富山鹿島町教会

礼拝説教

「悪魔の誘惑A」
申命記 6章4〜15節
マタイによる福音書 4章1〜11節

小堀 康彦牧師

1.前回の御言葉を振り返り
 先週に引き続いて、イエス様が悪魔の誘惑を受けられた出来事から御言葉を受けてまいります。先週、イエス様が悪魔から誘惑を受けられたのは、イエス様が神の御子として宣教を開始するに当たっての最後の備えの時であったということを見ました。悪魔の誘惑は何よりも、イエス様を十字架へと歩ませない、神様の御心から離れさせる、そういう意図を持ったものでしたから、この悪魔の誘惑を退けることによってイエス様の十字架への道が確かなものとなったのです。また、悪魔の誘惑というものは、私共にも必ずある。そして、私共が出来る、自信がある、そういう所にやって来る。そしてそれは、さも良いことであるかのような顔をして近づいてくるということを見ました。さらに、イエス様はこの悪魔の誘惑を退けることによって、私共を神様から離れさせようとする悪魔の誘惑に対しての対処の仕方も教えてくださった。それは御言葉によって退けるというあり方であるということも学びました。
 さて今日は、イエス様が受けられた三つの誘惑の内の、二つ目と三つ目の誘惑について見ていくことにします。

2.イエス様は偶像にあらず
イエス様が遭われた第二の誘惑は、5〜6節a「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。』」とあります。これはどういう誘惑であるかと申しますと、イエス様はこれから神の子として宣教を開始しようとしているわけです。皆がイエス様を神の子と認め、イエス様が語ることを神の子が語ることとして聞いてくれれば一番効率が良い。ですから、人々が神様を礼拝しに集っているエルサレム神殿の屋根の上から飛び降りる。「我こそは神の子なり」と言って、神殿の屋根から飛び降りる。そして、ふわりと地上に降り立つ。こんなにセンセーショナルな神の子のデビューはありません。神殿に来ている人は神様を拝みに来ているわけです。神の御子の到来を待ち望んでいる人たちです。ですから、それを見たなら、イエス様をすぐに神の御子として歓迎したでしょうし、この話はあっと言う間に人々に伝わって、ユダヤ中の人たちがイエス様を拝みに来ることになるでしょう。何と効率の良いことでしょうか。これは悪いことでしょうか?良いことなのではないでしょうか?
 しかし、イエス様はこの誘惑を退けられました。ちなみに、これもイエス様がそれをお出来になるから誘惑となるのです。悪魔は私共にこんな誘惑はしません。私共には出来ないからです。でも、何故この誘惑をイエス様は退けられたのでしょうか?第一にそれは、イエス様が神の子であるということがこのようなあり方で受け取られることは、イエス様が十字架にお架かりになる道を閉ざすことになってしまうからです。確かに、人々はイエス様を神の子として担ぐでしょう。しかしそれは、自分たちの願いを叶えてくれる、不思議な力を持つ方としてです。そしてそれは、イエス様を担いで、ローマとの戦いへと突き進んでいくということにもなったかもしれません。また、人々はイエス様に奇跡を求めに来るのであって、自分が罪赦され、新しくされる、神様の御心に適う者として生きる、そのようなことは誰も求めなくなるでしょう。ひいては、イエス様はこの世界にたくさんある偶像の一つとして祀られる。実に、悪魔の誘惑の目的はそこにあったのだと思います。
 このことは、私共の信仰においても、このような「しるし」を求める信仰への誘惑というものがあるということでもあります。私共が厳しい試練に遭う時、この誘惑は必ずやって来ます。もちろん、私共は神様に、この困難な状況から助けてくださいと願い求めて良いのです。しかしそれは、この祈りが叶えられたら信じますということではないでしょう。私共は信じている。神様の愛も全能も信じている。だから、願い求めるのでしょう。神様がこの祈りを聞いてくださっていることを信じているから、祈るのでしょう。これを叶えてくれたら信じてやるという取引を、私共は祈りの中でするのではないのです。この誘惑は、実に私共の偶像を求める心に働きかけようとするものだったのです。

