富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の御子のエルサレム入城」
ゼカリヤ書 9章9〜10節
マタイによる福音書 21章1〜11節

小堀 康彦牧師

1.受難週を迎えて
 今日から受難週に入ります。週報にありますように、火・水・木と受難週祈祷会を昼と夜2回ずつ行います。信徒の方の奨励もありますので、皆さん是非出席して、イエス様の十字架をしっかり心に刻んで来週のイースターを迎えていただきたいと思います。
 今朝与えられております御言葉は、イエス様がエルサレムに入城された場面です。この21章から最後の28章まで、マタイによる福音書はその全体の約30パーセントを用いて、受難週の出来事と復活の出来事を記しております。如何にこの受難週の出来事が重要であるかが分かります。この一週間の出来事は、マタイによる福音書に従いますとおおよそ以下のようになります。
 日曜日:エルサレム入城、宮清め
 月曜日:イチジクの木を呪う、エルサレム神殿での説教
 火曜日:エルサレム神殿での説教
 水曜日:オリーブ山での説教、ベタニアで香油を注がれる
 木曜日:最後の晩餐、ゲツセマネの祈り、逮捕、大祭司のもとでの裁判
 金曜日:最高法院での裁判、ピラトによる裁判、十字架、埋葬
 土曜日:−
 日曜日:復活

2.エルサレム入城
 この一連の受難週の出来事の最初、それがこのエルサレム入城の場面なのです。私は、このエルサレム入城という言葉に一つの思い出があります。それは洗礼を受けてまだ1、2年しか経っていない頃、大学生で教会学校の教師をしていた時のことです。ちょうど今頃でしょうか、説教の当番が当たりました。聖書の箇所は、今日与えられている箇所と同じでした。私は説教題に「エルサレム入場」と書いたのです。教会学校の礼拝が終わりまして、伝道師をしていた年配の女性の先生に「小堀君、あの字は違うわよ。」と言われたのです。私は、「新郎新婦の入場」というような場合に用いる、「場所に入る」という「入場」という字を書いていたのです。イエス様のエルサレム入城は、場所に入るのではなくて、城に入るです。音は一緒なのですが、意味が大きく違います。これは単なる字の間違いではなかったのです。場所に入るの「入場」は、ただエルサレムという町に入るという意味でしょうか。当時の私としては、イエス様が遂に十字架にお架かりになる、御受難の出来事の場であるエルサレムという町に入場する、そんな意味だと思っていたのです。しかし、城に入る「入城」というのは、王様が城に入ることを意味する言葉です。私共のような庶民がお城に入っても入城とは言いません。入城とは王様が城に入ること。それによって、城の主人が変わる。それが入城です。つまり、イエス様はこの時、まことの王、救い主、神の御子として、エルサレムに入られた。そのことを意味しているのが、城に入る方の入城だったわけです。私はその頃、イエス様がエルサレムに入られたということの意味を充分に弁えていなかったのです。それ以来、この字を間違えることはなくなりました。良い指導をしていただいたと感謝しています。

3.ろばの子に乗っての入城
 聖書はこのイエス様がエルサレムに入られる場面を、旧約において預言されていたまことの王、救い主がエルサレムに入る、ここからまことの救い主による神様の救いの御業が成される、遂にその時が始まる、そういう特別な意味を持った出来事として記しています。
 イエス様は弟子たちが引いて来たろばに乗ってエルサレムに入られました。弟子たちはろばの背に自分の服をかけ、イエス様はその上にお乗りになりました。そして、群衆はろばの歩く道に服を敷き、あるいは木の枝を切って道に敷きました。木の枝、これはなつめやしの枝であったとヨハネによる福音書は記しています。このなつめやしの枝というのが、古い訳では棕櫚の枝となっていたものですから、受難週に入る主の日、今日のことですが、これを「棕櫚の主日」と呼ぶようになったわけです。
 何故イエス様はろばに乗ってエルサレムに入られたのか。5節に「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」とありますが、これは先程お読みしましたゼカリヤ書9章9節の引用です。この預言の成就として、イエス様はろばに乗ってエルサレムに入られたということなのです。ゼカリヤ書の方を見てみましょう。9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」これは、神様によって勝利を与えられた王の凱旋パレードの様子です。通常、戦いに勝利した王様は、四頭立ての馬車に乗って、多くの兵隊を従えてパレードをするのです。しかし、神様が預言者を通して語られたまことの王は、そうではありませんでした。馬ではなく、ろばに乗る。しかも、子ろばです。威厳も力強さもない。しかし、その王の姿こそ、「神に従い、勝利を与えられた者」の姿なのだと言うのです。何故なら、この王は力によって、武力によって勝利を得る王ではないからです。10節「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」とあります。この王によって与えられるのは平和です。戦車も軍馬もなくなり、弓矢も要らない、そういう平和です。そのようなまことの平和を与えるお方としてイエス様は来られたということなのです。

