1.テサロニケの信徒への手紙一について
今日からしばらくの間、テサロニケの信徒への手紙一から御言葉を受けて参ります。この手紙は、新約聖書の中で一番古い文書であると一般に考えられています。使徒パウロによって、おそらく紀元50年頃に記されたと思われます。イエス様が十字架にお架かりになり、復活されてからまだ20年しか経っていない。キリストの教会が生まれたばかりの頃のものです。生まれたばかりのキリストの教会がどのような信仰に生きていたのか、その息遣いのようなものが伝わってくる手紙です。この手紙は、ガラテヤの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙のように、教会の中で何か問題が起きたために、伝道者であり牧会者であるパウロが、何とかその問題を解決しようとして書いた手紙ではありません。そうではなくて、パウロが、伝道したテサロニケの教会の人々が健やかな信仰に生きていることを喜び、感謝して記したものです。ですから、この手紙を読んでいく中で、私共の信仰もまた健やかで確信に満ちたものとなることを願い、共々に読み進めて参りたいと思っております。
2.パウロとテサロニケの教会の関係
このテサロニケの教会はパウロによって伝道された教会なのですが、そのことを記しているのが使徒言行録の17章です。その直前の16章で、パウロとシラス(このシラスが、テサロニケの信徒への手紙一1章1節に出てくるシルワノのことです)はフィリピで伝道しました。この時、パウロが占いの霊に取りつかれている女奴隷から占いの霊を追い出したのが発端でトラブルになり、パウロとシラスが牢に入れられてしまうということが起きました。しかし、神様は地震によって牢の戸を開きます。それでもパウロとシラスは牢から逃げず、そのことによって看守と家族の者が洗礼を受けるという出来事が起きました。この時にパウロが言った言葉が、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16章31節)という有名な言葉です。次の日、パウロとシラスは牢から釈放され、フィリピを後にします。そして、次に伝道したのがテサロニケの町でした。このテサロニケという町は、当時ローマ帝国の中でマケドニア州の都でした。現在でも、ギリシャ共和国で首都アテネに次ぐ、第二の大都市です。
パウロとシラスはテサロニケに着くと、まずいつものようにユダヤ人の会堂に入って、十字架に架けられたイエス様こそメシアであるということを論じました。そして、17章4節には「それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。」とあります。テサロニケでのパウロの伝道は、かなりの成果を上げることが出来たようです。この時に生まれたのがテサロニケの教会です。まだ会堂も無く、私共の教会よりも小さな群れであったかもしれません。17章2節によると、パウロは、「三回の安息日にわたって」ユダヤ人の会堂でイエス様がメシアであることを論じたとありますが、テサロニケに居たのが三週間だったということではないでしょう。数ヶ月は居たと思われます。しかし、ユダヤ人たちのねたみを受け、暴動騒ぎを起こされ、パウロとシラスはテサロニケを去らなければならなくなってしまいました。
パウロにしてみれば、生まれたばかりのキリスト者たちを残していかなければならなかったわけです。心残りがあったに違いありません。テサロニケの信徒への手紙一2章17〜18節に「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。」とあります。パウロは、何度もテサロニケの教会を再訪したいと思ったのですが、それは叶えられませんでした。ずっと気になっていたのです。そこで、3章2節を見ますと、「テモテをそちらに派遣しました。」とあります。自分は行けないので、信頼するテモテを派遣したというのです。そして、3章6節「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。」とあります。「うれしい知らせ」とは、テサロニケの教会の人たちが、しっかり福音を保持して、信仰を守っているという知らせでした。パウロは喜び、うれしくてこの手紙を書いたのです。
パウロとテサロニケの教会との間にはそのような関係があったのです。パウロはテサロニケで伝道し、キリストを信じる者の群れが生まれた。しかし、すぐにその人たちと別れなければならなかった。パウロはテサロニケの人々のことを思い、祈ったに違いありません。そして、信頼するテモテを送り、テサロニケの教会の人々を支えようとしたのです。そのテモテから受けた報告は、実にうれしい報告でした。自分たちが去った後も、テサロニケの教会の人々は、しっかりイエス様への信仰に立って歩んでいたのです。伝道者にとって、こんなうれしい知らせはありません。この手紙は、そのようなパウロの喜びの中で記されたものなのです。
以上のことを踏まえて、丁寧に一節ずつ見て参りたいと思います。