3.聖書の言葉はどのように用いられるべきものか
 さて、この第二の悪魔の誘惑のもう一つの大切な所は、6節b「『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と、聖書の言葉を引用している所です。これは詩編91編11〜12節の引用です。イエス様が第一の誘惑を聖書の言葉で退けたものですから、悪魔はここで聖書の言葉を引用して誘惑するという巧妙な手口を用いたのです。
 先週、悪魔の誘惑には御言葉で対抗しなければならないということを学びました。しかしそれは、それほど単純ではないということです。悪魔さえも聖書の言葉を用いて誘惑してくるからです。この問題は、聖書の言葉をどのように用いるのか、聖書の言葉をどのように聞き取るのかということです。これは聖書の読み方に関わる重要な問題でしょう。イエス様はこの悪魔の手口に対して、やはり聖書の言葉、申命記6章16節「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」から引用することによって、「『あなたの神である主を試してはならない。』とも書いてある。」とお答えになりました。
 悪魔もイエス様も、どちらも聖書の言葉を引用しています。では、両者の違いはどこにあるのでしょうか。それは、聖書の言葉というものは、自分を正当化するために利用しているか、自分が従うべき言葉として聞いているかという違いです。聖書の言葉は、私共が悔い改め、いよいよ神様を愛し、神様を信頼し、神様に仕えるように導くためにあるのであって、自分を正当化するために用いられるべきものでは決してないのです。聖書の言葉を自らのために利用する者は、神様の御前に額ずいてはいません。利用しているだけです。それが正しい神様との交わりのあり方でないことは明らかでしょう。
 イエス様とファリサイ派・律法学者の人々との間の論争が福音書にはいくつも出てきます。様々な事柄について論争しているのですが、その根っこにあるのはこの問題です。ファリサイ派の人々は、神様の御前に悔い改めるためではなく、自分の生活や生き方や考え方といったものを正当化するために聖書を用いていた。イエス様はいつもそれを問題にしておられたのです。
 聖書の言葉というものは、それを用いて神様が私共に語りかけてくるものでありますから、私共は聖書の言葉を読む中で、神様の御前に立たされるわけです。そうしますと、神様の愛、神様の真実、神様の力に触れて、神様をほめたたえるということも起きましょう。自らの罪を示されて、悔い改めるということも起きましょう。神様の御支配に目が開かれて、明日への希望を与えられるということも起きましょう。それはまことに麗しい、信仰によって与えられる神様との交わりであります。それは神様を試すということからはほど遠い世界です。

4.求めるはこの世の繁栄にあらず
 第三の誘惑にまいりましょう。8〜9節「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」遂に悪魔がその正体を現したと言うべき所です。悪魔が与えると約束するものは、すべて「この世の繁栄」なのです。しかし、神様がイエス様によって私共に与えてくださるのは、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命です。代々の聖徒たちが自らの信仰として告白してきた使徒信条の中に、悪魔が与えると約束したものなど、どこにも記されておりません。私共は何を求めて生きているか、生かされているかということです。
 けれども、私共の中に「この世の繁栄」を求めない人がいるでしょうか。私がイエス様に出会う前に持っていた若い時の願いは、出世して、金持ちになって、きれいな奥さんをもらうことでした。実にくだらないのですが、20歳までの自分は、それ以外に求めるものがなかった。それ以外に求めるものがある世界を知らなかったのです。それほどに、悪魔の誘惑、悪魔の支配の中に虜にされて生きていたということです。この世の繁栄を求めるということは、世界一の金持ちになりたいなどという大それたものではなくても、もう少し富があり、もう少し生活のことで心配しないで済むなら、もう少し楽な生活が出来るなら、そんな思いは誰しも持っているでしょう。実に、この「もう少し」という所がミソなのです。この「もう少し」というものには、きりがないのです。これで満足という所がない。車で言えば、軽自動車から始まって、普通車へ、そして高級車へ、最後はベンツでしょうか。パウロは、フィリピの信徒への手紙4章11節で、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と言っています。「足ることを知る」これが神様との交わりの中に生きる者とされた一つのしるしなのでありましょう。この世の富の誘惑からの解放です。
 ところで、ここで悪魔が言っていることは本当なのでしょうか。この世の繁栄は悪魔の手によるものなのでしょうか。これは本当でもあり、嘘でもあると思います。確かに、悪魔の囁きによって悪いことに手を出して、真っ当な生き方をしていたのなら手に入れることの出来ない富を手に入れるということはあるでしょう。分かりやすいのは暴力団、詐欺師といった犯罪者です。しかし、この世界の繁栄の本当の支配者は、父なる神様でしょう。悪魔はその神様の御支配のもとにあるものを、誘惑の道具としてほんの少し用いているに過ぎないのです。ですから、本当の繁栄、永続的繁栄というものは、神様のもとにあるのであって、悪魔に魂を売って手に入れる繁栄など、偽りの繁栄であり、一時の輝きでしかないのです。

