたモーセに、神様は燃え尽きない柴を見せて、御自分の所に招かれました。そして、イスラエルの人々をエジプトから連れ出すという使命をお与えになりました。しかしモーセは、すぐにこの神様の突然の召命を受け入れたわけではありませんでした。モーセは次々と、自分にはそんなことは出来ないという理由を見つけては、神様の召しを断ろうとします。それに対して、神様は一つ一つ丁寧にお答えになって、モーセを説得されました。「わたしは何者でしょう。」とモーセが言えば、神様は「わたしは必ずあなたと共にいる。」と答え、「神様、あなたの名を問われたら何と答えるべきでしょうか。」とモーセが言えば、神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と答えられました。また、杖を蛇に変え、手をふところに入れれば重い皮膚病になり、ナイル川の水をくんで地面にまけば血に変わるという不思議を行うことも出来るようにされました。そして、「わたしは口が重い者です。」とモーセが言えば、弁の立つアロンを助け手として与えるというあり方で説得されました。モーセは遂に、もう断る理由が無くなり、神様の召しに従って、エジプトに戻りイスラエルの人々をエジプトから連れ出すという大事業に遣わされることになりました。それが、今朝私共に与えられている御言葉です。

2.モーセ、エジプトに帰る
 まずモーセはミディアンに帰り、しゅうとのエトロに「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。」と言います。理由は、親族が「まだ元気でいるかどうか見届けたい」ということでした。この時モーセは、エトロに対して正直に「イスラエルの人々をエジプトから連れ出すという役目を神様からいただいたので、エジプトに戻ります。」とは言いませんでした。心配させたくないという思いだったのかもしれません。この時点でモーセは、これから何が起きるのか全く分かっておりませんでしたから、話しようがなかったということだったのかもしれません。エトロは「無事で行きなさい。」と言って、モーセと共に、モーセの妻である自分の娘のツィポラと孫のゲルショムを送り出しました。
 ここで注目すべきは、この時、主がモーセにエジプトに帰るように語り、主がモーセを導かれたということです。19節「主はミディアンでモーセに言われた。」とあります。モーセがミディアンの地からエジプトに戻って行くのは、この主の言葉による導きの中で為されたということです。モーセは、エジプトに戻りイスラエルの人々をエジプトから連れ出すために召されました。しかし、いつエジプトに戻るか。その時を、改めて神様がお示しになったということです。19節b「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」この言葉を受けて、モーセはエジプトへと戻って行ったのです。ここで、「神様の時」というものがあることを思わされます。モーセは人殺しをしてお尋ね者になったので、エジプトから逃亡したのです。だから、エジプトに戻るには、モーセの命をねらう人が死んでしまったという時まで待たねばならなかったのです。
 ちなみに、これは幼子のイエス様がエジプトからユダヤに戻る時に、ヨセフに夢の中で告げられた言葉でもあります。神様の救いの御業は、神様の時が満ちる時に為されるということなのでしょう。私共がその「時」を決めることは出来ません。

3.神様がファラオの心をかたくなにする?
 さて、エジプトに戻るモーセに、神様は21節以下の言葉を与えられました。これが実に不思議な言葉なのです。主は言われます。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。」これは分かります。問題はその次の言葉です。「しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。」だったら、モーセがファラオの所に行っても意味が無いではないか。どうして神様は、ファラオの心をかたくなにされるのか。神様がここで為すことは、その真逆のこと、ファラオにモーセの言うことを聞かせるということではないのか。誰もがそう思うでしょう。しかし、神様は「わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。」と言われたのです。どうしてでしょうか。しかも、この言葉は出エジプト記の中で、何度も何度も繰り返される言葉なのです。この時、たまたま言われたというような言葉ではないのです。この言葉をどう受け取れば良いのか。ここに出エジプト記を読みます時の、大切なポイントがあることは間違いありません。
 この言葉は確かに不可解な言葉であり、不可解な神様の為さりようです。しかし、よく考えてみますと、これは何も出エジプトの時にモーセとファラオの間においてだけ起きたことではないのです。例えば、イエス様の福音が使徒たちによって伝えられていく時、使徒たちは神様に召し出され、福音を宣べ伝える者とされ、彼らはその召しに応えて献身しました。その結果はどうだったでしょうか。イエス様の福音に触れた者は皆、イエス様の福音を受け入れ、イエス様を信じる者になったでしょうか。確かに、イエス様を信じ、これに従う者も起こされました。しかし、そうではなかった人の方がずっと多かったのです。そして、使徒たちの多くは殉教したのです。今もそうです。私共は神様・イエス様の言葉に従って伝道する。しかし、その結果たくさんの人が悔い改めて洗礼に導かれるわけではありません。
 このことを考え合わせますと、ここで神様が「ファラオの心をかたくなにする」ということは、「かたくなでない者の心をかたくなにする」というようなことではなくて、「かたくなな者を放っておく」、「かたくなな者の心を、ロープで縛り上げて柔らかくするというようなことはされない」そういうことではないかと思うのです。これは自由の問題でもあります。神様は私共を造られた際に、自由を与えられた。その自由を奪うあり方で、私共を神様に従う者にはされなかった。それは今でも、誰に対しても同じです。神様は出来事を起こし、私共が神様の御業に触れ、悔い改めるようにと導かれます。けれども、だからといって、私共の心の中に直接入ってきて、私共を無理矢理悔い改めさせるようなことは為さらない。私共が気付くのを待っておられる。それが神様の為さりようなのです。ここで、神様がファラオの心をかたくなにすると言われたのは、そういう意味なのだと思うのです。