3.挨拶−手紙の差出人
1節「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。」とあります。最初にこの手紙の差出人と宛先が記されております。これは当時の普通の手紙の書き方です。しかし、この挨拶の中にも、パウロの信仰が現れています。
まず、差出人を見てみましょう。「パウロ、シルワノ、テモテから」とあります。この手紙を書いたのはパウロです。ですから、パウロは自分の名だけを記すということでも良かったはずです。しかし、パウロはそのようにはしていないのです。一緒に伝道しているシルワノ、使徒言行録ではシラスと記されている人、それとテモテ。この二人の名を一緒に記している。それは、伝道あるいは牧会というものを個人の業として考えていないということでしょう。そうではなくて、伝道者集団、もっとはっきり言えば、教会の業として考えているということなのです。このことは、私共も良く弁えておく必要があるでしょう。伝道・牧会とは、牧師が一人でするものではないということです。
4.挨拶−手紙の宛先
次に、宛先ですが、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」となっています。ここで「結ばれている」と訳されている言葉は、新共同訳の一つの特徴なのですが、ギリシャ語のεν(エン)、英語ではinという前置詞を、このように訳しているのです。口語訳では「ある」と訳されていたものです。「キリストにあって」とか「キリストにある」と訳されていました。「in」ですから、「父である神と主イエス・キリストの中にある」あるいは「父である神と主イエス・キリストと一つにされている」「父である神と主イエス・キリストとに包まれている」とも訳せるでしょう。テサロニケにあるイエス・キリストを信じる者とされた人々の群れとは、実に、父なる神様とイエス様と結ばれ、一つにされた群れなのだということです。私共もそのような者なのです。これは、自分の心の中をいくら覗いても、自分の姿をどんなに見直しても、出て来ない理解でしょう。これは信仰によらなければ分からない、神様・イエス様との関係において初めて明らかになる、私共の存在の有り様、重さ、価値とでも言うべきものでありましょう。私共キリスト者とは、神様・イエス様と結ばれている、一つとされている、包まれている、そういう者なのだということです。
5.挨拶−恵みと平和を祈る
パウロは、テサロニケの教会の人々のために、まず「恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と祈るのです。この「恵みと平和」とは、「神様が与えてくださる恵みと平和」ということです。神様が与えてくださる恵み。それは数え上げればきりがありません。私共が今、このように礼拝しているのも、衣食住が与えられているのも、仕事があり家族が与えられておりますのも、すべて神様の恵みです。しかし、何よりも私共が心に刻んでおかなければならない神様の恵みとは、私共に信仰が与えられ、罪赦され、神の子・神の僕とされたこと、永遠の命に与る者とされたということでしょう。これに勝る恵みはありません。この救いの恵みの中にとどまることが出来るように。そのことをパウロはまず第一にテサロニケの教会の人々のために祈り願ったということなのです。
そして、平和です。神様が与えてくださる平和。それは、神様の救いに与った者に与えられる平和ですから、何よりも神様との間に与えられた平和ということでしょう。神様が私共を「我が子よ」と呼んでくださり、私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る。これが一番の平和です。そして、この神様との間に平和を与えられた者は、互いに愛し合い、互いに仕え合い、互いに支え合う交わりを形作っていくということなのです。そこに、キリストの体なる教会に与えられる平和が生まれるのでありましょう。神様が与えるこの平和に満ちた教会であるようにと、パウロはテサロニケの教会の人々のために祈ったのです。
パウロはまず、恵みと平和をサロニケの教会の人々のために祈った。そのことを私共もよくよく心に留めなければなりません。私共は、まず「恵みと平和があるように。」と祈り合う者なのだということです。
6.テサロニケの教会の人々のために祈っていたパウロ
2節にいきます。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして」とあります。パウロはテサロニケの教会の人々のために、いつも祈っていたということです。パウロはここで、テサロニケの教会のためにいつも祈っていることを告げるのです。先程も申しましたように、テサロニケの教会はパウロが伝道した教会でありまして、パウロは当然のこととして、テサロニケの人々を、教会を愛している。その愛は、祈りとして現れるということでありましょう。私も、前任地の教会のためにいつも祈っています。伝道者は、転任したら前任地の教会のために祈らないということなど考えられません。藤掛先生、大久保先生も、私共の教会のためにいつも祈っておられるのです。父なる神様とイエス様に結ばれた者は、愛を与えられ、その愛は必ず祈りという形をとるからです。勿論、愛は祈りという在り方だけをとるのではありません。様々な現れ方があるでしょう。しかし、神様が注がれる愛は、この祈り抜きには健やかな形になることは無いのです。パウロは祈りの中でテサロニケの教会の人たちを覚え、実際にテモテを遣わすということをしました。愛に基づく祈りは、具体的な業として形をとるということなのでしょう。
