富山鹿島町教会

礼拝説教

「旅する主イエス」
イザヤ書 42章1〜7節
マタイによる福音書 4章23〜25節

小堀 康彦牧師

1.イエス様のガリラヤでの活動
 今朝与えられている御言葉は、イエス様がガリラヤにおいてどのようなことを為されたのか、そのことが包括的に記されております。イエス様はガリラヤにおいて宣教を開始されたわけですが、そこで何を為されたのか。そのことが、包括的に記されているのが今朝与えられている御言葉が語っていることです。
 23節に「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。イエス様は第一に、ガリラヤ中を回った。旅をされたのです。この直前の所で、イエス様は四人の弟子、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネを召し出されました。彼らはイエス様に従う者となったのですから、当然ガリラヤの旅も一緒にいたわけでしょう。イエス様は一人で旅をされたのではありません。弟子たちと共に旅をした。そして第二に、イエス様は諸会堂で教えられました。この具体的な教えについては、この後の5〜7章にある、山上の説教に記されております。第三に、イエス様は人々の病気や患いをいやされました。このことについては8〜9章に記されております。9章の最後の所を見ますと、35節に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。この言葉は、今朝の4章23節の言葉とほとんど同じですね。この同じ包括的な記述で、5〜9章を囲む構造になっているわけです。実に、イエス様が何を語り、何を教え、どんないやしを為されたのか、そのことを5〜9章で記す前と後において、それを包括的に記しているのが、今朝与えられている御言葉です。そのことを念頭に置きながら、御言葉を受けて参りたいと思います。

2.自ら出て行くイエス様
 第一に、イエス様は自ら出て行き、ガリラヤ中を巡り回って教えを語り、いやしを為されました。じっと一個所にとどまって、自分の所に来る人に語り、いやしたというあり方ではなかったのです。このイエス様のあり方は、その後のキリスト教会のあり方を決定付けました。キリストの教会は出て行くのです。イエス様の福音を伝えるために出て行く。これがキリストの教会の基本的な形なのです。それは伝道する教会の姿と言っても良いでしょう。キリストの教会は出て行った。出て行き続けた。だから世界中に広がったのです。今も出て行き続けています。
 私共の教会がここに立ち、私共がキリスト者とされ、このように礼拝を守っているのも、19世紀に世界伝道の大きなうねりがありまして、鎖国をしていた日本にも宣教師がやって来て、イエス様の福音を伝えてくれたからです。アメリカから、ヨーロッパから、皆、出てきたのです。現在のように交通が発達している時代ではありません。日本に来るというだけで困難を伴いましたし、一人もキリスト者がいない土地に伝道に来る、その労苦は想像を超えて困難を伴うものでした。しかし、来たのです。出て来たのです。その有り様は、使徒言行録に記されておりますように、イエス様の十字架と復活の恵みに与った弟子たちによって教会が誕生した、その初めの時からそうだったのです。
 私共も出て行くのです。皆さんは今朝、家から出て教会に来たと思っているかもしれません。しかし、本当は教会から出て家に、職場に、地域に出て行くのです。この礼拝において祝福を受け、家に職場に地域に出て行くのです。この出て行く時に何よりも大切なことは、福音を携えているということです。福音を携えて行くということは、イエス様と共にあるということです。一人じゃないということです。何よりもイエス様が出て行かれる。そのイエス様と一緒に私共は出て行くということです。イエス様が共におられなければ、私共は福音を携えて行くことは出来ません。イエス様と共にあるということ自体が福音なのです。イエス様が共にいてくださらなければ、福音を携え伝えていくのに、何の力も能力も無い私共なのです。しかし、イエス様が共にいてくださる。だから出て行けるのです。

