富山鹿島町教会

礼拝説教

「嘆きを聞き、顧みられる神」
出エジプト記 1章22節〜2章25節
マタイによる福音書 14章13〜14節

小堀 康彦牧師

1.始めに
 これから月に一度は、旧約聖書から御言葉を受けていきたいと思っております。今日はその最初ですが、旧約の出エジプト記から御言葉を受けてまいります。
 出エジプト記は創世記の次に置かれているわけですが、内容的にも創世記の続きと言って良いと思います。創世記の後半は、アブラハム・イサク・ヤコブの三代にわたる族長たちの物語が記されておりました。そして、その最後は、ヤコブの12人の息子の内の一人、ヨセフがエジプトに売られていき、そこで王様の次の位にまで出世して、飢饉に見舞われた時にヤコブの一族がヨセフを頼ってエジプトに移住するという所で終わっておりました。このエジプトに移住したヤコブの一族、つまりイスラエルでありますが、これがエジプトの地で奴隷の状態になってしまった。そこから出エジプト記は始まります。

2.出エジプトの背景
 1章6〜14節「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。『イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。』エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。」とあります。イスラエルの民は、ヨセフがいた時は良かったわけです。しかし、時が流れ、ヨセフを知らない王の時代になりますと、エジプト人の王から厳しい扱いを受けるようになったというのです。
 この記述の背景には、以下のような歴史があったのではないかと考えられています。ヨセフがエジプトで宰相にまで出世したのは、エジプト人の王朝ではなく、イスラエルと同じ遊牧民による王朝の時代だったのではないか。この王朝をヒクソス王朝と言いますが、紀元前17世紀から16世紀頃、第15王朝・第16王朝の時代であったと思われます。その次に、エジプト人の王朝が生まれます。そうすると、今まで自分たちを支配していた異民族は立場が逆転して、奴隷の状態になってしまうわけです。それが、この出エジプト記の冒頭において記されている、イスラエルの置かれていた状況だったのではないかと考えられるわけです。出エジプトはいつ起きたことなのか。これは聖書考古学上の大問題なのですが、紀元前13世紀、第19王朝の頃ではないかと考えられます。ヒクソス王朝の時代から400年くらい経っている。1章11節に「ピトムとラメセス」という町の名前が出ていましたが、ラメセスというのは第19王朝の王様の名前ですから、このようなところから年代を想定するわけです。

3.約束の土地への出発
 イスラエルの民は70人でエジプトに来た(創世記46章27節)わけですが、400年程の間に大きな民となりました。それはアブラハムの祝福、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」(創世記12章2節)と神様が約束された、その約束がここまで実現したのだということです。しかし、イスラエルの民はその数が増えたことによって過酷な労働を強いられている。そういう状況でありました。
 しかし、このことも実は、神様がアブラハムと契約を結ばれた時に既に預言されていたことではあったのです。創世記15章13〜14節「主はアブラハムに言われた。『よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。』」神様はカナンの土地をアブラハムとその子孫に与えると約束されましたけれど、イスラエルは飢饉のためにエジプトに逃れてきた。そして、もう400年もそこに住みついてしまった。しかしここは、イスラエルがずっといる所、本来いる所、神様によって約束された土地ではないのです。一時エジプトに来たけれど、本来の土地、アブラハムが神様からいただくと約束された土地に帰らなければならない。それがアブラハム以来の神様の御心だからです。この約束の土地への出発、奴隷の地から約束の地への旅、それが出エジプトなのです。
 この出エジプトの旅は、キリスト者の生涯としばしば重ね合わされます。罪の奴隷の状態から約束の地、天の御国に向かっての旅、これが私共の出エジプトです。私共が出エジプト記を神の言葉として読むということは、私共の御国への旅も、この出エジプト記に記されているのと同じような神様の御業によって導かれているのだということを知ることなのです。出エジプトを導いた神様が、今、私共を導いてくださっている。このことをしっかり受け止めなければなりません。それは、私共が神の民イスラエルだからです。信仰においてアブラハムの子孫とされている者たちだからです。アブラハムの祝福を受け継いでいる者たちだからです。

