富山鹿島町教会

礼拝説教

「イエス様の受洗」
イザヤ書 42章1〜9節
マタイによる福音書 3章13〜17節

小堀 康彦牧師

1.福音書に記されていること
 今朝与えられております御言葉は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことが記されております。この出来事はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書すべてに記されております。このことは、イエス様が洗礼をお受けになったという出来事が、イエス様が誰であるのかを記すに当たって、或いはイエス様が与えられる救いを記すに当たって、割愛出来るような、どうでも良いことではなかったということでありましょう。福音書というのは、イエス様が語られたこと、為されたこと、出会った出来事をすべて記しているわけではありません。イエス様の身長がどれほどだったかとか、好きな食べ物が何であったとか、そんなことは何も記されていないのです。そんなことは、イエス様が誰であったのか、イエス様による救いとは何なのかということと何も関係がないからです。福音書は、イエス様は誰であり、イエス様による救いとは何なのか、そのことを明らかにするために記されたものだからです。そのような目的で記された4つの福音書のすべてにイエス様が洗礼を受けたことが記されているということは、この出来事が、イエス様が誰であるか、イエス様によって与えられる救いとは何かということに関して、無視出来ない、とても重要な出来事であったということを意味しているのでしょう。それはどういう意味があることなのか。そのことを御一緒に見てまいりたいと思います。

2.正しい、あべこべの洗礼
 第一に思いますことは、どうしてイエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのか、受ける必要があったのかということです。
 洗礼者ヨハネは、罪を告白する者に洗礼を授けておりました。しかし、イエス様がヨハネの前で罪を告白したとは考えられませんし、イエス様がこの洗礼によって罪を洗い清められたということも考えられません。そのことは、14節にあります洗礼者ヨハネの言葉からも分かります。イエス様が洗礼者ヨハネのもとに洗礼を受けに来られた。そうするとヨハネはイエス様にこう言ったのです。14節「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」わたしがあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしから洗礼を受ける。それは全くあべこべです。順序が逆です。そうヨハネは言って、イエス様が自分から洗礼を受けられるのを思いとどまらせようとしたのです。それは、先週見ましたように、ヨハネは自分の後に来られるまことの救い主、メシアであるイエス様のために道備えをする者でしかない、そのことをよく自覚していました。11節「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」とありますように、自分の洗礼はただの水の洗礼だ。しかし、自分より後に来られるまことの救い主による洗礼は全く違う。聖霊と火によって私共の罪を焼き滅ぼし、私共を聖霊によって全く新しい者として生まれ変わらせてくださる、そのような洗礼だ。自分はその方の履物をお脱がせする値打ちもない。履物を脱がせるというのは当時は奴隷の仕事でありましたから、ヨハネは、自分はまことの救い主の前に出たら奴隷ほどの者でしかない、いやそれ以下だと言ったのです。そのまことの救い主が自分のところに来られた。そして、自分から洗礼を受けたいと言われた。ヨハネは、「ちょっと待ってください。それではあべこべではないですか。わたしはあなたから聖霊と火による洗礼を受けなければならない者です。わたしから水による洗礼を受ける必要なんてないではありませんか。」そう言ってイエス様に洗礼を思いとどまらせようとしたのです。私共もヨハネの言う方が正しいのではないかと思うかもしれません。
 しかし、イエス様はそれに対してこうお答えになりました。15節「今は、止めないでほしい。」イエス様に「止めないでほしい。」と言われたものですから、洗礼者ヨハネはイエス様の言葉に従って洗礼を授けたのです。更にイエス様は「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われた。今自分があなたから洗礼を受けることは正しいことなのだ、この正しいことをすることは自分たちにふさわしいのだと言われたわけです。この「正しい」と訳されている言葉は、「義」と訳されることが多い言葉です。神の義、神の義しさ、それが今あなたから洗礼を受けることによって全うされると言われたのです。つまり、今あなたから洗礼を受けることは神様が義しとされることであり、神様の御心に適うこと、神様が自分たちに望んでおられることを全うすることなのだ。そう言われたということなのです。大切なことは、このどう見てもあべこべと見えることが、どうして神様の御心に適うのか、神様の義が表れることになるのかということです。
 実にここにこそ、イエス様が誰であり、イエス様が与える救いとは何かということが示されているのです。確かに、救い主であられるイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるというのはあべこべなのです。しかし、このあべこべのところに、イエス様というお方が徹底的に「低きに下る神」であることが示されています。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることによって、完全に罪人と同じところに下って来て、そこに立たれたということなのです。このことは、イエス様が大工のヨセフを父として、まだ幼いと言って良いほどのマリアを母として、馬小屋にお生まれになった時から、犯罪人と一緒に十字架に架けられて死ぬまで、少しもぶれることのないイエス様のあり方でありました。イエス様は、全く罪のないお方でありながら、完全に罪人と同じところに下って来られた。それは罪の支配のもとにある私共を救うためでした。

