富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしたちの希望」
ダニエル書 7章11〜14節
テサロニケの信徒への手紙一 1章8〜10節

小堀 康彦牧師

1.自分の望みを叶えるための偶像
 私共は何を希望として生きているのか。改めてこのような問いを受けますと、ほとんどの日本人は、何と答えれば良いのか、いささか戸惑い、答えるのに困ってしまうのではないでしょうか。特に考えたこともないという人もいるでしょうし、若い人ならば自分の将来の夢や、子どもの成長などを思うかもしれません。しかし、高齢になった人に聞くならば、「自分にはそんなものはない。」と答える人も少なくないのではないかと思います。一方、その反対に、何が不安ですかと問うならば、それこそ山のように、次々と答えが出てくるのではないかと思います。そして、その多くは、健康のことや年金や将来の生活のことでありましょう。それは、まさに目に見える現実の問題です。この不安を解消するために、保険に入るとか、蓄えをしておくとか、色々と対策を取る。しかし、この不安というものはなかなか解消しませんので、最後には神頼みとなる。この神頼みの対象が、聖書で言われるところの「偶像」と呼ばれるものなのです。偶像というのは、何も目に見える木や石で作った像だけを指しているのではありません。要は、自分の願い、自分の求めを叶えさせるために人間が造り出した、神ならぬ神のことなのです。
 この偶像は、いつの時代にも、世界中どこにでもあります。この日本にもありますし、今朝与えられております御言葉、テサロニケの信徒への手紙を受け取ったキリスト者たちが住むテサロニケの町にもたくさんありました。テサロニケの町はギリシャの北部、当時のローマ帝国におけるマケドニア州の州都でした。ギリシャの文化は多神教です。日本とよく似ているのです。火の神、風の神、出産の神、海の事故から守る神、収穫の神、病気をいやす神、ありとあらゆる人間の不安を解消するための神様が祀られていました。日本もそうでしょう。

2.偶像から離れて
 そのようなテサロニケの町に住む人々にイエス様の福音が伝えられて、これを受け入れ、信じる者が生まれた。彼らはどうなったのでしょうか。9節の中ほどに「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったのか、」とあります。実に、テサロニケの教会の人々は偶像から離れたのです。そして、生けるまことの神に仕える者となったのです。
 十戒の第一の戒は、「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」であり、第二の戒は、「あなたは、自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」です。この第一の戒と第二の戒。私共はこれを、第一の戒、第二の戒と分けて数えますけれど、この第一の戒と第二の戒をまとめて第一の戒と数える伝統もあるのです。ルター派がそうです。事柄としては、第一の戒と第二の戒は分けることが出来ないのは明らかでしょう。生けるまことの神に仕えるということは、偶像を離れるということです。自分を造り、自分を救い、自分を生かし、自分を導いてくださっているただ独りの神様を信じるということは、一切の偶像を必要としなくなるからです。
 偶像は人間の願いによって生まれました。ですから、すべての偶像は人間の願いを叶えるためにあります。ということは、この偶像に捧げられる祈りというものは、自分の願いを叶えてもらうための祈りになります。このことは、日本人である私共には良く分かることだと思います。「祈り」イコール「願い」なのです。私共がキリストの救いに与る前、初詣に行って何を祈っていたか。結局の所、家内安全・商売繁盛ということではなかったでしょうか。それ以外の祈りを知らなかった。ですから、この祈りをいくら熱心に為したとしても、私共は決して変わることがないのです。
 しかし、イエス様に救われた私共は、自分の願いだけを祈る祈りから、全く別の祈りの世界へと導かれました。それが、「主の祈り」によって示された祈り、「主の祈り」によって導かれる祈りです。今、「主の祈り」のすべてを見る時間はありません。しかし、その冒頭の神様への呼びかけ、「天にまします我らの父よ。」この呼びかけは、偶像に対して捧げられていた祈りと全く違います。天地を造られたただ独りの神様が、私の父となってくださった。私は神の子とされた。全能の神様が私を救い、守り、導いてくださっている。この大安心。そこに生きる者となったのです。「願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈りは続きます。ここで私共は、明らかに自分が変えられたことを知ります。私共が願い求めることが変わったのです。自分の欲求を満たすことや自分の不安を解消することよりも大切なことがある。その大切なことのために神様に祈る。それは「御心が成る」ことです。この変化は、私共がその根本から大転換してしまったことを示しているのではないでしょうか。神様が自分の願いを叶えるための偶像からまことの生ける神に変わるということは、全く新しい人間に生まれ変わるということなのです。祈りが変わるとはそういうことです。自分が求めること、生きる意味が、目的が変わってしまうのです。テサロニケの教会の人々は変わってしまったのです。私共も変わってしまった、変えられてしまったのです。