4.知恵を与える神様@
 さて、イスラエルの民を弱めるために、エジプト王はとんでもない命令を下しました。1章15節以下に記されています。王は助産婦にこう命じたのです。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」何という命令でしょう。しかし、こう命じられたシフラとプアという二人の助産婦は、この命令に従わず、男の子も生かしておきました。理由ははっきりしています。彼女たちは「神を畏れていた」(1章17節)からです。この神を畏れる二人の助産婦に対して、神様は知恵を与えます。エジプト王に呼び出された二人はどう答えるのか。答え方如何によっては、王の命令に背いたものとして殺されてしまうでしょう。この時二人は、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」(1章19節)とエジプト王に答えたのです。これを聞いてエジプトの王が「ヘブライ人とはそういうものなのか。」と思ったかどうかは分かりません。しかし、こう答えられてしまえば、彼女たちを罰することは出来ません。これは嘘と言えば嘘です。しかし、ただの嘘ではありません。聖書はこれを嘘とは言わず、知恵と理解しています。そして、この知恵は神様が与えられた知恵なのです。神様は、御自分を畏れる者に知恵を与えて守られるのです。そもそも神様を畏れることこそ知恵の初めなのです。私共はこのことを覚えておいて良いでしょう。神様を畏れ、神様に従おうとするならば、困難な目に遭うことがある。すべてが順風満帆で行くわけではない。しかし、神様は知恵を与えて私共を守ってくださるのです。私共が自分の利益のためにひねり出す知恵は浅知恵、猿知恵です。しかし、神様の御心に従おうとする時に与えられる知恵は、神様が与えてくださる知恵なのです。

5.知恵を与える神様A
 さて、王はこの助産婦の言葉を聞くと、新しく全国民に対して「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。」(1章22節)と命じました。そういう時に生まれたのがモーセです。モーセは、生まれて三か月の間家で隠されていたのですが、もう隠しきれないとなって、防水を施した籠に入れられ、ナイル川の葦の茂みに置かれました。生まれて三か月の男の子です。このまま二、三日放って置かれれば、確実に死んでしまいます。しかし、ここにもう一人、神様に知恵を与えられた者が現れます。それはモーセの姉、多分、後に女性預言者として出てくるミリアムでしょう。彼女は、モーセを入れた籠の見える所に身を隠していました。するとそこへ、ファラオの王女が水浴びに来て、モーセの入った籠を見つけます。モーセは籠の中で泣いていました。王女はモーセを見つけて不憫に思いました。王は、イスラエルを弱くしなければ危ない、自分たちに反抗しないとも限らない、だから男の子は殺せと命じたわけです。しかし、たとえその様に王様に命じられていたとしても、目の前で泣いている赤ちゃんを放っておくなどということが女性である王女に出来るでしょうか。かわいそうに。助けてあげたい。そう思うのが普通でしょう。その心の動きを読んで、モーセの姉は出て来て、「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」と申し出るのです。「そうしておくれ。」と王女は言います。モーセの姉は早速モーセの母を連れて来ます。モーセは、自分の母親に引き取られて乳を与えられ、大きくなると王女の子として王宮で成長することになるのです。
 先程このモーセの姉を、神様に知恵を与えられた女性と申しました。私は、ここで起きたことは偶然ではなかったと思っているのです。王女が水浴びに来る場所、時間、それを彼女は前もって調べ、そして予測して、モーセが泣けば王女が気付く、そういう所にモーセを入れた籠を置いたのではないでしょうか。そして、赤ちゃんが泣く姿を見て王女が不憫に思うのを見計らって出ていく。見事なものだと思います。ここでは、自分の弟を思う愛、また息子を失って嘆く母への愛、この愛が彼女に知恵を与えたのでしょう。愛が生む知恵。それもまた神様が与えてくださる知恵だと思います。