3.濁流に身を投じて
 私は、このイエス様が罪人と同じ所に降って、そこに立ってくださったことをこんなイメージで語ることが出来るのではないかと思います。
 川が氾濫して木々も家も濁流に呑み込まれていく。その濁流に辛うじて立っている木に必死にしがみついている人がいる。力が尽きてしまえば濁流に呑み込まれてしまう。そうなったら、その人はもう助からない。その時、一人の青年が濁流の中に飛び込んで、その人を助けに行くのです。誰が見ても無謀です。二次災害が起きるに違いないとみんな思う。しかし、この青年は濁流の中に身を投じ、濁流を切り裂いて、助けを求めている人を助けるのです。彼はおぼれそうになっていた人をしっかりと抱きかかえ、清き岸辺に引き上げるのです。もう大丈夫。そうすると、彼は又濁流の中に飛び込んでいく。そして、次々と助け出して行くのです。一人を岸まで運ぶと、休む間もなく、すぐにまた濁流の中に飛び込んでいく。それがイエス様なのです。
 イエス様は、自分は安全な岸辺に立って、「頑張れ」と声で励ましているだけの方ではないのです。罪の濁流におぼれそうになっている私共のただ中に飛び込んできて、私共一人一人をしっかりとその腕に抱きとめて、清き岸辺に連れて行ってくださる、そういうお方なのです。

4.もう一正しいこと
 もう一つ、ここでイエス様が「正しいこと」と言われていることに意味があります。それは、イエス様が洗礼を受けるということが神様の御心に適うことでありましたが、それは同時にこの洗礼へとすべての罪人を招かれたということでもあるのです。イエス様は、御自分が洗礼を受けることによって、洗礼を受けることが正しいこと、御心に適うことだということを示し、そこにすべての罪人を招かれたということなのです。洗礼を受けなくても、聖書を読んで、お祈りして、礼拝を守っていれば、イエス様を信じていれば、同じではないか。そう考える人もいます。その人にとって、それは合理的であり、理屈に合っていることであり、正しいつもりなのかもしれません。しかし、それは全く正しくありません。それは決して神様の御心に適うことではないのです。それは自分の正しさであって、神様の御心に適う正しさではないのです。何故なら、それはイエス様が、私共と同じ罪人のところにまで下って来て、洗礼をお受けになった。そして、あなたも洗礼を受けて、わたしと一つに結ばれなさいと招いているのに、その招きを、「私にはそんなもの必要ありません。」と言っているのと同じだからです。それは傲慢であり、正しいことではないでしょう。イエス様がこのあべこべのことをしてまでも私共を洗礼へと招いてくださる、この思いを私共はきちんと受け止めなくてはなりません。
週報にありますように、K.H.さんが、入院しておられた立山町のF病院で昨日逝去されました。明日前夜式、明後日葬式がここで行われます。K.H.さんは2月2日に病床洗礼を受けられ、11日ほどして天に召されたわけです。K.H.さんのご主人も30年ほど前に、この教会が建て換わる前の富山総曲輪教会において葬式が為されました。K.H.さんの息子がK.T.長老であり、二人の孫はN教会の牧師と昨年逝去された金沢教会の長老。そして二人のひ孫もキリスト者です。K.H.さんの洗礼は病床洗礼でしたから、キリスト者となってと善き業をするなどということは何一つ出来ませんでした。祈ることも知らないままでしたでしょう。聖書もあまり読んだことがなかったでしょう。しかし、K.H.さんは最後にイエス様を信頼し、洗礼を受けたいと願った。そして、洗礼を受けた。それは、人生の最後に神様の御前に最も正しいことをしたということです。そして、K.H.さんはイエス様と一つにされ、神の子とされ、永遠の命に与る者とされ、神様の子として御許に召されたのです。