4.ダビデの子にホサナ
 そのようなイエス様を、人々はこう叫んで迎えました。9節b「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」「ホサナ」とは本来、「わたしたちに救いを」という祈りの言葉です。しかし、ここでは「万歳」というニュアンスで用いられています。これは詩編からの言葉です。確かに、イエス様はダビデの子孫であり、旧約において、まことの王、救い主はダビデの子孫としてお生まれになることになっていました。これは、クリスマスの時に与えられる御言葉などから明らかです。しかしこの時、イエス様を迎えた人々が、イエス様がゼカリヤ書の預言の成就としてろばに乗ってエルサレムに入られることの意味を、正しく受け取っていたかどうか。ダビデはイスラエルの民にとって忘れることの出来ない、最も偉大な王です。ダビデ王の時代、イスラエルは領土を最も大きくしました。ダビデ王は、近隣諸国をその武力によって征服し、領土を広げていったのです。人々はイエス様をそのようなダビデの子として迎えたのです。この時人々はイエス様に「平和の王にホサナ」とは言わなかった。この時、イエス様を「ダビデの子」と叫んで喜び迎えた人々は、ダビデ王の再来、つまりローマ帝国に支配されている祖国をローマから解放してくれる王として迎え入れたのではないか。平和の王としてのイエス様と、群衆が求めるダビデの子には、最初からズレがあったのではないかと思うのです。
 この時イエス様を歓喜の叫びをもって迎えた人々は、そのイエス様が五日後には十字架に架かられるなどとは夢にも思っていなかった。けれども、イエス様が十字架に架けられることが総督ビラトによって決められる時には、群衆は、イエス様を十字架につけろと激しく叫んだと聖書は告げています。「ダビデの子にホサナ。」と叫んだのも、その五日後に「十字架につけろ。」と叫んだのも群衆です。勿論、この二つの群衆が全く同じであったというわけではないでしょう。しかし、重なる人もいたのではないでしょうか。「ダビデの子にホサナ。」と叫んで数日後には、「十字架につけろ。」と叫ぶ。何という心変わりか。しかし、それは私共が思うことであって、当事者は決してそうは思わなかったでしょう。自分たちはイエス様を「ダビデの子」として迎えた。当然、その不思議な力でローマをやっつけると思っていた。ところが、ローマに対抗するために兵を集めるでもない。毎日神殿で説教をしているだけ。それは自分たちが求め願っていた王ではない。そんな王ならいらない。そのようなギャップが、実はこのエルサレム入城のところに既に表れているのではないかと思うのです。

5.人が求める王とは
 私共は、自分の願いを叶えてくれる王を求めるものです。しかし、イエス様は私共の願いを叶える王として来られたのではないのです。もっとはっきり言えば、イエス様は私共の主、主人としてこられたのです。ですから、イエス様が私共の願いを叶えるのではなくて、私共がイエス様の思いに聞き従う。これが私共のまことの王として来られたイエス様に対しての私共のあり方なのです。しかし、人はその逆を、自分の願いを叶えてもらうことを神様に、イエス様に、まことの王に求める。
 今、アメリカ大統領の予備選が行われています。皆さんもニュースで見ていると思いますが、共和党の大統領候補にトランプ氏がなるのではないか、そしてもし彼がアメリカ大統領になったら大変だと言われています。そして、ローマ法王がトランプ氏に対して、「キリスト教徒ではない。」と言ったという報道もされました。トランプ氏が、民族・宗教・国家・文化を分断するような発言を繰り返しているからです。しかし、一部の人は彼に熱狂している。人々は、自分の不平・不満・苛立ちを代弁してくれる人、解消してくれる人を求めているのでしょう。
 しかし、イエス様が私共に示された道はそうではありません。イエス様が歩まれたのは十字架への道です。痛みを負い、自分に敵対する者の罪を赦し、まことの平和を与えるための道でありました。そして、私共はこの十字架のイエス様に従う者として召されたのです。確かに、これを実際の政治において生かすことは本当に難しく、困難なことではあるでしょう。しかし、神様が私共に求められていることは、いつもこのことなのです。