6.事件を起こして国外逃亡
 モーセはエジプトの王女のもとで成長しました。この当時の最高の教育を受けたと考えて良いでしょう。しかし、大人になったモーセにこの環境が複雑な思いを与えたことは、想像に難くありません。自分はヘブライ人。同胞たちはエジプト人に奴隷として扱われている。しかし、自分はエジプト王女の子として育っている。自分は何者なのか。この様な思いがモーセの中に芽生え、次第に大きくなっていった。そう考えるのが自然でしょう。
 アイデンティティー・クライシスという言葉があります。自分が何者なのか分からない。帰国子女たちによく見られるものです。見た目は全く日本人なのに、日本語も日本の習慣もよく分からない。だったら、育った外国の人間となれるかと言えば、やっぱりその国でも簡単に受け入れられるわけではない。自分は何者か。そのような葛藤がモーセの中にも芽生えたのでしょう。
 そして遂に事件が起きます。ある日、モーセは同胞であるヘブライ人を重労働に服させている所へ行き、エジプト人がヘブライ人を打っているのを見ます。モーセは辺りを見回して、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して、死体を砂の中に埋めてしまいます。この時モーセはついカーッとなって殺したのだと言う人と、いやモーセは自分がヘブライ人であることをはっきり自覚し、同胞に対して何かをしなければいけない、そのような思いの中でこの犯行に及んだのだと言う人がいます。解釈が分かれる所です。私はどちらでも良いと思います。動機がどうであれ、結果ははっきりしています。同胞であるヘブライ人にも受け入れられず、エジプト王にも追われる身になったということです。2章14〜15節「『誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか』と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。」モーセがいくら同胞だと思ったところで、ヘブライ人にしてみれば、自分たちが重労働させられている時に王宮でいい生活をしている人間を受け入れようがなかったでしょう。また、エジプト王ファラオにしてみれば、飼い犬に噛まれたということで、激怒した。当然の成り行きです。彼には、今まで見てきた助産婦やモーセの姉のような知恵もなかった。この時のモーセには、神様を畏れる信仰も同胞を愛する愛も淡いものでしかなかったからでしょう。彼はミディアンの地に逃れました。国外逃亡です。

7.終わったと思っても終わらない
 ミディアンの地というのは、地図を見ていただくと分かりますが、シナイ半島の向こう岸です。エジプトの支配の外にある土地です。彼はそこに逃れ、その土地の娘ツィポラと結ばれ、子を生します。彼は、ヘブライ人でもなく、エジプト人でもなく、ミディアン人となってこの地で羊を飼い、昔のことは忘れて静かに穏やかに暮らす。そんなつもりではなかったかと思います。もうすべては終わった。そう思っていたことでしょう。しかし、終わっていなかった。モーセは終わったと思っていたでしょうが、しかし神様はそうは思っておられなかった。そして、モーセは出エジプトの出来事の中心人物として用いられ、立てられていくことになるのです。
 私共はしばしば、終わったと思う。もうこれでお終い。後はのんびりゆっくり余生を過ごせば良い。しかし実は、神様は終わったとは思っておられないということがあるのではないでしょうか。もっと言えば、「私は終わった」と思ったところから「神様の業」が始まるということではないでしょうか。神様の御業というものは私共の思いを超えています。私共の予定、私共の見通し、そんなことは関係ないのです。
 2章23〜25節「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」イスラエルの困窮は続いていました。彼らは労働のゆえにうめき、叫びました。神様に助けを求めて叫んだのです。その声は神様に届きました。神様はイスラエルの嘆きを聞き、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」のです。その契約とは、祝福の約束です。大いなる国民にするという約束です。カナンの土地を与えるという約束です。
 神様は約束を忘れないのです。そしてその約束を果たすために、約束の土地カナンへとイスラエルの民を導き上ることを決断されたのです。このイスラエルの人々を顧み、御心に留められる神様。この神様の御心が人の姿となったのがイエス様です。イエス様は、御自分のもとに来る、困り果てた人々を憐れまれました。そして癒された。その憐れみは私共の上にも注がれています。私共は困り果て、神様に助けを求め、祈ります。その声は確実に神様に届いているのです。私共はそのことを信じて良いのです。そして、時が来たのならば、神様は事を起こされるのです。でも、事が起きるまでは何も為されないのか。そんなことはありません。信仰に生き、愛に生きようとする者には、その時に応じて知恵を与えて導いてくださるのです。私共がもう終わったと思っても、終わりではない。神様の御計画があるからです。まだ神様の救いの御業の完成としての終末は来ていません。ですから終わりではないのです。終わっていないのてす。私共にはまだまだ、神様によって用いられ、主の証人として立てられていく道が備えられているのです。
 ちなみに、使徒言行録7章にはステファノが殉教する時の長い説教が記されておりますが、それによると、モーセがエジプト人を殺したのが40歳、そして燃える柴の中から主によって召し出されたのが40年後、つまり80歳ということになります。またアブラハムが召命を受けたのが75歳、イサクを生んだのは100歳です。  まだまだ、終わりにはなりません。私共には神様の御計画があるのですから。存分に用いていただいてまいりましょう。

[2016年2月28日]

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