4.わたしの長子:イスラエル
 更に、主なる神様は22〜23節「あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」と告げられます。イスラエルは御自身の長子、長男だと言われる。長男というのは、跡取りということです。神の民というのは、神様の資産を受け継ぐ、跡取りなのです。ローマの信徒への手紙8章15〜17節に「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」とある通りです。神の民である私共は、神様の長子として愛され、取り扱われているということです。ありがたいことです。
 この神様の長子である神の民イスラエルを去らせよと命じたのに、ファラオはそれを断った。故にお前の長子を殺す、と神様は言われた。これは、あの過越の出来事を指しているのでしょう。この時、モーセはまだファラオに会ってもいない。これからモーセは何度もファラオとの交渉をするわけです。しかし、神様はそれが始まる前から、結局は過越の出来事に至るということを見通しておられるわけです。
 モーセは、これから何が起きるのか、この時全く知りません。私共も同じです。私共は明日を知りません。しかし、神様は知っておられる。この時、神様はモーセにこれからの結末を告げておられますが、多分、この時モーセは神様に何を言われているのか分からなかったのではないかと思います。それはちょうど、イエス様が弟子たちに三度、御自身の十字架と復活を予告されたけれど、その時弟子たちはイエス様が言われたことを何のことか全く分からなかったというのと同じです。
 神様のこのすべてを見通しておられる知恵は、いつも人間には隠されているということなのでしょう。人間には、今しか分からない。しかし、神様は知っておられる。だから、私共はこの神様の御手の中にある明日を信じて、今やれるだけの精一杯のことを為していく。それしかない。しかしそれは、私共を長子として愛し、お取り扱いくださる神様の御計画の中、愛の御手の中で歩むことなのでありますから、安んじて為すべき事を為していけば良いということなのです。

5.裁かれる不徹底な服従
 モーセがエジプトに戻る途中、また不可解なことが起きました。24〜26節「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、『わたしにとって、あなたは血の花婿です』と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに『血の花婿』と言ったのである。」これは本当によく分かりません。神様がモーセを殺そうとされたと言うのです。これから神様の召命に応えて、エジプトに行ってイスラエルの民を導き出そうとするモーセを、どうして殺そうとされるのか。全く不可解です。ただ、ここにあるように、この時モーセの息子ゲルショムはまだ割礼を受けていなかったのです。モーセの妻ツィポラは、この時とっさにゲルショムに割礼を施し、その血をモーセに付けて、「あなたは血の花婿です。」と叫んだので、モーセは助かったと聖書は記します。
 このことは、神様の御業に仕えようとしているモーセの中にある、不徹底というものに対して、神様が裁こうとされたということを意味しているのではないかと思います。神様はアブラハム・イサク・ヤコブとの契約の故に、今、モーセを遣わしてイスラエルの民を救おうとされているわけです。そういう時に、モーセの息子ゲルショムが割礼を受けていない。アブラハムとの契約を無視し、これに従っていない。そのようなことで、どうして神様の御用に仕えることが出来るのか。そういうことではなかったかと思うのです。
 私共は、神様の為さることは不可解だ、よく分からないと思います。確かに、私共は神様の為さることがいつでも良く分かるわけではありません。しかし、「神様の為さることは不可解だ、分からん。」と言う前に、自分自身の有り様、神様に対して本当に愛し、信頼し、従っているか、不徹底ではないか、そのことを吟味する必要があるのではないでしょうか。神様が私共に求めている献身というものは、いつでも徹底的なものなのです。不徹底さこそ罪なのです。
 しかし、そんなことを言っても、人間はいつでも不徹底なのではないか。その通りです。私共は不徹底なのです。だから、イエス様が十字架にお架かりになってくださったのです。しかし、私の不徹底のためにイエス様が十字架にお架かりになられたことを知らされた者は、その不徹底の上にあぐらをかいていることは出来ないでしょう。一歩、更に一歩、私の愛を、私の信仰を、私の従う有り様を徹底させてください。そう祈るしかないのでしょう。そこに、御国に向かっての私共の歩みというものがあるのです。