6.主がお入り用なのです
 そのことをはっきり示しておりますのが、イエス様がこの時ろばを手に入れる時の話です。イエス様は子ろばを手に入れるために二人の弟子を遣わします。2〜3節「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれる。」そして6〜7節「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」とあります。
 ここで重要なのは、イエス様が「主がお入り用なのです。」と言いなさいと告げられたこと、そして弟子たちがイエス様の命じたとおりにしたということです。「主がお入り用なのです。」というのは、神様の御計画、神様の御心というものがあって、そのためにこのろばが必要なのです、だからあなたはそれを差し出しなさいということでしょう。この時、イエス様がろばの持ち主に前もって話をつけていたのではないかとか、イエス様は千里眼でろばの子がつないであるのが分かったとか、そんなことはどうでも良いことです。問題ではありません。大切なことは、イエス様が告げるようにと言われた「主がお入り用なのです。」の一句です。この一言に私共の人生のすべてがかかっているからです。私の願いを叶えるためにイエス様が必要だということではない。神様がその御心を示すために、この場合はろばをですが、何よりも私共一人一人を求めておられるということなのです。この「主がお入り用なのです。」という一言によって、主に用いられる者として、神の子、神の僕としての新しい人生を与えられたのがキリスト者という存在だからです。
 「私はそんなに神様に必要とされていない。」そのように思い込むのはまことに傲慢です。イエス様がここで用いられたのはろばの子です。大きな馬ではありません。何も出来ない、弱い存在です。しかし、イエス様がエルサレムに入城される時、まことの平和の王として入城される時、それは必要とされたのです。私に何が出来るか、自分にその自信があるか、実績はどうか。そんなことにばかり私共の目は向いてしまう。そして「とても私には出来ない。」と言い張る。それは自分を見ているからでしょう。私共はただの罪人であり、大した者ではないのですから、自分の中をいくら覗き込んでも、そこに明日への希望も力も与えられることなどあるはずがないのです。
 私共が今日聞かなければならないのは、「主がお入り用なのです。」という圧倒的な力を持つ主の言葉です。この言葉を告げられたのは、私共のために十字架に架かってくださったお方です。私共のために、私共に代わって、自ら十字架の上で死なれ、その死をもって私共に告げておられる言葉です。イエス様は私共の主です。私共の人生はイエス様のものです。私共の時間も富も能力も、すべては主のものなのです。その主が私共に告げるのです。「主がお入り用なのです。」これは、十字架の言葉です。イエス様が、私のために十字架にお架かりになられ、その十字架の上から私に向かって「あなたが必要だ。あなたを用いたい。」そう告げておられるのです。この言葉に対して、私共は何と答えることが出来るでしょうか。「主よ、我を用い給え。」そう祈るしかないではありませんか。私共は力もなく、富もなく、年老いて体力も衰えてきました。何も出来ません。そう言いたくなります。しかし、「主よ、我を用い給え。」そう答えるしかない。十字架の言葉だからです。

7.祈ってください
 私は、高齢になり教会に来られなくなった人を見舞う時、こうお願いすることにしています。「教会のために祈ってください。私のために祈ってください。」そう言われて、キョトンとした顔をする方もおられます。牧師は私のために祈るのであって、私が牧師のために祈るのですか?ということかもしれません。
 年老いて体が弱くなる中で、多くの人は、自分のことしか考えることが出来なくなります。毎日毎日が痛みとの戦いです。不自由な体との戦いです。目の前のコップを取ることさえ出来ない不自由さの中で、やり場のない苛立ち、不満、寂しさが襲ってくる。そういう中で、人は目が天に向かなくなるのです。これが老いという、私共の信仰の歩みにおける最後にして最大の試練の時なのです。そのような試練の中にある方に向かって、私は「どうか、教会のために祈ってください。神様のために祈ってください。愛する一人一人のために祈ってください。そして、私のために祈ってください。」そう、お願いするのです。人は、自分のために祈るだけではなくて、他の人のために祈る時、しっかり目が神様に向けられ、自分を覆っている苛立ち・不満・寂しさ・不平から自由にされるからです。そして何よりも、私共キリスト者には、主が入り用としてくださる役割が最後まであるからです。それは祈ることです。自分以外の者のために、神様の救いの御業の前進のために、牧師のために祈ることです。
 「祈りの戦士」という言葉あります。これは、どんな時でも、どんな状況の時でも、教会のために、牧師のために、神様の救いの御業の前進のために、愛する人のために祈り続ける人のことです。私が牧師になるときに、この「祈りの戦士をどれだけ育てることが出来るか、それがあなたの為すべきことです。」と言われました。主は、私共を最後の最後まで用いようとしておられます。もう何も出来ない。そんな人はいません。神様は私共を最後まで祈る者として求めておられます。
 この御心をしっかり受け止めて、この受難週の日々を歩んでまいりたいと思います。

[2016年3月20日]

メッセージ へもどる。