3.イエス様の教え
 第二に、イエス様は教えを語られました。このイエス様の教えは5〜7章に記されておりますけれど、それまでの教えとは違って、全く新しいものでした。勿論、ガリラヤの人々はユダヤ教徒でしたから十戒も知っていましたし、自分たちは神の民であり、救われていると思っていました。しかし、その実態は神様から遠く離れておりました。神様の絶対の愛に生かされていることを知らず、自分の力と能力で生きていると思っておりました。自分の欲に引きずられ、自分の腹を満たすことにばかり心も力も時間も費やしておりました。イエス様は、そのような人々が自分の生活の中で当たり前だと思っていることを、一つ一つ正していかれました。神様に造られ、愛されている者として、神様との愛の交わりに生きる。そして、隣人との愛の交わりを形作っていく。この「神様の似姿に造られた」本来の人間のあり方を教えられたのです。本来の自分を見失い、それ故生きる喜びも力も希望も失いかけている人々に、神様の愛を伝え、神様との親しい交わりの中に生きる道を教えられたのです。そして、生きる力と勇気と希望を与え、新しい命へと招かれた。それが、イエス様が語られた教えです。

4.イエス様の癒やし
 第三に、イエス様は人々の病気や患いをいやされました。病気というものは、いつの時代でも私共を苦しめるものです。しかも、病気は本人だけが苦しむのではなくて、家族を始め周りの人々を巻き込んでいきます。親が病気になれば、その夫や妻、そして子どもたちも苦しみます。子が病気になれば、親も兄弟も苦しみます。そして、自分は神様に見捨てられている、自分は生まれてこなかった方が良かったという思いさえもいだかせるものです。この病・患いというものは、私共が人生の中で味わう肉体的な、精神的な、様々な困窮を指しているのでしょう。自分の努力ではどうにもならない苦しみ、悲しみ。人は誰でもそのようなものを持っているのでしょう。イエス様は、そのような問題を抱え助けを求めて御自分の許に来る人々をいやされたのです。その結果、その人が健康を取り戻したというだけではなくて、そのいやしによって、家族もいやされた。そして何よりも、いやされたその人も家族も、神様に愛されている、そのことを知らされ、神様と共に新しく生きる歩みへと歩み出ことが出来たのです。

5.御国の福音を伝える
 今私は、イエス様が教えを語られたこと、そしていやされたことを話しました。しかし、聖書には、この二つの間に「御国の福音を宣べ伝え」たと記されています。この「御国の福音を宣べ伝えた」とは、教えといやしが一つになって伝えられたことなのです。イエス様の教えといやしと別に、御国の福音があるのではありません。御国の福音とは、神の御子であるイエス様が来られることによって、神の国、天の国が来たということ。イエス様と共に神様の御支配が現れ、人々がこの新しい神の国へと招かれ、生きるようになるということです。罪人が一切の罪を赦されて、神の子、神の僕として、神様との愛の交わりに生き、隣り人との愛の交わりを形作る者とされるということです。イエス様はこの「神の国の福音」を宣べ伝える者として来られたのです。
 イエス様のおられる所に神の国はあります。イエス様に従い、イエス様と共に生きる者になるということが、神の国に生きるということです。それは、イエス様に従い、イエス様と共に生きる時、私共はすべての問題から解放され、いやされて、新しい命に生きる者とされるということでもあります。私共が生きていく時、様々な問題が起こります。しばしば困り果て、明日への希望を失いかけます。しかし、そこでイエス様が自分と共にいてくださること、全能の神様が私を愛してくださっていること、そのことがはっきり分かるならば、私共の抱えている問題は、必ずイエス様が何とかしてくださるのです。勿論、それは自分が願っていたようなあり方での解決ではないかもしれません。全く自分が考えていなかったような展開が与えられることになるかもしれません。しかし、いずれにせよ神様は何とかしてくれる。これは本当のことです。そのことを聖書は、いくつもの具体的な出来事を挙げて私共に教えているのです。
 24節には、「イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」と記されています。ここには、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」とあります。病気だけではありません。人間関係、経済問題、家庭のこと、色々な苦しみに悩む者がいやされたのです。「悪霊に取りつかれた者」「てんかんの者」「中風の者」など、人々に見放され、自分でももうダメだと思っていた人がいやされたのです。このことは、イエス様によって解決されない苦しみも悩みも問題も、この世界には存在しないということを示しています。それは、今の時代でも同じです。イエス様の所に来れば、すべてが解決されるのです。これは本当のことです。イエス様に救いを求め、イエス様と歩み始めるということは、神の国に生き始めるということなのですから、そういうことになるのです。
 先程、イザヤ書42章をお読みしました。これはキリスト預言の一つですが、その3節に「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」とあります。これはイエス様を指し示しています。私共が折れそうになっても、希望を失い、光を失いそうになっても、イエス様は私共を必ず守ってくださる。それが、聖書が約束していることなのです。そして、そこで私共は神の国に生き始めるのです。