6.約束を果たされる神様
 27節「主はアロンに向かって、『さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい』と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。」とあります。神様は、口下手なモーセのために弁の立つアロンを備えると約束されましたが、ここでその約束を果たしてくださいました。神様の御業というものはいつも、一人でやるものではありません。パートナーがいるのです。一人一人は欠けばかりです。しかし、その欠けを持った一人一人が組み合わされて、神様の御用に仕えていくのです。キリストの教会というものは、この神様の配剤によって組み合わされた者たちの群れなのです。エフェソの信徒への手紙4章16節「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」と言われている通りです。
 モーセとアロンは、イスラエルの長老たちを集めます。そして、アロンは神様がモーセに語られた御言葉を語り、モーセは神様が与えてくださった不思議、杖を取って蛇にしたり、手をふところに入れて皮膚病にしたりということをしたのでしょう。モーセが神様に召された時に心配していた、民が自分たちを神様に遣わされた者として受け入れてくれるかどうかという問題はクリアされました。モーセはお尋ね者としてエジプトから逃げたわけですから、神様に遣わされた者として皆が自分を受け入れるかどうか、本当に不安だったと思います。しかし、その不安は取り除かれました。31節に「民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した。」とあります通り、民はモーセとアロンを信じ、神様が自分たちを忘れておられない、自分たちを顧みてくださっているということを知らされて、神様を拝んだのです。モーセとアロンを中心とした神の民イスラエルが、ここに生まれたのです。神様がモーセと共にいてくださるという約束は、こうして具体的な出来事として現れたのです。モーセとアロンは、ここで手応えのようなものを感じたのではないかと思います。その手応えというのは間違いではなかった。これからモーセたちは神様の命じられる通りにイスラエルをエジプトから導き出していくわけですが、その過程で「神様が共にいてくださる」ということを何度も何度も味わい知っていくことになります。

7.インマヌエルの恵みの中で
 しかし、だからといって、これからのモーセとアロンによるファラオとの交渉がとんとん拍子に事が運ぶかというと、そうではありませんでした。先程申しましたように、ファラオのかたくなな心は、そう簡単に変わったりはしなかったのです。ここで私共は、神様が共にいてくださるということは、すべてとんとん拍子に事が進んでいくということを意味しないということを、しっかり覚えておきたいと思います。
 私共は事がうまく運びますと喜び、障害に遭ってうまく事が運びませんと、もうダメだとすぐ思ってしまうところがあります。遂には、神様に見捨てられたとか、御心に適わないのではないかと思ったりもします。人間とはそういうものなのでしょう。しかし、私共は神様と共にあります。「神、我らと共にあり。」というインマヌエルの恵みの中に生かされています。けれど、インマヌエルの恵みの中にあるから、いつでもすべてが順風満帆に事が進んでいくかというと、そうではない。色々なことが次から次へと起きる。どうしてこんなことがと言いたくなるようなことにも出くわすのです。でも、私共からインマヌエルの恵みが無くなったわけではないのです。
 少し先取りして申しますが、これからモーセとアロンは、繰り返し繰り返しファラオのかたくなな心に跳ね返されるのです。十の災いを受け、過越の出来事に至るまで、ファラオはイスラエルの民を去らせはしないのです。少しも順調ではない。しかも、エジプトを脱出した後も、エジプト軍がモーセたちを追いかけて来ます。更に、約束の地カナンまでは普通に歩いて一ヶ月もあれば十分着きます。ところが、イスラエルの民は四十年もの間、荒野を旅し続けなければならなかったのです。
 モーセとアロン、そして神の民イスラエル。彼らにはインマヌエルの恵みがいつも備えられておりました。しかしそれでも、あっという間に、簡単に、事が運んだということではなかったのです。どうしてなのか、私共には分かりません。この分からないということが、私共の人生にはたくさんあるのです。そのような私共に、今朝、神様は聖書の出来事を通して、しかし神様の御計画はあり、インマヌエルの恵みの中にあり続けることに変わりはない、ということを教えておられます。
 更に、コリントの信徒への手紙一13章12節に「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」とありますように、今分からないことも、やがて分かるようになる。神様がすべてを知っておられるように、私共も知ることになる。そう約束されています。それは終末の時です。その時、私共はすべてを知るようになります。神様の知恵が私共に明らかにされるからです。しかし、その日までは分からないことがたくさんあるのです。知ることが許されていないことがたくさんある。しかし、その日を待ち望みつつ、分からないことは分からないこととして、しかしはっきり示されている神様の御心はきちんと受け止めて、インマヌエルの恵みの現実の中を、為すべきことをそれぞれが為して、一足一足歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2016年5月29日]

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