3.大いなる希望=終末の希望
 そして、その変化の中でも特筆すべきことは、キリスト者には大いなる希望が与えられたということです。その大いなる希望とは、御子イエス・キリストが天から来られるという希望です。10節「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」これは終末を待ち望む希望です。それまで、テサロニケの人々は終末を知りませんでした。ですから、この本当の希望というものも知らなかったのです。それまでは、希望といえば、現実的な様々な不安と対を為すような、健康になるとか、豊かになるとか、欲を満たすとか、そういうことでしかなかった。その思いは、徹底的に地上の生活のことに向いていたのです。しかし、パウロたちが伝えたイエス様の福音はそんなものではありませんでした。完全な罪の赦し、復活の命、神の国の到来でした。十字架に架かり死んで、三日目に復活され、天に昇られた、あのイエス様が再び来られる。その時自分たちは、イエス様に似た者に造り変えられ、復活の体を与えられ、全き愛、全き平安、全き喜び、全き祝福に包まれる。その日を待ち望みつつ、今を生きる。そのような者に変えられたのです。だから彼らは、迫害を受けても信仰を捨てるようなことはしなかった。その信仰の有り様が、全ギリシャに響き渡ったのです。
 テサロニケの教会の人々が全ギリシャの教会の模範となったのは、実にこの終末を待ち望む信仰、まことの希望によって支えられて、周囲の者たちからの妨害や迫害にもかかわらず、信仰に立ち続けた。その姿こそが模範となったのです。そして、その彼らを支えた終末の希望、終末信仰、これこそキリストの教会において保持されてきたものであり、どんな時代、どんな境遇にあっても、主と共に生きること、信仰に生きることが出来るようにキリスト者を支え続けてきた、まことの希望なのです。
 この希望は、私共の眼差しを天に向けさせます。私共の視線は、大抵自分の身の周りの、地上の出来事に向けられています。偶像が与える視線もそうです。しかし、父なる神様が、イエス様が、聖霊なる神様が、私共に与えてくださる眼差しは、天に向けられます。またそこから、御子イエス・キリストが来られる将来に向けられます。そして、この終末に与えられる祝福は、肉体の死を超えたものです。偶像が与えるものは、死を超えるものではありません。徹底的に現世主義です。しかし、主イエス・キリストによって与えられるまことの希望、終末的希望は、肉体の死を超えるのです。これこそ、私共に与えられているまことの希望なのです。

4.迫害に遭っても
 教会において古くから言われて来た言葉に、「殉教者の血は教会の種子である。」という言葉があります。二世紀の神学者テリトリアヌスの言葉です。すごい言葉です。しかし、これは本当のことです。キリスト教会の長い歴史の中で、厳しい迫害を受けたことも何度もありました。けれども、そのことによって教会が無くなることはありませんでした。そのような危機の時代には、この終末信仰がいよいよ明確にされ、信仰にしっかり立つ者が起こされるからです。聖書の中では、ステファノの殉教を思い起こすことが出来るでしょうし、ペトロもパウロもローマで殉教して、その墓の上に今、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂が建っています。日本の歴史の中で、宗教で結束した人々による、時の権力者に対しての抵抗運動が激しく起こされたのは、キリスト教による島原の乱と浄土真宗による一向一揆くらいだと思いますが、この二つには、形は違いますが、終末信仰が強烈にあったし、明確だったということがあるでしょう。
 中国の浙江省温州市。現在の人口は一千万人くらいですが、その人口の十数パーセントがキリスト者だと言われています。ここではこの数年、大きな教会堂が壊されたり、中国政府による様々な妨害がありました。皆さんもニュースで見られたことがあるかと思います。ここでは、キリスト者は公務員になれないとの通達がされたそうです。しかし、この町のキリスト者たちはそれによって少しも意気消沈していないとの報告を、中国に留学していた牧師から受けました。今、中国には一億人のキリスト者がいると言われています。政府の発表では一千万から二千万人ですが、実際には、政府が把握していない「家の教会」というものに集うキリスト者がその何倍もいるからです。そして、2030年には二億人を超えるとのことで、早晩、世界で一番キリスト者が多い国になると言われています。私は、温州市の教会の姿、キリスト者の姿を知らされて、本当に励まされました。テサロニケの教会の人々のことが全ギリシャ中に響き渡ったとは、こういうことだったのではないかと思いました。今、温州教会の信仰がインターネットを通じて全世界のキリスト者に伝えられ、励ましを与えているのです。証しが立てられているのです。キリスト教の信仰は、その信仰に生きる人の人格を通して、その人が立てる信仰の証しによって伝えられていくものなのです。