6.福音を宣べ伝えていくための教会の職制
 教会は、イエス様が共におられるという神の国の現実の中で、教えを語り、体のいやしも含めた人間存在全体をいやし健やかにする神の国の福音を宣べ伝えてきました。いつの時代でもそうするのです。ただ、私の反省としましては、私共は聖書を学び、語るということを大切にしてきましたけれど、体の問題と言いますか、人間が生きる上でどうしても問題となる様々な課題に対しては、直接関わることがあまりなかったのではないか、弱い所があったのではないかと思います。私共の国に神の国の福音を伝えた宣教師たちは、教会を建てて伝道をしただけではないのです。学校を建て、病院を建て、福祉施設を建ててきたのです。それは、明治期の宣教師たちによって、教派を問わずに為されたことでした。それは、そのような業が神の国の福音を宣べ伝える上で、必要不可欠なことと理解していたからなのです。
 キリストの教会は、神の国の福音を宣べ伝えていく群れとして自らのあり方を整えてきました。それが教会の制度というものです。教会の制度はそれぞれ教派によって違いがありますが、その根本にあるのは「神の国の福音を宣べ伝えていくという務めを果たすため」ということは言えるでしょう。目的は同じなのだと思います。私共の教会は長老教会の伝統を大切にしているわけですが、先週の教会総会において、長老・執事にそれぞれ新しい方が一名ずつ選出されました。これからこの方々の任職式を行います。長老というのは、今朝の御言葉との関連で言えば、「教えるという教会の機能に仕える」のでしょうし、執事は「いやしという教会の機能に仕える」職務だと言って良いでしょう。この長老と執事が十分に機能することで、私共の教会はイエス様が御臨在されるキリストの体なる教会としての務めを果たすことが出来るのです。勿論、地上の教会というものに完成形はありません。御言葉に聞いて、変えられ続けていきます。私共の教会も変わっていかなければならない点があるでしょう。しかし、その目的が変わるということはありません。それはどこまでも、御国の福音を宣べ伝えていくにふさわしい群れとなっていくということです。

7.今も旅を続けるイエス様
 さて、イエス様の周りに人々が集まってきました。24節に「イエスの評判がシリア中に広まった。」とあります。このシリアというのは地域を指す言葉で、大シリアとか歴史的シリアと呼ばれますが、現在のシリア・レバノン・パレスチナ・ヨルダンを合わせた広い地域です。そして、25節「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」のです。聖書の巻末にあります地図6を見れば分かりますように、とても広い地域から人々はイエス様の許に来た。そして、イエス様に従ったのです。この「従った」という言葉は、直前のイエス様の召し出しを受けてイエス様に従った四人の弟子たちに用いられているのと同じ言葉です。この大勢の群衆もイエス様に従ったのです。この群衆は使徒たちのように、すべてを捨てて従ったわけではありません。家族も仕事もあるのですから、エルサレムにおいてイエス様が十字架にお架かりになるまで従ったわけではないでしょう。しかし、ここにはイエス様を中心とする一群の群れが形作られたのです。イエス様を中心として、イエス様に従う弟子たち、それとイエス様に従う大勢の群衆によって作られる一つの群れ。この群れが旅をしたのです。イエス様と一緒に旅をする群れ。イエス様の教えを聞き、イエス様のいやしを見、それに与る者たちの群れです。これがキリストの教会の姿なのです。
 イエス様は今も旅を続けておられます。イエス様に従う群衆と共に、教会と共に、歴史を貫いて、国境を越え、文化を超えて、イエス様は旅を続けておられる。実に、私共もイエス様の言葉を聞き、イエス様の業を見ながら、イエス様をほめたたえつつ、イエス様と共に神の国の福音を宣べ伝える旅を続けているのです。

[2016年5月1日]

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