5.わたし(悪魔)を拝むなら
 悪魔は「わたしを拝むなら」と申しました。これが悪魔の本当の目的です。イエス様を神様から引き離す。十字架への道を歩ませない。これが悪魔の誘惑の本質なのです。それは私共が受ける誘惑の本質でもあります。
 イエス様はそれに対して、10節「退け、サタン。」と答えます。そして、申命記6章13節「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」を引用して、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と答えたのです。主を拝み、ただ主に仕える。それが、イエス様が十字架への道を歩み通すことが出来た理由です。そしてこのことは、私共がどのような悪魔の誘惑、試練に遭おうとも、決して揺らいではならない一点なのです。神様より大切なものは何もない。神様を愛し、信頼し、お仕えする。その一点に立って、歩み通すのです。
 宗教改革者カルヴァンは、青少年の信仰を鍛えるために『ジュネーブ教会信仰問答』というものを記しました。その問一は、「あなたの生きる主な目的は何ですか。」答え、「神を知ることです。」となっています。この神を知るというのは、神様がいるとかいないとか、そんなことを知るということではありません。神様を崇め、礼拝する方として知るということです。言い換えれば、神様を拝み、神様にお仕えするということです。それが人生の目的なのです。神様は私共をそのような者としてお造りになったのです。詩編102編19節「主を賛美するために民は創造された。」とある通りです。神様を知るつまり、「神様を愛し、信頼し、お仕えする」ということは、私共の人生の方便ではなくて、生きる目的そのものなのです。何故なら、そこにこそ私共の救いがかかっているからです。罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命がかかっているからです。これを失うならば、この世界中の何を手に入れようと空しいのです。

6.悪魔の誘惑を退けるために
 11節「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」をもって、この荒れ野における悪魔の誘惑は終わります。しかし、この悪魔の誘惑は時と場所を変えて、いつもイエス様に迫っていたのだと思います。そして、その最大の誘惑の時が、十字架にお架かりになった時だったのです。悪魔は人々の口を借りて、イエス様にこう言います。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして、十字架から降りて来い。」「そうすれば、信じてやろう。」十字架の前を通る人々、祭司長、律法学者、長老たち、皆そう言ったのです。彼らは知りません。自分たちが悪魔に用いられていることを。しかし、これこそ荒れ野においてすべての誘惑を退けられた悪魔の、最後にして最大の誘惑でありました。そしてイエス様は、この十字架上においても悪魔の誘惑を退けました。私共を救うためであります。
 私共も覚えておかなければなりません。悪魔の誘惑は、一度退ければそれで大丈夫というものではないのです。私共が生きている限り、手を変え品を変えてやって来るのです。「本当に神様はお前を愛しているのか。だったら、どうしてこんな目にばっかり遭うんだ。信仰を持っていない隣りの家の方がよっぽど幸せそうじゃないか。」
「本当に祈りは聞かれているのか。お前は祈るけれど、少しも状況は良くならないではないか。奇跡は起きないのか。」
「神様がすべてを支配しているなら、どうしてこんな悲惨な出来事が起きるのだ。東日本大震災を見ろ。ISを見ろ。テロの頻発する世界を見ろ。どこに神の支配がある。どこに神の愛がある。」
まともに答えようがない問いをもって私共に迫って来る時もありましょう。私共はどうすれば良いのでしょうか。
 私はこう答えるしかないと思う。「イエス様は私のために十字架にお架かりになってくださった。父なる神様は、愛する独り子イエス様を十字架にお架けになるほどに、私共を愛し、私共を救おうとしてくださっている。それに、この肉体の命が、この地上の命がすべてではない。この世の栄華も一時のものであることを知っている。私には、イエス様の御復活によって拓かれた永遠の命がある。復活の命がある。神の国がある。サタンよ退け。私は、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けた者だ。イエス様と一つに結び合わされた者だ。神の子とされた者だ。神様に向かって『父よ』と呼ぶことを許された者だ。サタンよ、神様に向かって『父よ』と呼んでみるがよい。お前は呼べはしまい。お前は神の子ではないが、私は神の子なのだ。さあ、私の祈りの時を邪魔しないでくれ。」そう言って、自分のこと、あの人のこと、教会のこと、世界のことに、主の憐れみがあるように。御心が天に成るごとく、地に成るように。主の平和がこの世界に満ちるように。互いに愛し合い、支え合い、仕え合うことが出来るように。そして、自らの罪を悔い改め、御心に適った歩みが出来るように。悪魔の試みに遭うことがないように。そう祈れば良い。神の言葉に与り続ければ良い。それ以外に、悪魔の誘惑に打ち勝つ道はありません。
 私共は弱い。しかし、神様は、イエス様は強い。悪魔より強い。必ず悪魔の誘惑から私共を守ってくださいます。イエス様は、御自身が悪魔より強いことを明らかにし、私共が悪魔の誘惑を受ける時にも御自身に依り頼んで誘惑に陥ることがないようにと、このように御自ら悪魔の誘惑を受け、それに勝利されたのです。イエス様と一つにされた私共にとって、イエス様の勝利は、私共の勝利となるのです。
 だから安心して、今週も遣わされた場において、イエス様の愛を伝え、イエス様の愛の道具として励んでまいりましょう。 

[2016年3月13日]

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