5.終末信仰に生きる
 テサロニケの教会の人々は、イエス様の福音を伝えたパウロやシラスの姿を見て、その信仰の有り様を見て、彼らの語る福音を信じたのでしょう。イエス様の福音は、それを伝える者の信仰、人格、生き方、その存在の有り様、それを抜きに伝わることはありません。テサロニケの人々に福音を伝えたパウロの信仰の中に、イエス様の再臨を待ち望む、明確な終末信仰があったのです。そして、その信仰に生きるパウロの姿をテサロニケの人々は見た。そして、信じた。パウロは迫害されても、鞭打たれても、牢に入れられても、福音を語ることを止めなかった。終末の希望に生きていたからです。そして、テサロニケの教会の人々もそれをちゃんと受け継いだということなのです。私共もそうです。使徒信条の中に「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。」と告白され、日本基督教団信仰告白において「主の再び来たり給うを待ち望む。」と告白されている通りです。この終末における救いの完成を信じる人によってイエス様の福音は伝えられ、救いに与る人々が起こされてきたのです。
 私共の希望はここにあります。この世のものは、どんなに輝いて見えたとしても、やがて朽ちていきます。しかし、私共に備えられている天の財産、復活の命、永遠の命、父なる神様との祝福に満ちた永遠の交わりは、朽ちず、汚れず、しぼむことがないのです。私共は主の日にここに集うごとに、私共に備えられている、終末における救いの完成へと眼差しを向けるのです。どんなに困難な状況があったとしても、苦しみや嘆きがあったとしても、イエス様が来られるのです。たとえこの肉体が滅びたとしても、天に備えられている財産は少しも損なわれることがありません。だから私共は、この地上にあって、その日を目指して、今為すべき業、神様によって召し出された者として為すべき業に励むのです。目に見える褒美などありません。そんなものは要らないのです。私共に備えられているものは、この地上のどんな富や誉れも比べようがないほどに大きく、輝くものだからです。
 この終末信仰が弱くなったり、失ったりしますと、キリスト教はただの倫理を説く、つまらないものに変貌してしまいます。善い人になりましょう。善いことをしましょう。そんなつまらないことをキリストの教会は伝えてきたのではないのです。そんなことならば、この世の知者たちが語ることと少しも変わりません。私共はそんなつまらないものを受け取ったのではないのです。代々の聖徒たちは、そんなつまらないものを伝えるために、命をかけてきたのではないのです。この地上のすべてを失ったとしても、感謝と喜びの中に生きることが出来るもの。イエス様が再び来たり給う時に、すべての者が裁かれる時に、一切の罪を赦され、キリストと一つにされた者、神の子として永遠の命に与る。この救いを、ただ信仰によって、恵みとして与えられたのです。これが福音です。この福音に与った者として、神様が求められること、喜ばれることを、精一杯為していく。それが、私共に与えられた地上の命の用い方なのです。
 この救いの恵みの中に生き切る者として、この一週もまた、主と共に、主の平安の中を歩んでまいりましょう。

[2016年5月22日]

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