5.水の中から上がる
 さて、イエス様が洗礼を受けられた時の様子をもう少し見てみましょう。16節「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。」とあります。当時の洗礼は、ヨルダン川に浸されるというものでした。水の中にずっと浸されていたら窒息して溺れてしまいます。水の中に浸される、これは死を意味します。そして、水から上がるわけです。イエス様は洗礼を受けて、水の中から上がられた。これは死からの復活を意味しているのです。洗礼とは実に、罪の自分が死んで、イエス様の命、永遠の命、復活の命に生きる者となるということなのです。このイエス様の洗礼は、その後の十字架・復活へと繋がるイエス様の救いの御業を指し示しているのです。

6.聖霊が降る
 さて、イエス様が洗礼を受けられた時、16節に「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」とあります。これは、この時初めてイエス様に聖霊が降って、イエス様が神の子となったということではありません。父と子と聖霊なる三位一体の神様は天地が造られる前から永遠に一つであり、永遠の交わりの中におられます。この出来事は、聖霊なる神様が父なる神様から出て、イエス様を通して私共に注がれるという筋道を示しているのです。私共は直接神様から聖霊を注がれるのではなくて、イエス様を通して注がれるのです。また、この出来事は、父と子と聖霊の御名による洗礼において、私共に聖霊が注がれるということをも示しているのでしょう。実に、イエス様の洗礼は、私共が授かる洗礼の予徴、前もって与えられた「しるし」でもあるのです。私共は、洗礼によってイエス様と一つにされるということなのです。

7.神の御子としての即位式
 更に、17節において天からの声、つまり神様の声が聞こえました。この声を聞いたり、聖霊が降って来るのを見たのはイエス様です。その場に居合わせた人々が見たり聞いたりしたのではありません。イエス様は、天の父なる神様が御自分に向かって「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われる言葉を聞きました。イエス様はこの言葉によって、また聖霊が御自分に降って来るのを見て、遂に御自分の時が来た、神の子として歩み出す時が来たということを悟られたことでありましょう。その意味では、この洗礼はイエス様が神の子として即位した時と言っても良いでしょう。
 そして、このことを私共が授かる洗礼と重ね合わせて考えるならば、神の子・神の僕とされる私共の即位式もまた、洗礼の時であると言えると思います。私共は、洗礼によって神様の愛する独り子であるイエス様と一つに結び合わされます。そのことによって私共は神様の子とされるのです。ですから、その神の子としての歩みは、イエス様の歩みと重ねられていくことになる。イエス様が何よりも神様の御心に従うことを第一のこととされたように、私共もまた、神様の御心に適うことを何よりも第一とする者にされるということです。
 イエス様の、神の子としての歩み、御心に適う者としての歩みは、十字架へと続いていきます。自らの栄光を求めるような歩みではありませんでした。私共とて同じです。私共は、「ただ神にのみ栄光があるように」という思い、願い、祈りの中を歩む者とされたのです。それは神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える道です。まことの神の御子であるイエス様に似た者に変えられ続けていく道です。
 洗礼は、私共の救いの完成ではありません。そこから御国への歩みが始まっていくのです。その歩みはこの地上において完成されることはありません。しかし、洗礼によって私共が歩んでいく目標、目当てがはっきりするのです。そして、その歩みはイエス様に似た者に造り替えられ続ける歩みなのです。この歩みがどんなに不完全なままで終わったとしても、私共は終末において、イエス様が再び来られる時、復活させられ、イエス様に完全に似た者に変えられるのです。そのことを信じているから、私共は諦めない、投げ出さない、絶望しないのです。
 私共は、それぞれ厳しい現実の中を歩んでいるでしょう。自分の老いの問題、或いは介護の問題、子や孫の将来への心配、数え上げれば切りがありません。しかし、私共は洗礼を受けた者、イエス様と一つに結び合わされた者なのです。私共には御国があるのです。ここに私共の揺るがぬ希望があります。この希望の中、この一週もそれぞれ遣わされた場において、御国を目指して歩んでまいりましょう。私共はイエス様と一つにされている者なのですから。

[2016年2月14日]

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