ここでパウロは、テサロニケの教会のことを祈りの中で覚えながら、神に感謝していると言うのです。それは、テサロニケの教会の人々がしっかり信仰にとどまって歩んでいたからでしょう。もし信仰から離れてしまっていたとしたら、パウロは単純に神様に感謝しますとはとても言えなかったでしょう。ガラテヤの信徒への手紙の冒頭と比べるならば、そのことが良く分かります。パウロが神様に感謝せずにはいられない、テサロニケの教会の人々の信仰の姿が3節に告げられています。きっとこのような姿をテモテから知らされたのです。
7.テサロニケの教会の人々の信仰の姿、信・望・愛
パウロはこう記します。3節「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」とあります。
お気づきになったでしょうか。ここでパウロは、少し順序は違いますが、信仰・希望・愛について語っています。信・望・愛。これはパウロが、イエス様と一つにされた者として生きる者に与えられていると考えていた恵みのセットです。そしてパウロはここで、信仰・希望・愛、この三つを、働き、労苦し、忍耐するということと結びつけています。信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐するというのです。
信仰は働くのです。信仰を与えられた者は、じっと信仰を心の中に持っているというわけにはいかない。信仰は私共を、神様の御業に仕える者としての働きへと突き動かしていくのです。私の心が平安であれば良いというような所にとどまることが出来ないのが、私共に与えられている信仰なのです。
そして、愛は労苦へと私共を導きます。愛は、その人のために時間を捧げ、労力を捧げ、富を捧げても惜しいとは思いません。その人のために何でも出来るだけのことをしてあげたいと思うのでしょう。愛は、その人のために喜んで労苦を引き受けるものなのです。そして、その愛はイエス・キリストの十字架に極まりました。私共はこのイエス・キリストから注がれた愛に生きるのですから、私共に与えられている愛は必然的に私共を愛の労苦へと導くものなのです。
そして最後に、希望です。希望を持って忍耐していると言うのです。この希望とは、何か良く分からない、漠然とした、ぼんやりした、何とはなしに明日に対していだいている希望というようなものではありません。そんな希望では、私共は忍耐することは出来ません。テサロニケの教会の人々が与えられていた希望とは、明確に終末の希望なのです。イエス様が再び来てくださる。そのことを待ち望んでいるのです。そこで、共々に復活し、永遠の命に生きる。神の国に生きる。そのことに対しての希望です。私共とて同じでしょう。この終末を待ち望む希望の故に、私共は忍耐するのです。忍耐出来るのです。やがてすべてが明らかになることを終末の希望の中で知らされているが故に、「どうして」と言いたくなるような現実の中でも、忍耐して信仰の歩みを為していくことが出来るのです。私共の希望は、地上の目に見える所にあるのではないのです。
8.神様の選びによって
信・望・愛を与えられて健やかに歩むテサロニケの教会の人々。パウロは、テサロニケの教会の人々がそのような者とされて歩むことが出来る根拠を、「神様の選び」だと言うのです。テサロニケの教会の人々は神様に愛されている。それはテサロニケの教会の人々がそれにふさわしい者であるからではありません。ただ神様が選んで、愛してくださったということです。
私共もそうです。もし私共が神様に愛されているとするならば、それは私共が神様に選ばれたということなのです。自分は神様に愛されているけれど、選ばれていない。そんなことはあり得ないのです。神様に愛されるということは、神様が私に眼差しを向けてくださり、特別な者として扱ってくださっているということでしょう。それは選ばれたということです。神様に選ばれるべき、愛されるべき良きところなど、何一つないにもかかわらずです。
私共が今日ここに集っているのは、神様に選ばれ、愛され、導かれたからです。私共が神様を選んだのではありません。神様が私共を選んでくださったのです。そして、愛してくださっている。それが救われた、救われているということなのです。何とありがたいことでしょう。
[2016年5月8日]
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